似た人を見て:プラトンとスーパーと

スーパーにきれいな人がいた。誰かに似ていた。誰かに似ているのだけれど、誰かは思い出せない。

そのままレジを済ませ帰路についた。ぬるりとした空気のなか歩を進めていると、はたと気づいた。あの人だ。

そのとき、「あの人」の美しさにも気がついた。もともとそうとは知っていたはずなのに、その時初めて気がついたような心持だった。

「本物」の持つ要素に「似姿」から近づく、という命題は、さかのぼれば古代ギリシアの哲学者プラトンがまさに彼の持論中の持論たるイデア論の中で主張していた、「想起説」というやつである。

プラトンによれば、我々が普段暮らす世界(現象界)にあるすべてのモノはかりそめである。そしてその「モノ」たちの本質は「イデアidea」である。我々は普段、イデアを直接見たり触れたりすることはできないし、そもそもそれらの存在すら知らない。しかし我々はこの世界(現象界)に生まれ落ちる前はイデアにあふれた世界(イデア界)に純粋な(肉体を持たない)魂として存在していたのであり、イデアを見ていたことがある。つまりいま現象界に生きる我々は、生まれ落ちてくる以前に見たイデアのことを忘れてしまっている、というのである。

したがって、確かに私たちはイデアを直接見ることはできないが、イデアを「思い出す」ことはできる。イデアを直接見なくても、その「似姿」としての「モノ」たちをみて、そこにイデア的なものを見て取り、イデアを思い出すのである。この「思い出す」という行為が、イデアの記憶を「想い起す」という形で表され、「想起説」と呼ばれるのである。

出会った人たちのどちらが本物か、似姿か、などという話はとても失礼であって、すべきではない。しいて言うならば、一人一人の人間そのものが「本物」である、と僕個人は思う。プラトンのイデア論にも基本的には懐疑的だ。

それでも、今日の小さな出会いは「想起説」を想い起させたし、プラトンの言うこともわかる気がした。そして何より、「想起説」のポジティブさを体感した。

「似姿」は決して「本物」の代用品に甘んじているわけではない。「似姿」を介した「想い起し」が「本物」の特徴をより鮮やかに描き出すことがあるのである。

なによりも、もともと「想起説」は「美とは何か」という議論において「美のイデア」という観念とともに論じられた。

美しさという機軸でも、プラトンとあのスーパーは繋がっていた。

あの夕方、あのまいばすけっとには、たしかにプラトンがいた。

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