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「日本の笑い」を世界に 〜カナダ人落語家の挑戦 〜

落語家として活躍されている桂福龍さんのインタビュー記事です。「編集・ライター養成講座 総合コース 42期」(宣伝会議)の卒業制作として、優秀賞をいただきました。

 カナダ マニトバ州のウィニペグで育った「桂福龍」ことデリック・ケイバーズさんは、英語、フランス語、関西弁を操るトリリンガル。マニトバ大学でコンピューターサイエンスの学士号を取得した翌年2001年に来日。英語講師の経験を得て英会話スクールを経営する。そんなマルチな才能を持ったデリックさんが最後に選んだのは、日本の伝統芸能を継承している「落語家」への道でした。

落語ホリックのはじまり

 JR大阪駅直結のホテルラウンジの前で待っていたのは、アロハシャツに明るい色のハットを身につけ、小さなスーツケースを持った外国人男性。一見、ハワイからの観光客に見える彼が、端正に着物を着こなし、扇子と手拭いを持って高座に上がり、おもしろおかしく噺をして観客を笑わせている「落語家」だとは、すれ違った人は思いもしないだろう。声をかけると、「日本語は大阪弁しかしゃべられへんです」と茶目っ気たっぷりな笑顔で迎えてくれた。そんな彼は、上方落語界の重鎮、桂福團治さんの十一番目の弟子、桂福龍さんである。

 福龍さんが落語と出会ったのは、来日して10年が経った2011年。今は亡き、「上方落語の爆笑王」と呼ばれた伝説の落語家、桂枝雀さんの「動物園」を日本語で見たことがはじまりだった。

「落語のすごいところは、一人の噺家がお父さん、お母さん、子供、犬、すべての役を演じわけること。多分、日本語がわからない外国人が観ても、雰囲気で理解して楽しめると思う」

 初めて観た「動物園」も、すべての日本語は理解できなかったが、噺し方や役の演じわけ方でイメージができたという。枝雀さんのキャラクターやオーバーなリアクションが気に入り、落語にはまるきっかけとなった。

 落語のおもしろさに魅了された福龍さんは、週に2、3回、天満天神の繁昌亭の寄席に通った。「当時はそうとうな落語ホリック(中毒)になっていました」と笑いながら語る。次第に観るだけでは物足りなくなり、アマチュアの英語落語クラブ「おふく寄席」に入会した。

「初めてクラブに行った日、僕は落語の練習をするだけかと思っていたんだけど、みんな落語を披露していました。僕もやってみないかと聞かれて、戸惑いながら、英語講師のときによく子どもたちに聴かせていた「三匹の子豚」を披露しました。最初はみんなびっくりしていたけど、結構受けていましたね(笑)」

 その後は、自分で古典落語を英語に翻訳し、アマチュア落語家「龍来彼方”(デュークカナダ)」として活動をはじめる。

 アマプロとしての初舞台は、東京の大学で開催された文化祭だった。大ホールで「寿限無」をオリジナルにアレンジした英語落語を披露したところ、観客は大人しく、関西ではいつも笑いが起るところで静まり返っていた。観客の反応にショックを受けつつも、動揺を隠しながらオチまで噺を続けた。

「終わった瞬間に『すごい、おもしろかった!』って大きな拍手が起こったんです。あとで観客の一人に、なぜ落語の最中に笑わなかったのか聞いたら、『話の邪魔をしたくなかった』って言われて、西と東の違いを実感しましたね」

 落語の世界にも関西と関東では文化の違いがあるようだ。江戸時代中期に「上方(大阪・京都)」と「江戸」ではじまった落語は、それぞれの土地で独自の発展を遂げた。上方落語は最初、大道で演じられていたため、通りすがりの人に観てもらえるように、大きな声をだし、道具を使って音を立て、注目を集めた。三味線や鳴りものを使った華やかな演出は、今でも上方落語に受け継がれている。比べて江戸落語は、はじめから屋敷の中で演じられた。大きな笑いが起こる上方落語とは違い、静かに聴く習性ができた江戸では、粋な人情噺が浸透した。

