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「頑張るのはカッコ悪い」と思っていた私が、自分の意思で頑張れるようになった話(自己紹介note)

年の瀬、これまでの自分をふりかえる良い機会だと思い、自己紹介noteの筆を執りました。書いてるうちになんかポエムっぽくなってたので、もう潔くポエムとして公開することにしました。タイトルは完全に後付けです。
前作『新卒でベンチャーに行くのは「もったいない」のか』に引き続き自分語り強めな文章にはなってしまいますが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
願わくば、周りの目を気にして頑張れなくてくすぶっている誰かや、なんとなく不幸せだと感じている誰かにも届きますように。

勉強ができるのは「かわいくない」?

まずは(辛うじて自己紹介っぽい)バックグラウンド紹介から。両親は共に大分県の生まれで、私も大分生まれ、中学校3年生の9月頃までずっと同じ場所で育ちました。小学生の頃から作文や名文暗記、自然観察などが好きでした。図書館にあった「ファーブル昆虫記」を読んで虫とりに出かけたり、植物図鑑を小脇に抱えて山に入ったり、イソギンチャクに魚肉ソーセージを食べさせてみたり、磁石を袋に入れてその辺を歩き回って砂鉄を集めてみたり…と、なかなか知的好奇心旺盛な(?)子どもだったように思います。

学校の勉強もそれなりに好きだったのですが、私が小学生だった頃、「勉強ができる」というのは少々やっかまれるポイントでもあったようでした。「またそんな難しい言葉ばっかり使って」と煙たがられ、幼心にショックを受けたことを未だに覚えていたりします。

(あくまで当時の話ですが)勉強ができる子は「かわいくない」という雰囲気があの頃の地元にはなんとなくあったようでした。自己肯定感が低く、「嫌われたくない」という思いを強く持っていた私は、「勉強頑張っていない人」に見られようと必死でした。授業中わざとらしくノートに落書きをし続けたり、テスト期間にあえて遊びの予定を入れたり。
「ガリ勉」という不名誉な称号を得ないようにすることが、当時の私にとって、それはそれは大切なことでした。テレビや友人の噂話で「ガリ勉」という言葉を聞くたびに、「自分はそう呼ばれたくない」と身を固くしていました。
…今思うと「ガリ勉」ってなんだよって感じですけどね。勉強・スポーツ・芸術…なんにせよ、頑張る人は素直に応援される世の中になると良いなと切に思います。

中3の秋、突然の転校。井戸の外は広かった。

そんな感じでゆるゆると生きていた私ですが、中3の秋、父親の仕事の都合で突然転校することになりました。引っ越し先は三重県。「卒業前のイベントも一通り終わって、残すは高校受験のみ!」という雰囲気のクラスに馴染むため、まずは言葉からだと必死に大分弁を抜きました。(ちょっと後悔)

そして転校先の中学校で受けた数学のテストで、私は人生初の60点台をとることになります。あんなに解けないテストは初めてでした。「えっ、同じ公立なのにこんなに違うの…?」と凄く焦りました。時は中3の10月。受験までもう数ヶ月しかありません。
勉強頑張らないキャンペーンをしてはいたものの、大分にいる頃に受けたテストではどの科目でも95点~100点くらいとれていました。それが三重県では60点。授業中の挙手・発言も盛んで、自分が得意としていたはずの領域で置いていかれることへの焦燥感に襲われました。井の中の蛙大海を知らず、という言葉が脳裏をビュンビュンよぎります。行きたいと思っていた高校の偏差値は60後半。これはやばい。

冬休みの頑張りもあり、それでもなんとか無事に高校入試を突破することに成功しました。定期テストの点によってクラスが分かれる科目もありましたが、一番上のクラスにいるからといってやっかまれることは全くなく、むしろ「すごいね!!どうやって勉強してるのか教えて!」と声をかけられることも増えました。先生から「この問題は難しいから、〇〇さんに答えてもらおうかな!」と振られて正解すると、「おお~」という雰囲気にもなったり。
頑張ったら褒められるというのは、当たり前ながらとても良いものでした。環境の力というのは本当に強烈なもので、あんなに勉強頑張らないキャンペーンを開催していた私が、板書もテスト勉強も楽しくてたくさんするようになりました。

