私的ゲーム史3 ファミコン
実は紆余曲折あったファミコン
僕はファミコンを発売日当日に購入した訳ではないし、そもそもその存在すら認識していなかった。僕がゲームに興味がなかった訳ではない。当時は大抵の人が同じような状況だった。
ファミコンの発売は1983年7月15日。それまでの玩具業界でゲーム機のトップシェアを獲得していたのは恐らくはエポック社のカセットビジョンだった。しかしその販売台数は40万台強と、その後の1000万台クラスの売り上げを誇ったゲーム機からすれば雀の涙でしかない。この頃のゲーム機というモノが世間ではまだ所詮はその程度の認知度でしかなかったということだ。しかもファミコンの業界参入は後発であり、コロコロコミックなどの雑誌掲載では比較記事でも他社製品に比べて優位性を示す結果は出せておらず、ことさら注目すべき製品とも思われていなかった。
そんな訳で当初は有象無象の一つとして発売が開始されたファミコンだが、いざ市場に出回るとバランスの良いハード性能と、それを基盤とした良質なソフトに支えられ、順調に販売台数を伸ばしていった。もっとも、四角いゴムボタンのにじり押しによる故障や、カセットの熱暴走による不具合などで回収騒ぎにも発展したりと、任天堂としては波乱の日々だったことだろう。ただそれでも、それまでの常識では玩具店に商品がなければ他社のハードを買って帰るのが当たり前だった子供たちが、ファミコンでなければダメという入荷待ち、指名買いという意識改革まで生み出しており、実際には回収騒ぎもどこ吹く風であった。結局、ファミコンは登場から1年を待たずしてあっという間に100万台を突破、さらにはロードランナーやゼビウスといったミリオンセラーの発売も影響して、1984年末には既に累計販売台数が400万台を超えるものとなっていた。この頃になるとファミコンは、いくら出荷しても需要に全く追い付かず、品切れ状態を繰り返すこととなったが、ブームは下火になることもなく、いよいよ任天堂の独り勝ち状態となっていった。そして来たる1985年9月。ゲームに興味のない人にすらその名は知れ渡たり、ゲーム機=ファミコンという認識を世の中に植え付けたと言っても過言ではない程に世間を騒がせた、あの「スーパーマリオブラザーズ」が遂に発売されることとなる。
伝説の攻略本「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本(徳間書店)」
攻略本。今でこそ攻略サイトにその役割を追われ、人々の関心からはとんと離れてしまったが、情報があったからと言っておいそれとはゲームクリアなどできないゲームが多数存在し、しかもそうした情報はおろか公式の情報にすら簡単にはたどり着けなかった時代、少なくとも僕にとっては、攻略本は身近に触れることのできる貴重な情報源であり、それ自体が読み物としてのエンタテイメントだった。
そんな攻略本がベストセラーとして、日本の頂点に立ったことがあった。しかも2年連続という、他に類を見ない状況を生み出した伝説的な攻略本こそ「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」である。この本は1985年10月31日が初刷となっており、世界的ベストセラー書籍であったリー・アイアコッカの自伝「アイアコッカ わが闘魂の経営」の人気をわずか2ヶ月程度でいともたやすく抜き去り首位を奪ったのだから、当時は知らなかったこととはいえ実感していたブームの勢いというものが、如何にものすごいものだったか、改めて驚かされる。そして本体もソフトも買わず、先にその攻略本を買ったことこそ、僕とファミコンの関わりのはじまりだった。
「スーパーマリオブラザーズ(任天堂)」
