見出し画像

アウシュビッツ訪問記

自分の記録として書いたものなので、前半は訪問してみて感じたこと、記事後半に現地で撮影した写真をまとめています。

ようやく、という言葉が正しいのか分からないけど、ずっと本や映像で見てきた場所を、今月頭ついに訪れることができた。

その場所は、アウシュビッツ。正式名称は、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所」。ポーランドの首都ワルシャワから飛行機で1時間または電車で2時間半の古都クラクフから、さらにバスなど公共交通機関で2時間弱の場所にある。アウシュビッツという名前自体も、当時のドイツが自分たちが呼びやすいように付けたもので、Oświęcim(オシフィエンチム)という街にある。

ヨーロッパ中のユダヤ人を移送するための線路が集積しており、脱走しづらい2つの川に挟まれている地形であることが分かる

今回の旅は、幸運にも唯一の日本語公認ガイド・中谷剛さんのグループツアーに参加させてもらうことができ、3時間みっちりお話を伺うことができた。行くこと自体に価値がある場所であり、英語ツアーや日本語ガイド本を片手に訪れても十分理解を深めることはできるだろうが、中谷さんのガイドの特徴は、日本でのアウシュビッツ・ナチス・ユダヤ・ホロコースト等への教育状況や理解深度をもとに解説を加えてくださったことだと思う。
今後訪問する機会があるのであれば、ぜひ中谷さんのガイドツアーへの参加を勧めたい。(事前予約必須なので、詳細は他の方が書かれているブログを参考に。)

そもそもアウシュビッツを訪れたかった理由としては、やはりフランスに越してきた影響が大きい。戦争・歴史・宗教を抜きにして、ひと連なりのヨーロッパの理解を深めることは難しい。訪問前後には、再読したものも含めてアウシュビッツ・ナチス・ヒトラー・ユダヤ関連のものを詰め込んだ。

【訪問前後に見た/読んだコンテンツ】
『夜と霧 新版』
『アンネの日記 増補新訂版』
『ホロコーストを次世代に伝える アウシュヴィッツ・ミュージアムのガイドとして』(ガイド中谷さんの著書です)
『アドルフに告ぐ』
WWII最前線: カラーで甦る第二次世界大戦
カラーで甦るWWII: 連合国、勝利への道
最後の日々: 生存者が語るホロコースト
私の親友、アンネ・フランク
シンドラーのリスト

個人的にインパクトが一番あったのは、スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」。ノンフィクションではあるが映画なので、当然"撮影"されたものなのだけども、収容所の様子やそこでの出来事は、まさに今そこで目撃しているかのようなリアリティさがあり、かつ実際にあったことを描いているので、収容所での身体検査という名の「選別」シーンなど、心にずっしりくるものがあった。

ここからは、訪問そして中谷さんの解説を通して、自分の中に強く印象に残った点を3つまとめたい。

1. ヒトラー・ナチスの話が中心ではない

勝手な先入観ながら、展示物や解説は「ヒトラーやナチスの話が大半を占めるのだろう」と思って臨んでいた。しかし、実際にはツアーで歩いた収容所エリアでは、ヒトラーに関しては親衛隊SSS幹部の部屋の壁に写真が再現として飾ってあるのを見たのみだった。

いわく、この悲劇は「ヒトラー・ナチスのせいだけで起こったわけではない」ということをメッセージングするためだという。

実際、展示内容や解説としても「その時のドイツ・ヨーロッパ各国の置かれた状況はどういうものだったのか?」の理解を深めるところから始まっていく。敗戦・ハイパーインフレ・世界恐慌と、誰かのせいにでもしないとやっていられない現実に取り囲まれ、そんな中現れたヒトラー。彼を国の代表に選んだのは、紛れもない「国民一人一人の意思」。そして、ヨーロッパ各国も自国内にいるユダヤ人や、ナチスの非人道的な態度にどう向き合ったかは大きく異なる。中には、積極的にナチスに加担した国もある。

当然、ヒトラーやナチスは悪いのだが、その構造を生み出したのは、一人一人にも責任があるということ、そしてその悲劇を繰り返さないためには、一人一人の倫理観・意思・行動が求められることを、痛切に感じさせられた。

2. 「怖さ」をむやみに助長する演出がない

収容所内には、写真とパネルおよび実際の遺品展示物しかなく、映像や音声は一切ない。ただただ、現実の遺物を見て、それの解説をもとに内省を深めていく。そんなプロセスを見学時間中ずっと感じていた。

正直訪問する前は、もっと怖い感覚を持つものだと思っていたし、一緒のグループだった少年も無邪気に「ここにはお化けが出ないんですか?」なんて中谷さんに聞いていた。

ただ実際に歩いてみると、怖いという感覚は適切ではなく、「なぜここで?こんなことが?」という無数の問いに迫られる感覚の方が近かった。収容された時に刈り取られた髪の毛の山・靴・鞄・眼鏡、そして焼却炉やガス室。どれも無音で動かず、ただそこに「ある」からこそ、その裏に想像される無数の人たちの虚しさや儚さを思わずにはいられない、そんな時間だった。

