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実存に恋する

悲しい習性なのですが、私は恋愛(性愛)相手との距離感が近くなると、関係を破壊してしまうところがあった。

相手を否定する言葉、制約するような言葉、試す言葉、そういう言葉が目の前に浮かんできて、それを言わないと居られなくなる。
そういう行為にはキリがない。安心できる頃には、相手の好意など風前の灯となる。

それはまるで、非常ボタンを押してしまう子供のようなものだ。

愛情というものが手に余り、試して試して壊してしまう。
私の場合は、歳を重ねることによって解決するという訳でもなさそうだ。
大切にしたい関係を破綻させることは、自分を痛めつけることで、自傷行為なのだと思う。

大切なものばかりを失ってしまうし、身勝手だし、ほんとに嫌になる。
そのくせ料理頑張ったりお洒落したり会話盛り上げたりするのは、相手に気に入られるための愛情貯金なのかもしれない。

私だって、できることなら好きな人たちに囲まれて愛されて楽しく幸せに暮らしたい。

私には、何もない。

ーそんなことを、人に話してみた。
たまたま見かけた知らない人のSNSで、言語感覚に信用できるものを感じて、ちょうど電話相談を受け付けてたので、お願いしたのだ。相談したいというよりも、頭の中を整頓したかったのと、たぶん、似た文脈の誰かに私のことを知って欲しかったのかもしれない。

思った通り、非常によく汲んでくれて、静謐で無駄のない受け答え。久しぶりに自分の言葉で喋ることができた。
自分と話しているような感覚になった。この人、良い。その人と話してるうちに印象的な言葉に出会った。

「壊すのは、あなたが哲学的に生きようとしてるからなんじゃないでしょうか。壊すということは哲学的営みだから」

という言葉をくださった。

嬉しかった。
哲学用語で、「実存」という言葉がある。

実存とは、「独自な存在者として自己の存在に関心をもちつつ存在する人間の主体的なあり方。自覚存在」。

私は実存したい。それをもっともしやすいのが、恋愛というか性愛なのだった。
もちろん友情でもいいし、良い仕事をしているとき、良い小説やドラマを摂取するときも、実存している気がする。

私はずっと「まともな」人間の真似をしていた。見様見真似で人間のふりをしている何かである私が、ちゃんと自分自身になれる瞬間が、至上の幸せなのだ。

自分自身として人や物事と深く関わり、愛しながら闘う、ということがしたい。

しかし真理の光のもと、自分の歪みも明るみに出てくる。みんないなくなっても、その瞬間は実存していて、その瞬間の中では永遠なのだ。

どんな人がタイプかと、よく飲みの席で話題に上がるが、わたしにとってのそれは、「実存してる人」だ。なんというか、切実なひと。

具体的には、私がよく好きになるのは親に虐待や放任されてきた人。

独特の優しさをもっていて、切実で、孤独で実存している。

そういう人を見ると、私は私の痛みを使って、その人の痛みを深く理解できるような錯覚を覚える。深い部分で交流できる。自分の苦しみは、この人と分かち合うために、この人を理解し愛するためにあったのだなんて思ってしまう。
つらい思いをしてきたある種の人って、深海生物に似ている。光の届かない深海で独自な進化を遂げた深海生物たちが居る。
私はそういう人が好きで、独自の面白い形に進化している人を見かけると、新生物を発見したかのような気持ちになって学会で発表したくなる。

痛みに意味などはないけれど、個人の痛みは、社会全体を良くすることにつながり得る。

けれど、歪みで惹かれあっても、自らの歪みで引き離されてしまう。
彼らを救えるのは、変に苦労などしてこなかった太陽みたいな女の子なのかもしれない。
そう思うと、なんだか切なくなってしまう。

私は哲学が好きだ。壊して疑ってその先にある真実、否定してもしきれない何かを見つける営みが好きだ。

なので、「哲学的」だなんて、私の不毛な行為に意味付けがされて、なんだか救われた気持ちになった。

破壊行為はもうやめたい。

けれど何も残ってなくても、無駄ではないのだと思いたい。 

…なーんて、ややこしくてめんどくさいこと言ってみましたが、いい音楽聴いてお酒飲んで歌ったりすれば元気になってしまう単純な私です。

写真は廃墟。私は廃墟に行くのが好きなのですが、廃墟みたいな人間だからなのかもしれません。

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