南日本新聞コラム南点第3回「諦める、の本当の意味」

 諦める、という言葉がある。暗い印象を持たれがちな言葉だが、元々は仏教用語で、正確には「明らかに観る」という意味を持つ。

「諦」とは真理を意味する言葉で、本来は断念ではなく、明らかに観る事、現実をありのまま観察する事を意味している。

 そう、インターネットに書いてあった。その意味は前から知ってはいたが、人に説明する時は間違った情報を伝えてしまわないよう、念のためネットで調べる事にしている。ネットが普及していなかった頃は、間違った情報を悪気なく自覚なく人に伝えてしまっていた。あとで気付き、そのせいで恥をかかせてしまっただろう事を思うと申し訳なくて、今からでも謝りたい気持ちにもなるが、もう連絡の取りようがないのだから諦めるしかない。

 そう。今まさに私は「諦め」た。そう。まさに今「明らかに観」た。連絡の取りようがないという事は連絡が取れないという事で、それはつまり謝りたくても謝れないという事だ。謝りたくても謝れないのに謝りたいと悩むのは無駄な苦しみだ。 

 仏教の開祖ブッダは、人生の苦しみから逃れる術を探すために出家し悟りを開き、苦しみを手離すための教えを世間に広めた。執着を捨てよと。反省は大事だが、後悔は必要ではない。もう二度とやるまいと誓いそれを守りさえすれば、徒らに自らを苦しめる必要はないのだ。

 ちなみに仏教(禅宗)には悟りを開くための修行法として禅問答というものがある。はた目にはわけの分からない支離滅裂なやり取りによって、その人の仏性を目覚めさせるのだ。ブッダとは本来「悟りを開いた人」を意味する。

A つまり誰の心の中にも『仏』は宿っているのです。
B トイレにはそれはそれは綺麗な女神様がいるのです。
A ボインはお父ちゃんのためにあるのではないのです。
B あなたは神を信じますか?
A いいえ私はさそり座の女です。

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