見出し画像

コーヒーカップ

そっか、と君はいった。僕が話し終えてからずいぶん経っていたので、僕はおもわず聞き返した。そんなに間の空いた相槌があってたまるものか。しかも僕は相槌じゃなくて君の話をききたかったんだ。でもそれっきり君はまた黙りこんだ。

君がなにも言わないあいだ、僕の方もだまってコーヒーカップを見ていた。ほかに見つめるべきものはなかった。少なくとも、黙って見つづけるには退屈なものたちしかなかった。窓のそとは建物の壁だし、時計はもうほとんど止まっているようにみえた。君が「そっか」と言ったときも、僕はコーヒーカップを見ていたし、その視線を戻さないまま次の言葉を待っている。それは暗い紺色のコーヒーカップだった。上から下までおなじような紺だった。ざらりとした手触りで、つつむように持っているだけで体温によくなじんだ。カップは持ち上げられるたびに中のコーヒーがゆれた。こげ茶いろの線が模様を編んで乾いていった。君がなにかいうのを待つあいだ、ときどき僕はそのコーヒーカップに唇をつけた。時間が経って液体がなくなっても、コーヒーを飲むしぐさをした。夜の色をした陶器がくちびるにふれる。意味はなかったけど、それ以外にすることもなかったのだ。僕は話し疲れていたし、君が話すのを待っているのだから立ち上がることもできなかった。

君が「そっか」と言ってからまたずいぶん経った。そもそも、あれは僕の空耳なのかもしれない。暗い紺色のコーヒーカップ。体温になじむざらりとした表面。僕はコーヒーカップからようやく目を離して、君の方を見た。

君はいない。空っぽの椅子だけがそこにある。部屋はいつの間にか硬く冷えきっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?