「大阪だったら、ものを食べる仕草をしたとき、『おいしそう!』って、声をかけてくれる。僕は関西のにぎやかな感じが好きだな」

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〜大阪市北区天神橋にある天満天神繁昌亭の外観〜

YouTubeで「RAKUGO」を配信

 英語落語の起源を説明するには、生みの親である桂枝雀さんについて話さないといけない。枝雀さんは、若いころから英語教師か落語家を目指していた。高校生のころから英語の専門書が読めるほど語学力はずば抜けていたという。神戸大学を中退し、本格的に落語家になったあとも英語への想いは消えず、HOE英会話学校に通っていた。そこの代表である山本正照さんとタッグを組み、山本さんが英語に翻訳した落語を枝雀さんが演じたことが、英語落語のはじまりとなった。そのHOE英会話学校に通っていたのが桂文枝一門の桂かい枝さんだ。かい枝さんは、2人の英語落語の精神を引き継ぎ、何度も海外公演を成功させている。

 そんなかい枝さんと福龍さんが出会ったのは約10年前、福龍さんがアマチュアとして活動していた時期である。福龍さんは、山本能楽堂で月に一度開催される英語落語の公演で、初めてかい枝さんの落語を観た。そして公演が終わり、能楽堂の付近を歩いていたところ、かい枝さんとばったり出くわしたそうだ。そのときは一緒に写真を撮りながら軽い会話をして、「アマチュアだけど英語落語をやっています」とだけ伝えた。その数か月後、繁昌亭の昼席を観たあと、福龍さんは近くのカフェに立ち寄った。

「カフェのカウンター席に座っていたら、かい枝師匠から『デューク!』と声をかけられました。まだ2回しか会ったことがないのに、僕の名前や、趣味で着物を作っていることまで知っていて、『なんで知っているの?』って聞いたら、『あなたのFacebookよく見てるよ』って(笑)。そこで連絡先を交換して、一緒に公演をするようになりました」

 今では同じ「桂」という名前で公演をまわっているため、周りから同じ一門だと勘違いされることもあるという。

「かい枝師匠に『なんでうちの弟子にならんかった』と聞かれたことがありました。当時、かい枝師匠は弟子を取らないと聞いていたので声をかけなかったのですが、もし同じ一門で一緒にやっていきたいと思ってもらえていたのなら、うれしいです」

 一門の垣根を越えて仲が良い2人は、ともに国内や海外で英語落語の公演を行い、日本の笑いを世界に届けようと活動している。

「海外の人からすると、日本人は『まじめ』で『笑い』のイメージはないと思う。僕も日本にくる前はそう思っていたけど、落語に出会って変わった。海外の人にも日本伝統のお笑い『RAKUGO』をもっと知ってもらいたい」

 2020年は、数カ国で海外公演を予定していたが、コロナウイルスの影響ですべて中止になってしまった。公演の開催が難しいなか、2人はYouTubeで「英語落語チャンネル」を開設し、コロナ禍でもインターネットを通して、世界に「RAKUGO」を発信している。

運気を上げた「ALOHA寄席」

 リラックスしたスタイルを好む福龍さんは、アマプロ時代から近所にあるハワイアンテイストのダイニングバー「アロハスピリット」に足しげく通った。お気に入りは、ジューシーで柔らかいスペアリブ。「ここのスペアリブは世界一」と笑顔で断言するほどだ。

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〜大阪府豊中市「アロハスピリット」のスペアリブ〜

「ここは、僕のパワースポットでもあるんです。ここに通いはじめてから仕事が増えて、良いことがいっぱい起こった」

 2015年、初めてアロハスピリットに来店した日、店主の仲田さんは「やっと来たんや」と思ったそうだ。

「以前から、よくお店の前を歩いているのを見かけて気になっていたんです。いつもアロハシャツにウクレレを持っていて、お店の雰囲気とも合うから一回来てくれたらいいのにって思っていました。だから来店したときも初めてな感じがしなくて(笑)」