アウシュビッツは、ヨーロッパ最大の教育施設という側面もあるとのことで、訪問者の65%は14〜25歳の若い人だという。学びや内省を促すためにも、脚色や演出はそぎ落とし、「考えさせる」ということに重きを置いていることが伺える造りだった。

3. 「個」から「全体」に広がる思考

これは、中谷さんの知識・経験・解説力によるものだとも思うが、ユダヤ人・ナチスといった括りではなく、ここにいた「個人」を強く意識できた時間だった。

例えば、収容された人の写真が両側一斉に並ぶ展示場所がある。この写真は、収容時にナチス視点では"囚人"として撮影された人たちである。(選別対象になり直接ガス室送りになった人は名簿や写真などの記録はない)剃髪姿で青白ボーダーの”囚人服"に身を包んだ人々の視線が訪問者に真っ直ぐ突き刺さる独特な空間で、写真には、名前と出身国、収容日そして亡くなった日が書かれている。ほとんどの人が3ヶ月と経たないうちに亡くなっていることが分かり、当時の環境の悲惨さと現実を物語っている。

またパネル写真は、実際残っている建物が映り込んでいることも多かった。中谷さんの細やかな説明を聞いて、同じ場所に立ち、同じような景色を見ながら「その時この人は何を思っていたんだろう。どんな恐怖を抱えていたんだろう。」と、その写真にうつる人々に思いを馳せざるを得なかった。

ホロコーストの犠牲者は600万人とも言われているが、人数だけ聞いてもなかなかピンこないかもしれない。ただ、こういった「個人」に目を向けやすい展示や解説が、より一層、現実に起こったものだということを来訪者に喚起させ、自分だったらどう考えるかという抽象的な問いのきっかけをつくっているのでは。私には、そんな風に感じられた。


ガイド中、しきりに中谷さんが「人間の本質」という言葉を強調されていたのが残っている。

自分が優位に立ちたいと思うこと、都合の良い物差しで差別すること、得体の知れないものに恐怖を抱くこと、善人がいとも容易く無慈悲で冷酷な悪人になれること。様々な人間の「負」の本質が、うごめきあって生まれた産物が、まさにアウシュビッツで起こったことなのだと思う。

一方、生存者からお聞きになった話も併せて紹介くださったが、収容所内での思い出として「誰かとパンをこっそり分け合った」といった「共有 / シェア」にまつわるエピソードをよくお聞きになったと言う。一人よりも誰かと分かち合う方が、喜びが大きくなるのもまた、人間の本質であり、幸福の根源かもしれない、と。

今回の訪問は、歴史的な価値はもとより、訪問を終えた今もなお、関連することを考え続けさせるパワーがあるという点でも、やはり特別な場所なのだと思う。(スタンプラリー感強まってる最近の旅行スタイルも、若干反省)

世界も人間も、思っている以上に複雑だ。だからこそ、より良く生きることを追い求めていきたいし、複雑な相手のことをより深く知ること、人は良い方に変化できると信じ続けることは、変わらず大事にしていきたいと思った。そんな徒然記録。

写真アルバム

訪問したのは空いてるタイミングとのことで、いつもは1時間以上チケット列が並んでいるらしい
ガイドの中谷さん / 視察団に嘘をつくため、楽団の演奏を収容者に楽しませている風の様子を撮影させた写真。写っている建物が、すぐ隣にあった。
バラック内の展示。写真とともにパネルが淡々と掲出されている。
電車到着後、電車横での「選別」(ガス室送りか収容所行きかを軍医の一存で一瞬で決める)が終わり、ユダヤ人の荷物だけが残されている。ナチスが気にも留めていない様子。
ガス室の模型
「シャワー」と言い聞かせ投下された、大量殺戮道具「チクロンB」の使い終わり缶
ハイヒールや幼児の靴もある収容者たちの靴。これを脱いだ時、どんな気持ちだったんだろう。
収容所敷地内の看板。この看板を少しでも超えれば、即見張り台から銃殺された。
敷地を取り囲む有刺鉄線
各国とつながる線路が、収容所内に引き込まれた
家畜を運ぶような貨物に、数十人が詰め込まれ、到着した時点で息絶えていた人も多数いた。
ガス室入口跡にて。ユダヤ教の学生たちが、フラッグやダビデの星をあしらった花輪を持って訪れていた。
連合国軍との「停戦」を求めていたナチスは、ガス室の存在が交渉で不利になると考え証拠隠滅のためダイナマイトで破壊した。
一段ごとに5〜6人が寝るよう押し込められていた木のベッド。映画やドキュメンタリーでも、朝起きたら隣の人が死んでいたという話を聞き、実物を見てこみ上げるものがあった。
収容所の外からの様子

番外編〜ポーランドの街並み〜

ポーランドの国そのものは、とても街並みが綺麗で明るくて安全で、何よりご飯とお酒が美味しい最高な街だったことも改めてお伝えを。メインはアウシュビッツだったが、ポーランドの国そのものも、とても思い出に残る良い旅先だった。

クラクフの教会。広場にたくさん人が出ていて&ご飯どころも多く、こじんまりな良い街。
ワルシャワ郊外にあるヴィラヌフ宮殿。ポーランドのヴェルサイユ宮殿の異名も。
ワルシャワの王宮前広場。音楽家ショパンが生まれた街でもある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?