攻略本がそれだけ売れたのだから、当然ゲームソフトも売れに売れた。どうやらファミコンの「スーパーマリオブラザーズ」ってのが面白いらしい。そんな噂話が小学生のネットワークを駆け巡り、日本全国どこの学校もその話題でもちきりになった。前述の通りもはや本体もゲームソフトの品切れ状態は慢性的なモノとなり、欲しくても買えない子供が続出した。そうした影響もあってか、ファミコンのある子供の家は放課後のたまり場と化し、一台のファミコンを囲んで「そこに1UPキノコがあるよ!」「もっとギリギリでジャンプしないと!」「スゲー、なにそれワープ?!」など、あーでもないこーでもない、時にはヤジとも言えるような言葉も飛び交いながらみんなで楽しむ光景が全国各地に広がった。ゲームは所詮は子供の玩具と高をくくっていた大人も、そのブームの大きさに掌を返すようにこぞって話題に取り上げた。連日テレビでは番組の種類を問わず、ニュースやバラエティ番組、深夜の大人向け情報番組までもが特集を組んだ。動画配信サイトなどにはそうした当時の映像が上がっているが、お堅い番組で解説する大人が如何にゲームを軽んじていたかがよくわかる。その様子は今見ると少々滑稽ですらあるが、それくらい「スーパーマリオブラザーズ」を知らなければ話題に乗り遅れてしまうという危機感があったのだろう。まあ敢えて僕がその面白さを詳しく説明する必要もないとは思うので、ここではその辺は省略するが、今更であっても1度プレイしてみれば、何がそれほどまでに人々を魅了したのかの片鱗くらいは理解してもらえると思う。
幸いなことに、僕には祖父という強い味方がいた。まだまだ話題も冷めやらぬ入手困難な最中ではあったと思うが、祖父はファミコン本体と「スーパーマリオブラザーズ」を僕に買ってきてくれた。僕の部屋は祖父の寝室でもあったので居間とは別の小型のテレビがあり、そのおかげもあって暇さえあればスーパーマリオブラザーズ三昧の日々だったように記憶している。少し出遅れた感もあったので、みんなで遊ぶよりもひとり黙々とプレイしていたが、内心は大興奮だった。別に宿題をやらなくなったとかそういうことはなかったと思うが、それでも一日中やっていたせいで、テレビには祖父お手製の木箱の蓋がされるようになり、あまりに長くやっているとその蓋に鍵がかけられた。もっとも、明確な時間が決まっていた訳でもなく、開けっ放しのことも多かったので、それほどプレイが制限された記憶もない。むしろ夜遅くにこっそりイケナイ番組を見ることが出来なくなって…と、それはファミコンの話題とは関係ないのでおいておこう。
おじいちゃんは忍者か「忍者ハットリくん(ハドソン)」
正直、ファミコンのソフトは必ずしも発売日に買っていた訳でもなく、何なら自分が買って貰った記憶のないものが結構ある。もちろん借りパクした訳ではなく、いつのまにか祖父が買って来たり、兄や妹が買って貰ったものだと思うが、二人は大してファミコンで遊んでいなかったので、結局は僕が遊ぶソフトが増えているだけだった気がする。そんな感じだったので、何をいつ手に入れたのか、経緯はほとんどよく覚えていないので、ここでのソフトの話題の順番は順不同となる。
と、書いておいて早々だが、もちろん印象深いものもあった。そんな一本が「忍者ハットリくん」。ハドソンとしては移植モノでない初のファミコン用オリジナル作品で、内容は藤子不二雄原作の同名マンガ、アニメを題材とした横スクロールアクションゲーム。累計出荷本数が150万本と、ファミコンでは最も売れたキャラゲーと言われている。この頃になると、コロコロコミックや、ファミリーコンピュータマガジン(通称ファミマガ)などの専門誌でも、多くの情報が共有されるようになっていたこともあり、僕も前以って期待値の高いソフトとして発売日(1986年3月5日)もしっかり把握していた。当日には学校でも友達との話題に上ったりして、予約こそしていなかったがやっぱり欲しいなぁと思っていたことも覚えている。「ゲームを買う=祖父に買って貰う」だったので、帰ったら頼んでみようと思っていたのだが、いざ家に帰ってみると思いもよらない事態が起きていた。まだ祖父には欲しいとも何と言っていなかったはずの「忍者ハットリくん」が、なんと既に購入済みだったのだ。さすがにこの時ばかりは祖父の先見性というか、奇跡的な行動というかに驚きを隠せなかった。情報収集能力はそれこそ忍者さながらである。この出来事は今でも強く記憶に残っている。