 明るい陽気な性格がお店の雰囲気と合い、すぐに打ち解けて即興で英語落語「寿限無」を披露した。

 仲田さんは福龍さんの英語落語に興味を持ち、兵庫県三木市で開催された公演にも足を運んだ。

「カナダの方なので英語がとても聞き取りやすくて、あとジェスチャーが大きいところもわかりやすくて良かったです。福龍さん以外にも何名か演者さんがいらっしゃったんですけど、福龍さんの番のときに周りから『あの人良いよね、すごいよね』って声が聞こえてきて、私も一緒にすごいなって思っていました」

 初めて生の落語を観て楽しめた仲田さんは、その後お店にきた福龍さんと落語の話しで盛り上がり、アロハスピリットで落語会をしないか提案した。それが、福龍さんの運気を上げた「ALOHA寄席」のはじまりとなる。

 ALOHA寄席は、お店の奥の隠れ家のようなスペースを高座に見立て、月に一度ほどのペースで開催された。福龍さんの陽気さが前面にあらわれた落語が地元の観客に受け、店内ではお客さんの大爆笑が響いていたという。毎回満席で立ち見がでるほどの人気ぶりだった。ALOHA寄席の勢いある反響から、寄席をはじめた翌年2016年には、「ALOHA寄席 in 沖縄」を開催することが決まった。そして、その後も何度か開催することになる。沖縄でのエピソードを仲田さんが語ってくれた。

「沖縄に行ったとき、会場の近くのお店に寄席のチラシを配っていたんです。そこで、FM沖縄のラジオ局にも行ってみることになって、突撃して宣伝をお願いしました。たまたまその日のパーソナリティの方が、少し前に大阪に行っていたみたいで、『ラジオで大阪の話しをしようと思っていたら、突然大阪から変な外国人がやってきた』って言われました(笑)」

 パーソナリティと意気投合した福龍さんは、そのままラジオに出演。最初は10分だけの予定だったが、結果的に30分以上フルで出演した。誰とでも仲良くなれる気さくな性格が、人を惹きつける噺家という職業にも生かされているのかもしれない。仲田さんにとって、福龍さんはお店のお客さんという関係だけではなく、兄弟みたいな存在だという。通りすがりからはじまった出会いが、一人の落語家の道を大きく開くきっかけになった。

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〜アロハスピリットの仲田さんご夫妻と福龍さん。取材で訪れた2021年6月27日は開店8周年の記念日だった〜

プロへの厳しい道のり その先を目指して

 落語にはまり、寄席に通っていた2011年、福龍さんは初めて桂福團治さんの落語と出会った。笑いを求める上方の文化ではめずらしい「人情噺の名手」と呼ばれる福團治さんの落語に感動し、それから5年かけて弟子入りを認めてもらった。

「師匠は『手話落語』のパイオニアでもあり、僕はそこも尊敬しています」

自己紹介の手話を慣れた手つきで見せてもらった。

「初めての稽古の日、師匠の家の最寄り駅で師匠のマネージャーさんと待ち合わせをしていました。師匠は駅近くにあるお店の2階のカウンターから僕たちを見つけて、マネージャーさんと手話で会話をはじめたんです。それを見て、『手話ってめっちゃ便利やな』と思いました。手話ができると、もっといろんな人に落語を知ってもらえます。僕もいつか手話落語ができるように、少しずつ学んでいるところです」

 プロの落語家になるには、落語家の師匠に弟子入りし、厳しい修行をとおして芸やしきたりを身につけないといけない。「前座」「二ツ目」「真打」の階級制度がある江戸落語とは違い、上方落語は、修行を終えると晴れて年季が明けて、一人前になることができるそうだ。

「弟子入りしたてのときは、本当に大変でした。噺を覚えないといけない、ハメモノ(太鼓などのお囃子)を覚えないといけない、着物のたたみ方を覚えないといけない。あと、師匠のお手伝いも弟子の仕事です」

