2023.8 南日本新聞「太宰治賞受賞エッセイ」

 18の晩秋、私は人知れずヤクルトレディに憧れていた。与次郎にあるファミレスの面接を受けた帰りだった。それまで東京のレストランでウエイターをやっていたから今度こそ大丈夫だろうという私の目論見は無情にも外れ、面接官は何か不気味なものを見るように私との会話を早々に切り上げると、もし採用の場合は電話します、と、「もし」を強調するように言って面接を終えた。鹿児島市内に越して来て5つ目の面接だった。
 
 その帰りに、私は見たのだった。夕暮れ時の街を颯爽と自転車で駆け抜けるヤクルトレディを。私はその姿に「自由」を感じた。
 なるべく人と関わらずにすむ仕事に就きたかったので、新聞配達も候補のひとつではあったけれど、それをしてしまうとますます人見知りが加速してしまうのではないかという不安があった。その点ヤクルトレディなら基本一人で活動しながら、たまに人との交流もあるし、自分のような人間でもほどよく世間と関わっていけるのではないかと思った。
 
 けれど当然、ヤクルトレディになるにはまずレディである必要があった。精神的な意味合いではなく性別として。私は人からよく、女々しい奴、とバカにされる人間ではあったけれど、生物学的にはまぎれもない男だった。私はとぼとぼと家路を辿った。

 下荒田3丁目にあるその家賃2万7千円のアパートは、背後に大きなマンションがそびえ建っているせいで昼間でも一切日の差さない暗い部屋だった。引っ越して間もない頃、私は電気スタンドの薄っすらとした灯りの中、太宰治の『人間失格』を読んだ。それまで小説なんて読んだことはなかったけれど、そんな自分でもそのタイトルだけは知っていた。

 就職先をわずか半年で辞め、勉強にも運動にも真面目に取り組んだことのなかったダメな自分を変えるために、本のひとつでも読んで教養を深めようという軽い気持ちだったが、冒頭からの共感の嵐に、私は大きな衝撃を覚えた。陰気な人間は自分だけではない。無理して明るく振る舞う必要なんてない。そう教えられた気がした。すっかりその魅力にとりつかれた私は、これだ、と思った。なるべく人と関わらずにすむ仕事。自分も作家になろうと思った。

 早速近くのコンビニでノートを買ってくると、私はそこに小説を書いた。興奮しながら一週間でノート一冊分の小説を書いたが、書き上げたものを読み返してみると、あまりの拙さに愕然とした。

 前途多難だな、と途方に暮れたものの、そこまで悲観的でもなかった。たとえ作家になれなくても、最悪あと4年乗り切ればいいという思いがあったからだ。その頃の私は、1999年に人類は滅亡するという、例のノストラダムスの予言を完全に信じ切っていた。

 それからなんとか交通警備のバイトにありつき、ただ立っているだけの現場の時は小説の構想を練るなどした。この先どうなるのか分からなかったが、とにかく私はそれをやるしかなかった。最悪4年耐えればいいんだから。そう自分自身に言い聞かせながら。

 4年どころか、まさかそれから4半世紀も耐える羽目になるなんて、その頃の私は知る由もなかった。

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