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多様性の感受と実際の僕

 僕は大学で社会学部に所属している。
ジェンダーに関する過去・現在の問題や、多文化共生への希望と絶望を議論しあったり、時には現代国家の在りようを追求したりする学問分野だ。
 2年と半年、様々な考え方やそれにまつわる問題、解決策を検討・提案してきた。僕自身、多様な意見・価値観に触れ、私自身の心の内の多様性への担保・感受を取得できたと感じていたし、そうであると思い込んでいた。

 けど実際は違った。

浮気や不倫に対しての被害者・加害者双方の考え方や捉え方を理解し、自分なりの感受的意思決定方法を確立したと思っていた。
 けれども、実際、好きな人が僕自身とは違う他の誰かと連絡を取り、好きだと言い寄られる彼女を側から見ると、どうも居た堪れない気持ちになり、他の誰かへの憎悪と彼女への嫌悪感が僕の心を覆いかぶさった。
 多様性や人それぞれの自由を担保する事こそがヒトの使命であり、多文化共生への道標だと確信していたのに、だ。

 結局のところ、われわれは皆、徹底的に分断されているのだと思う。それぞれのヒトがキャラを演じ、承認欲求と自己顕示欲求との狭間で混沌とした世界を歩んでいる。分断こそが多様性であり、分断こそが自由への第一歩だと言うことに気付かなくてはならない。そう考える。

 社会学が何だ、多様性が何だ、結局のところSDGsや多文化共生への希求は、ヒトとしての本能的な承認欲求への偽善的目標設定の一部に過ぎないのかもしれない。

いっそのこと、猫みたいにアナーキズム的で怠惰な日々を過ごしたい。

 

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