誰なんだお前は「ロックマン(カプコン)」
入手の経緯でいえば一風変わったものもある。実はそのソフトは買っていない。もちろん盗んだとかそういうことではない(なんだか出だしが前述と同じ気がしなくもないが)。それは僕自身も忘れていたある日のこと。兄弟同然に育った従兄弟の家でファミマガを読んでいた時のことだった。ふと目にした懸賞の当選者発表欄にある名前。あれ?僕の名前!?…ではないな、コレ。そう、僕の名前とよく似た名前を見つけたのだ。実は僕の苗字はかなり珍しく、普通に生活していて見かけることはまずない。ところが、下の名前の方はというと極ありふれた名前なのだ。そんな同じ苗字で下の名前がよく似た記載がファミマガに掲載されていた。よく考えたら、懸賞はがきを出した記憶もある。誤植と言われれば誤植な気がする。しかし、苗字の方ならまだしも、ありふれた下の名前の方を間違えるだろうか。そんなモヤモヤした状況を発見したまま、確か1ヶ月以上は待たされた気がするが、結局のところ当選したソフトは届いた。それがカプコンの「ロックマン」だった。今ではシリーズが何十本と続く超有名作品だが、当時は1作目ということで、まだどんなゲームかもわからないまま応募していたが、こんな形で名作を知ることが出来たのは本当にラッキーだったように思う。ちなみに送付先の名前はちゃんと正しく記載されていました。
イチゴだ!カニだ!ピーマンだ!「ツインビー(コナミ)」
入手経緯はともかく、内容として印象に残っているゲームも思い出して行きたい。まずは「ツインビー」。黎明期のシューティングゲームは、元々背景を描くことが技術的に困難だったので、黒一色に点を置くだけで表現できる宇宙を舞台としたものに偏る傾向があった。しかしナムコのゼビウスが登場したことで、色鮮やかな背景が描かれるようになると、コナミとしても黙ってみている訳にはいかなかったのことは容易に想像がつく。そして登場した「ツインビー」。スパイス大王に支配されたドンブリ島を救うため、シナモン博士の開発したツインビーとウィンビーが活躍する物語は、宇宙戦争を舞台にしたゲームとは全く異なる、ポップでコミカルな世界観をシューティングのジャンルに持ち込んだ。ファンシーグッズが盛り上がりを見せていた時代にもマッチした、可愛らしいキャラクタをはじめとし、雲を打つと現れるベルによるパワーアップや、1度だけならやられても助けに来てくれる救急車など、システム自体もコミカルさを際立たせていた。移植されたファミコン版ではアーケード版には遠く及ばない点も多かったが、そのポップさ、コミカルさ、そしてなにより可愛らしさは十二分に引き継いでおり、女の子からもおおむね好評だった。
いろいろえげつなかった「ペンギンくんWARS(アスキー)」
アスキーから発売の「ぺんぎんくんWARS」。UPLの同名アーケードタイトルの移植作。このゲームはそこまで有名なゲームではないので知らない人も多いと思う。ルールは簡単で、テーブルを挟んだ相手の陣地に最終的に多くボールを投げ込んだ方が勝ちというシンプルなゲーム。ボール同士をぶつけて弾いたり、敵にぶつけて一定時間動きを止めたりといったテクニックが勝敗を分ける。プレイヤーキャラクタはペンギンで、対戦相手も猫やパンダなど可愛らしいキャラクタがとっつきやすい。で、なぜこのゲームが印象的なのかというと、それは買った当日に必勝法を見つけてしまったから。1度相手にボールをぶつけて動きを止めたら、ひたすらそこを狙ってボールを投げつければ、すべてのボールを敵陣に押し込むまで、相手を動けないまま終わらせることができるのである。なかなかにえげつない。改めて動画サイトのプレイ動画を見ると、如何にミスすることなくこの戦法に持っていけるのかが攻略の鍵になっているようで、やり込む人はどこまで続けられるかを挑戦している感がある。見た目の可愛らしさとは裏腹にストイックなプレイスタイルを求められるゲームだった。ちなみにBGMには石川秀美の「もっと接近しましょ」が使用されているが、もちろん無許可使用で、おまけにこの曲、どうやら シーラ・Eの「The Glamorous Life」という曲をほぼ丸パクリしたというトンデモソングだったりする。
