南日本新聞コラム南点第4回「考える生きもの」

 電車内での通話は「迷惑行為」として禁止されている。乗客同士の会話は許されているのに、なぜ通話はダメなのか、と疑問を抱いている人がいた。「会話も通話もうるさいのは同じなのに、なんで通話だけ? 医療機器への影響? ならネットもダメなんじゃ?」と彼は首を傾げていた。

 私はその人とは違い、その事に疑問を抱く事はなかった。最近は滅多に電車に乗らないし、車内で電話をかけている人を見かける事もないから、今現在その行為を見てどう感じるかはわからないが、昔はその行為にはっきりとした迷惑を感じていた。それは、「会話の半分しかわからないじゃないか」という事だった。つまり、「電話の向こうの人が何を言ってるのかが気になってもどかしい」という理由で、私はその行為を迷惑に感じていた。

 私には昔から、人の会話を盗み聞きする癖があった。良いふうに言えば、どこかユーミン的なところがあった。松任谷由実ことユーミンはかつて、ファミレスで見ず知らずのカップルの会話を盗み聞きして歌詞のアイデアを膨らませていたというが、小学生の頃、3つ上の姉がよく家でユーミンの音楽を流していたから、私の中にはいつの間にかユーミンが住むようになっていたのかもしれない。というか、誰の心の中にもユーミンはいるのかもしれない。母親もよく、「早く春になればいいのに」と言っている。そんな時母の頭の中にはユーミンの『春よ、来い』が流れている(たぶん)。それくらい、ユーミンは偉大なシンガーソングライターなのだ。

 それにしてもなぜ、『春よ、来い』なんだろう。なぜ「春よ」と「来い」の間に「、」が入るんだろう。その事に、私はいま疑問を抱いている。きっと何らかの意図があるに違いないが、いまのところ私はその意図に気付けずにいる。

 人間は考える葦である。インゲンは豆科の植物である。
 
 電車の彼の隣に立ち、私は私で首を傾げている。

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