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〔ショートストーリー〕代償

海の日を二人で過ごしたいと言うと、彼は困った顔をした。その日は家族、つまり奧さんと息子さんと約束があると。でも私だって、いつまでも聞き分けの良い女ではいられない。こんな風にいつも私の部屋でコソコソ会うだけの関係は、もう終わりにしたいのだ。私はとっておきのワインを開け、二人のグラスに注ぎながら、少し拗ねたように言う。
「もう家には俺の居場所はないとか、奧さんとは別れるとか、ずっと言ってたよね。あれ、全部嘘だったの?」
彼は慌てて取り繕う。
「いや、嘘じゃないよ。ただ、ほら、まだ離婚は成立していないし、今は君のことを知られると不利になるから…」
彼は去年もそう言った。一昨年も同じ。地元の花火大会を二人で楽しみたいという、私のささやかな願いは、ずっとお預けのままだ。そんな私の視線に気が付いたのか、彼はぎこちなく目を逸らしてワインを流し込む。


彼と会うのは、いつも平日の夜。ごくたまに、奧さんたちが実家に泊まりに行っている間は土日も会えたけれど、普段はそれも無理だった。人混みを避け、人目を忍び、まるで犯罪者のような逢瀬。もう私の我慢も限界だ。
「あなたが言えないなら、私が言おうか?今年の海の日、あなたの旦那さまは私と花火を見て過ごしますって」
「いやいや、だからさ、今は君のことがバレると…」
「知ってるわよ、あなたの奥さん。私たちのことなんて、ずっと前から」
彼が間抜けな顔でフリーズする。奥さんにバレていたことも、探偵に尾行されていたことも、全く気が付いていなかったのだろう。本当に私は男を見る目がない。


奥さんから連絡があったのは、半年前だった。とにかく会って話したいと言われたら、私に拒否権などない。だが予想に反して、彼女は態度も話し方もとても冷静だった。
彼女によると、時々帰りが遅くなる彼に不信感を抱き、盗聴器とGPSで行動を探って浮気を確信したそうだ。
「その上で探偵を雇ったんです。この日のこの時間帯で、尾行と証拠写真をお願いしますって。ダラダラ頼むと料金が高くなるから、できるだけ短期間にしたくて。良かったわ、あの人はバカみたいに分かり易いし、あなたは彼の部下だからスケジュールが合わせられるし。じゃないと、もっと空振りが多くなったかも知れませんよね?」
それから奥さんが淡々と告げたのは、もう彼には愛情は残っていないこと。でも子どものため、そして安定した生活のため、離婚はしないこと。
「それでもいいなら、どうぞ夫と付き合ってください。まだ離婚はしないし、あなたに慰謝料の請求もしません。夫の相手をするのも面倒だから、むしろ助かるぐらいだもの。ただ、表向きには彼の最優先は家族だから、あなたは我慢ばかりすることになるけど…」
それでもいいと私は言った。彼が好きだから、別れずに済むならそれで良かったのだ。そんな私に、奥さんは憐れむように呟いた。
「そんなにあの人が良いのかしら。浮気がバレてることも気が付かないで、中途半端に良い夫の振りをするような、不誠実で間抜けな男なのに」
私は何か言い返そうとするも、言葉が出て来ない。彼から聞いていたよりもずっと、奥さんは大人で賢い人だった。私も心の中では分かっていたのだろう。彼は、彼女の評価通りの下らない男だと。
「まあ、そんな男と結婚してしまった私も、偉そうなことは言えないわね」
彼女は疲れたように笑うと、今日のことは二人の秘密にしましょうと言い残し立ち去った。冷めてしまった紅茶には、ほとんど手をつけないままで。


「妻が知ってる…?何でだよ!お前、何かしたのか!」
彼が赤い顔で私を怒鳴りつける。本当に間抜けな人。今にも私を殴りそうな勢いだった彼は、急に目眩がしたように膝をついた。
「あ…れ…?何か目が回る…手が、体が…痺れて…」
私は優しく言った。
「大丈夫よ。ワインの毒が効いてきただけ。すぐに何も分からなくなるわ」
「お、お前…」
彼は崩れ落ちた。だって、仕方ないじゃない。土曜も日曜も祝日も、そうじゃない日も全部、あなたのそばに居たくなってしまったんだから。どんなにズルい男でも、下らない男でも、それだけ好きになってしまったんだから。それができないなら、もうこうするしか無いじゃない。


両親を早くに亡くしてから、私はたったひとりで生きてきた。気が付くと、仲の良い友人もいないし、本気の恋なんて知らないまま。高卒でただコツコツと働いてきた私は、四十路を越えて、10才も年下の上司である彼のアプローチに舞い上がってしまった。
「君みたいな素敵な人が、今まで彼氏もいなかったなんて信じられないよ」
こんな陳腐なセリフに、私はまんまと堕ちたのだ。彼は軽い好奇心だったのかも知れないが、私は最初で最後の恋だと思っていた。
あの日会った彼の奥さんは、彼よりも更に5才年下だった。一番高いスーツを着ていった私を見る彼女の目には、隠しきれない憐れみが溢れていて、そのことが私をズタズタに傷付けた。いい歳をして、あんな男に舞い上がって、何ともお気の毒に。そんな心の声が聞こえた気がした。


動かない彼を見下ろしていると、涙が溢れてくる。人混みを腕を組んで歩くことも、二人で花火を見ることも、叶わない夢のまま。もしも1度でも私の願いを叶えてくれたなら、彼の幸せを願うことができたかも知れないのに、最後まで叶えてもらえなかった。たった1度の恋の、ささやかな願いすら叶えてもらえないなんて、私が可哀想すぎる。こんなに一生懸命、真面目に生きてきたのに。
ならばせめて、あなたの未来を奪いたい。私から奪ったものの代償を払ってもらいたい。それにはもう、これしか方法はなかった。

私もワインをあおると、彼の横に倒れ込む。痺れる腕を彼に絡ませると、感じたことの無い幸福感に包まれた。ああ、これが満たされるという気持ちなのかも知れない。
薄れゆく意識の中でぼんやり思う。あのカレンダーの丸印、消しておけば良かったな。今年はもう、海の日の花火を一人で見ることはないのに。
ピクッと震えた一瞬、瞼の裏に花火が光った気がした。が、その後は何も分からなくなった。

(完)



こんばんは。こちらに参加させていただきます。

何だか最近、こんな話が多い気がします。こんな暑い時期はもっと怪談が書きたいのに、どうしてこんな湿度の高い話になってしまうのでしょう。もっとこう、ゾッとするような、ヒヤッとするような、震えるような話が書きたいのに、浮かんできてくれません!

こんなジトジトした話ですが、小牧さん、よろしくお願いいたします。
読んで下さった方、どんよりさせてしまったら済みません💦そして、ありがとうございました。

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