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「自分の卑劣さ」を自覚する
仕事中、気持ちに余裕がない時、他人に優しくできない。
ついキツイ言い方になってしまうのだ。
しかも自分より立場が下の人に対して。
我ながら、そういうところがズルいと思う。
私はちゃんと相手を見て、えばっているわけだ。
反対に、自分より立場が強い人を相手にするときは、気持ちに余裕がない場合でもキツく当たったりはしない。
ただ緊張して固まっているだけだ。
でも、もしも相手が自分より弱い立場の人だった場合、私は無意識に八つ当たりしてしまう。
そういう時は、たぶん、いかにも不機嫌そうな顔と声とで対応していると思う。
昨日も一回やってしまった。
仕事中、私より弱い立場の人から仕事を頼まれたとき、そこにケチをつけて文句を言ったのだ。
言っているその時は余裕がないのでわからないのだが、後になってから気づいて、すごく嫌な気分になる。
「ああ、またひどいことをしてしまった」と落ち込んで、罪悪感に苛まれるのだ。
昨日は気づいてから相手に謝りに行ったが、「全然気にしてないですよ」と言ってもらえた。
だが、そう言ってはもらえたものの、罪悪感はあまり消えなかった。
実のところ、いまだに後味の悪い想いをしながら、これを書いている。
罪悪感もあるし、そんな風に弱い人にだけ露骨に高飛車に出る自分に対して、自己嫌悪にも陥っている。
「ズルい自分」に嫌気がさしているのだ。
「忙しくて気持ちに余裕がなかったのだ」という言い訳もできるが、だからといって何をしてもいいわけではないだろう。
「相手が言い返せないのを良いことに言いたい放題」というのは、やはり褒められたものではない。
あるいは、私は自分に「完璧」を求めすぎているのだろうか?
「仕事が忙しくて気持ちに余裕がない時に、多少言葉がキツくなる」というくらいのことは、しょうがないことなのではないだろうか?
「どんなに仕事が立て込んでいても、聖人君子のように受け答えしなければならない」というのは、「自分に多くを求めすぎ」と言えなくもない。
実際、忙しい時には誰だって多少は言葉がキツくなるものなのじゃないかと思う。
ただ、それでもやはりひっかかるのは、「自分より弱い人にだけキツく当たっている」という点だ。
これがどうしても私には看過できない。
そもそも、弱い人にばかり強気で当たるのは「卑怯者」のやることだろう。
となると、私は自分のことを「卑怯者」と思いたくないわけだ。
「俺はそんな人間じゃない」と思うからこそ、「弱い人にだけキツく当たる自分」をなにかと否定しようとするのだ。
でも、そうして否定してみたところで、実際には私は「卑怯な人間」なのではないだろうか?
自分より弱い人にだけキツく当たってしまう「心の弱い人間」なのではないのか?
おそらく私はそれが認められないのだ。
「卑怯な自分」や「弱い自分」を受け入れられないからこそ、苦しむのだろう。
じゃあ、「卑怯でOK、弱くて問題なし」ということで、マルっと受け入れてしまえばそれでいいのだろうか?
そうしたら、卑怯なことをしても胸が痛まなくなるだろうか?
いや、事はそう単純じゃない。
そもそも、「卑怯なことをしても胸が痛まない人間」というのは、自分が「卑怯なこと」をしていると気づいてさえいないものだ。
「自分より弱い人間を徹底的にいたぶって平気でいる人間」というのは、自分が「卑怯な人間」であることにそもそも気づいていないのだ。
反対に、「自分は卑怯なことをしている」と心のどこかで気づいている人は、多かれ少なかれ良心の呵責を感じずにはいられないのではないだろうか?
たとえ「自分は卑怯な人間だ」と認め、それを受け入れたとしても、それによって罪悪感や自己嫌悪が完全になくなるわけではあるまい。
「己の卑劣さ」に気づいて、これを受け入れた人間は、罪悪感から自由になるのではなく、ただ「自分の悪」に自覚的になるのだろうと思う。
自分がどんな「悪」を為す可能性があるか自覚し、少しでもそれを小さくしようと意識するようになるのだ。
となると、全部で三つの段階があることになる。
一つ目は、「自分の卑劣さ」にそもそも気づいていない段階。
この段階では、たとえ集団いじめのような「卑怯なこと」をしようが良心の呵責に苦しむことはない。
二つ目の段階は、「自分の卑劣さ」に多少気づきはしても、それを受け入れられない段階。
この段階では、「自分の卑劣さ」をコントロールできず、むしろそれに振り回される。
自分は「卑怯な人間」ではないと思いたいがために、事実を事実として認めないことも考えられる。
三つ目の段階は、「自分の卑劣さ」によく気づき、それを正面から受け入れた段階。
この段階に至れば、自分が「卑怯なこと」をしそうになったらそれにすぐ気づけるし、自分で自分をよくコントロールできるようにもなる。
結果、実際に「悪」を為す可能性も低く抑えることができるわけだ。
今の私は、第二段階と第三段階の中間あたりにいる気がする。
というのも、良心の呵責こそ強く感じているものの、まだまだ「自分の卑劣さ」に完全に気づいているとは言えないし、これを受け入れているとも思えないからだ。
でも、実際には私はいくらでも「悪」を為す可能性がある。
なぜなら、私は「弱く」、「卑怯」だからだ。
「自分の卑劣さ」を忘れれば、良心の呵責には苦しまなくなるだろうが、同時に「自分の悪」に歯止めが利かなくなる。
たとえどんなに「卑怯なこと」をしても、何とも思わなくなってしまうからだ。
私はせめて目を開けていたいと思う。
「自分が悪を為す可能性」に対して、自覚的でありたいと思う。