 師匠との待ち合わせでは、師匠よりも早く集合場所で待つ。師匠の荷物を持って歩き、先回りしてドアを開ける。寄席では着替えを手伝い、1分でしわひとつなく着物をきれいにたたむ。福團治さんはとても元気で歩くのが速く、ついていくのが大変だったそうだ。荷物を持って必死に師匠を追いかける姿は、「まるで泥棒を捕まえるために走っているみたいだ」と師匠のマネージャーに笑われたこともあった。

 日本人でも厳しいと思う落語家の修行をどう乗り越えたのか、そこには福龍さんよりも先にプロの世界に足を踏み入れた、同じカナダ人の落語家、桂三輝さんの激励があった。

「入門前に、三輝さんと話す機会がありました。『修行中は厳しいことが多い。でも大変なことにはいつか終わりがくる。3年がんばって年季が明けたら少し楽になるから、ギブアップしないでやろう』と励ましてもらいました」

 2001年、故郷のカナダを飛びだして日本に来たときも、同じようなアドバイスをもらったという。

「来日する前に、日本で働く予定をしていた英会話スクールの先生から『とりあえず2年間は我慢してください』と言われました。カナダに帰りたい気持ちがでてくるかもしれないけど、2年がんばったら、日本の生活にも慣れてくるからって」

 来日して2年間、初めての異国の生活に慣れず、ホームシックになることもあったそうだが、そのアドバイスを思い出してがんばっていたら、いつの間にか20年の歳月が経っていた。

「修行中は師匠や兄弟子に怒られて、へこんだこともありました。でも怒ってもらえることは、気にかけてもらえているということ。うまくなってほしいという気持ちが伝わるから、もっとがんばろうと思えた」

 落語の世界では、師匠や兄弟子から噺やお囃子の稽古をつけてもらう。「お金は払わずに、すべてギブアンドテイクとペイイットフォーワードだ」と福龍さんはいう。弟子たちは先人の芸を受け継ぎ、次の世代に伝えていく。江戸時代に生まれた落語が400年かけて少しずつ変遷しながらも現在に生きているのは、そういった習慣の賜物なのかもしれない。

進化しつづける生粋のパフォーマー

 カナダの中央部に位置する自然豊かなマニトバ州ウィニペグで生まれ育った福龍さんは、6歳からバルーンアートやマジックを習い、12歳のころには難易度の高いエスケープ(脱出)マジックをステージで披露していた。子どものころから、パフォーマンスで人を楽しませることが好きだった。

 高校生のころは、学校で日本語や日本文化の授業を受けていたという。交換留学生としてカナダに来ていた日本人の友人もできた。大学卒業後、その友人を頼りに来日し、初めて住んだのは兵庫県の尼崎市。フレンドリーな人は多かったが、当時は英語ができる人が少なかったそうだ。そこで鍛えられた関西弁が、いま上方落語にいかされている。

 来日後、2年間の英会話講師の経験を得て、自ら英会話スクールを設立する。本格的に落語家を目指すまでの10年間は、社長として経営していた。そんな地位や収入を捨て、プロの落語の世界に飛び込んだ福龍さんは、2018年の10月に修行を終えて、晴れて羽織を身に着けられる立場となった。古典落語に英語を少し取り入れた独自のスタイルで落語を披露している。

「海外の人に落語を広めたいのはもちろんだけど、日本の若い人たちにも興味を持ってもらいたい。『落語は古いからつまらない』という人がいるけど、なぜ400年間も続いているのか考えてみてほしい。おもしろくなかったら途中で廃れていたと思う。若い世代にも魅力を伝えられるような落語家になることが、僕の目標です」

  最後に、この記事のサゲ(オチ)として謎かけを作ってもらった。
「おもしろかった寄席とかけまして、お気に入りの着物ととく、その心は、どちらもまた来た(着た)くなるでしょう」

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〜高座で一席披露する福龍さん。フィリピン ダバオ公演にて〜

参考文献
・高島幸次「上方落語史観」140B
・文化デジタルライブラリー
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/geino/rakugo/rakugo.html
・公益社団法人 落語芸術協会
https://www.geikyo.com/index.php

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