意外な良作「リサの妖精伝説(コナミ)」
家の近所にいわゆるファミコンショップがあって、そこはゲームの新作販売や、中古買取販売からディスクの書き換えまでも行なっていた。コナミの「リサの妖精伝説」を知ったのは、その店で流れていたデモプレイで、俄然プレイ欲求を駆り立てられてしまい、お金がなかったので初めてファミコンソフトを売って、そのお金で書き換えをしてもらった。もちろん子供だけでは買取はしてもらえなかったので、祖父に説明をして委任状のようなものに印鑑を貰ったりしたのだが、母親にしてみれば、祖父に買って貰ったものを売ってしまうという行為は子供の取って良い行動ではなく、酷く叱られた覚えがある。たぶん、見ていない所で祖父も母に怒られていたのではなかろうか(おじいちゃんごめんなさい)。もっとも、買い戻したのか返金したのかはわからないが、売り払ったゲームは手元に戻ってきた。「リサの妖精伝説」ももちろん手に入っている。叱られながらも結局は何も手放さずに新しいゲームを手に入れてしまった。
前年に発売された任天堂の「アイドルホットライン 中山美穂のトキメキハイスクール」と同様に、本作は実在のアイドル立花理佐を起用したコマンド選択式アドベンチャーとなっていて、テレフォンサービスや立花理佐本人によるイメージソングとのコラボがゲームとリンクした形になっている。
「中山美穂のトキメキハイスクール」は、全編を通して中山美穂との秘密の恋愛を描いた作品になっており、ある意味ではファン専用のアイテムな面もあったが、「リサの妖精伝説」は異世界に飛ばされたプレイヤと立花理佐の冒険を描いた作品となっており、立花理佐を知らない人でも十分に楽しめる作品となっている。もちろんファンであれば憧れのアイドルと手を取り合って困難に立ち向かうというシチュエーションは尚更たまらないものになっただろう。
オマケ
ところで、話がややこしくなるので前述では書き換えと表現したが、公式には「リサの妖精伝説」の書き換えサービスはなかった可能性がある。そもそもディスクの書き換えはディスクライターと呼ばれる大型の書き換え機が必要で、この頃でも個人経営では任天堂との契約自体が不可能だったのではないだろうか。そこで登場するのがハッカーインターナショナルである。名前からして誤解されがちがだが、別にハッカーインターナショナルは違法な業務を行なっていた訳ではない。今や最強と呼ばれる任天堂の法務部を相手に徹底した訴訟回避の施策を講じており、基本的には同社は非公認としての範囲で権利を行使していたにすぎない。そんな中の一つがディスクのバックアップツール(コピーツール)だ。ファミコンショップではこれらを導入して、手持ちのあらゆるディスクゲームの書き換えをサービスとして提供することが出来るようになった。ただ、客自身が持ってもいないゲームをコピーすることは、個人に許されたバックアップの私的利用の範囲からは明らかに逸脱する。レンタルソフトとしてお茶を濁していたのかとも思ったが、関連する著作権法改正は1984年のことだったため、どういう名目で行なわれていたかは僕には良く判らなかった。
私的ゲーム史シリーズは、まとめもなく、とりとめのない話を書かせてもらっているが、今年はファミコン40周年ということで、少しはファミコンの話題に触れておけて良かったと思っている。いま手元にはファミコンはないのだが、先日まで行われたSUNSOFTのクラウドファンディングで「マドゥーラの翼」「リップルアイランド」「かんしゃく玉なげカン太郎の東海道五十三次」の3本を1つにしたゴールドカートリッジ(箱説付き)が返礼品として提供されることとなったので、そちらが届くまでには、ファミコンは入手しておきたい。
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