遺書の練習②

私が死にたいと思う理由は全然マイナスなことじゃない。嘘。嘘かも、全然マイナスかもな。
なんで死にたいかっていうと、今までのことから、この先のことを考えて悲観的になっているからだ。

自分には生きてる価値がないと思う。これは、本当に。ここでいう生きてる価値は、私に与えてもらったもの(お金や、物や、優しさや愛など全部)と私が返せるもの、生みだせるものの割合が、明らかに後者の方が少ない、という意味を指す。私が生きていてプラスになることよりもマイナスになることのほうが多いということだ。

自分の生きたい生きたくないより、自分が生きているのが恥ずかしいし申し訳ないから死にたい。これだ。
何も生み出せないし、何も与えられないのに、ただただ周りに迷惑だけをかけながら日々のうのうと生きている。これがひたすらに恥ずかしくてしょうがない。もし私が死んだら、その分私に与えるはずだったものを他の人や他の事に使う事ができる。そのほうがよっぽど有意義ではないかと思う。

私自身が今生きたいか生きたくないかで言えば生きたい気持ちのほうが強い。かも。
でも、生きたいと思えば思うほど、自分に絶望してしまう。あまりにも何も出来ないから。
人と会話(意志疎通という意味)も上手くできないし、人に言われたことも全然出来ない、そもそも理解力が欠けすぎている。
自分が、この先生きていくならこうしたいという理想と、自分の能力がかけ離れすぎて、呆れている。そういう自覚があるなら死にたいどうこうよりもまず直す努力をしろ、というのが真っ当な意見だと思う。私もそう思う。
でも、欠落している部分が多すぎて、その部分同士が複雑に交わりすぎて、どこから直したらいいのかどこが根本の問題なのか、もう分からなくなっている。
こんな風にして、人から疎まれ続けながら理想と現実の差に自分自身も絶望しながら生きていくなら、早く死んだほうが将来的に得(周りの皆が、ね)だと思うのだ。
特に私は、ありがたいことに周りの人に恵まれているから、何か人から嫌がらせを受けているとか、暴言を言われるなんてことは起きていない。それが余計に辛くもある。図々しいね。
周りのせいにして死んだほうが何だか分かりやすいし、皆も納得いくでしょ。
でも私は、周りの皆のことが大好きだから、みんなに迷惑かけたくないし、私のせいで嫌な思いをして欲しくない。
そんなことになるなら、早くに死んでやる!という気持ち。
皆は、悪くないから。大体、私が悪いから、悪く思わないで。これは、すべて私が原因で、私の問題で、私は死んでいくんだあ。

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