そう、数学以外は…。

「自分で決める」とはどういうことか。受験に落ちてはじめて気づいた、大切なこと。

突然ですが、私は数学がとても苦手です。高校の定期テストで6点をとったこともあります。学年順位も下から数えて10本の指に入るほどでした。それでも「他の科目は得意だし、ゆーていけるやろ!」と謎の余裕をかまし、苦手と向き合うことから逃げてしまっていました。

そして挑んだ京都大学入学試験。
数学では200点満点中37点しかとれず、他の科目もそれほど振るわず、合格最低点から100点以上引き離される形で落ちました。

当時の担任の先生へ、報告の電話をしました。落ちちゃいました、と。

「大変だとは思うけど、後期試験は頑張って受けにいきなさい。」

「今さらなんですが、私すごく京大に行きたいんです。もう1年頑張ってみようと思っています。だから後期は別に…」

「その場合、あなたは『他に選択肢がないから』浪人の道を選ぶことになります。今はそれでも納得できるかもしれませんが、もう1年頑張るというのは想像以上に大変なものです。もしかしたら途中で諦めたくなってしまうかもしれません。

そんな時、きっとあなたの支えになるのが『自分で選んだ』という思いです。

後期を受けて、しっかり受かって、そこから自分の意思でどうするかを決めなさい。選択肢を自分から捨てるようなことをしてはなりません。」

当時の私はこの言葉の意味をそこまでよく理解できていませんでしたが、実際にちゃんと後期を受けて、受かったうえで浪人の道を選んでみると確かに、それまでの私には欠けていた覚悟のようなものが芽生えました。

1人で下宿して過ごした浪人生活、1年を通じて遊んだ日は1日だけだったと思います。周りには自習室を出て遊びに行く人たちもいましたし、遊びに誘われることもありましたが、「私は今は勉強を頑張るんだ」「試験の日、これだけ頑張って無理ならもう縁がないんだと思えるくらいにならなきゃ」という強い意思を持ち続けることができました。周りの目を気にして頑張ってない風を装っていた頃とは大違いです。人って変われるんだなあ(しみじみ)。

価値基準を内側に置くこと、環境を選ぶこと。

頑張れなかった時期の私は、価値基準を自分の外側に置いて「周りからどう見えるか」を気にし過ぎていました。
月並みな言葉にはなりますが、価値基準を自分の内側に置いて、自分で選んだ道を正解にしていく覚悟を決める力があるかどうかは、「自分を幸せにするために頑張れるかどうか」に大きく影響するのではないかと思います。

価値基準を外側に置くと、「自分はどうしたいのか」という部分が曖昧になりがちです。そして恐ろしいことに、自分が自分の生き方について主体的に考えていないということに気づくことすら、結構難しいことだったりします。就活を始めてやっと「自分は何をしたいんだ…?」と考え始める人も、まだまだ多いように見えますし。(これは私もそうだったので大ブーメランが痛い)

そして、もう一つ重要だと思うのが環境の力です。
周りが誰も応援してくれない環境で頑張り続けるのは、よほど強靭な精神の持ち主でない限り厳しいのではないかと思います。

世界も世間も自分が思っているよりずっとずっと広くて、自分が頑張りたいと思っていることを応援してくれる環境はきっとどこかにあります。
もし周りの人が「そんな態度では世間じゃ通用しないぞ!」なんて脅してきたとしても、それはその人の範疇の中での「世間」に過ぎないので、その外に出向いていけばそれで良いだけの話だったりします。もちろん金銭的な制約などですぐに出れないこともあるかと思いますが、「合わないのであればその環境から抜け出す」という選択肢は、常に頭の中に置いておきたいものです。

そして、自分にぴったりの環境に出会える確率を上げるためにも、「自分はこういうことがやりたい!」という発信は大切だと感じています。最近はSNSやブログ等、発信の場も広く開かれていますし、発信することで「自分のやりたいこと」を実現できる環境にいる人が気づいて声をかけてくれたりするかもしれません。(実際、弊社でも『やりたい!』と言えば誰かしら詳しい人が手を差し伸べてくれています。ありがたや。)
せっかく発信を簡単にできる時代に生まれたのだから、そういう思いを叫び続けられる人でありたいものです。

…さて、この辺りで私の自己紹介ポエム(?)はおしまいです。長文にお付き合いいただきありがとうございました!

次回は2020年の抱負ということで、マーケターという仕事について今考えていることをつらつら書くつもりでいます。

それでは皆さま、来年も良きnoteライフを!


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