見出し画像

結論がわからないまま語ることについて

「結論から話す」というのは、ビジネスの世界では常識になっているらしい。
長々と前置きを語ったりせず、先に結論だけを簡潔に伝えれば、情報伝達もスムーズにいくし、聞き手も理解しやすくなる。
だから、ビジネスマナーとして「結論から話すこと」が推奨されているわけだ。

だが、これがなかなか難しい。
結論から話そうと思ったら、話す前に自分の中で「言いたいこと」がまとまっていないといけない。
自分が何を言いたいのか(あるいは、何を言うべきなのか)が事前にわかっていないと、結論から話すことなんて到底できないのだ。

今回は、この「結論から語る」ということについて考えてみたい。
「結論から語ることがよく奨励されるが、いつもそうしないといけないのだろうか?」と思って悩んでいる人がいたら、読んでみてほしい。
(ちなみに、今回の記事は4000字弱くらいの長さだ)


◎私はいつも結論がわからないまま書いている

初めに言っておくが、正直なところ、私は結論から話すのが大の苦手だ。
こうしてnoteで文章を書く時も、結論を最初に書くことはまずできない。
それは、私が「実際に文章を書きながら物を考える人間」だからだ。

私はたいてい「今回は~について考えてみようと思う」とだけ最初に書いて、本当に書きながら考える。
それについて自分がどう思っているかは、書いてみないと自分でもわからないからだ。

そして、時には、最後まで書いてみたものの、結論らしいものが出てこないで終わることもある。
読み手からしたら、せっかく「結論もわからない長話」に付き合ったのに、何が言いたかったのかもわからず終わったしまうわけだから、たまったものではないかもしれない。

そもそも、今の世の中では、結論から語る書き方をしていない段階で、「そんなのいちいち読んでられない」と思う読者が多いだろうと思う。
「何が言いたいのか」が事前に明示されていないと、読んでも何が得られるかわからないので、時間の無駄になる可能性が高いからだ。

そういう意味では、私の文章はあまり魅力的ではないかもしれない。
要するに、「読んでみよう」と思わせるような文章ではないように感じられるのだ。
実際、今こうして書いている文章だって、私は結論がわからないまま書いている。
自分が何を言いたいのかもわからないまま、思いついたことをとにかく言葉にしているわけだ。

これについては、単純に私の力量不足かもしれない。
「結論から書こう」と意識して書いたこともあったのだが、結論を先に書こうとすると、そもそも何も書けなかった。
だって、結論が自分でもわからないのだから。

たぶん、世の中には「言いたいこと」を先に思いついて文章を書く人と、「何かを書きたい」という動機が先にあって文章を書く人という二種類の人間が存在するのだと思う。
そして、私は後者に属する。
私には基本的に「言いたいこと」がないが、それにもかかわらず、「何かを書きたい」という欲求だけはあるのだ。

「言いたいこと」がある人は、結論から書くこともできるのだろう。
「これが言いたいんだ」という想いがあるのだから、それを真っ先に伝えればいい。

だが、私の場合、「言いたいこと」を毎回書きながら探さないといけない。
書き始めた段階では、「とりあえず今回はこんなテーマで書いてみようかな」ぐらいは定めるが、「自分の意見」というものは特にないままスタートする。
そして、書いていくうちに、「どうやら自分はこう思っているらしい」ということが段々とわかってきて、最終的に結論が出るのだ(時々出ないこともあるが)。

◎「結論」と「答え」の違いについて

だが、考えてみれば、自分の思考を深めていくためには、結論は保留にしたほうが良いような気もする。
というのも、「自分の意見はこうだ」とか「この話の結論はこれだ」と初めから決めてしまっていては、それ以上考えが深まっていく余地がなくなるからだ。

ひょっとすると、世の中には思考によって確かめる前に直観的に物事の本質を見抜いてしまう人もいるのかもしれないが、そういう人は少数派だろう。
少なくとも、私のような凡人は一歩ずつ地道に考えないと物事を理解できない。
だからこそ、意見や結論がないところからスタートし、書きながら考えることでそれらを探していくことになるわけだ。

だが、それはそれで別にいいのではないだろうか?
結論を急ぐのではなく、むしろゆっくりと時間をかけて考える。
そうすることで、自分では思ってもみなかった考えが出てくることもあるし、意見や結論だって磨かれていくはずだ。
実際、そういったことの積み重ねによって、私たちの思考は深まっていくのではないかと思う。

もちろん、「結論から語ること」がビジネスの場面で大事なことは理解できる。
だが、なんでもかんでも結論から語ることはできないだろうと思う。
なぜなら、結論から語ることができるのは、あくまでも私たちにコントロール可能な範囲の物事に限られるからだ。
「自分でも何を考えているのかわかっていない領域」については結論なんてあらかじめわかりっこないし、それについては地道に考えながら「答え」を出すしかない。

考えてみれば、「結論を出すこと」と「答えを出すこと」とは、似ているようで微妙に違うかもしれない。
あくまで私の印象だが、「自分の結論」よりも「自分の答え」のほうが、「思考の手垢」がたくさんついている気がする。

たとえば、「結論」を出すためには要点だけをまとめればいいが、「答え」を出そうと思ったら、たくさんの思考錯誤や人生経験が必要になるのではないだろうか?
「これが私の結論だ」と言ったら、それはあくまで論理的な帰結に過ぎないように感じられるが、「これが私の答えだ」と言われると、そこには理屈を超えたその人自身の人生哲学が含まれているように感じられるのだ。

◎考え終わってから目次を作れば、疑似的に結論を先に示せる

「人に何かを伝える時は、結論から語るべし」という不文律は、ビジネスの場面だけでなく、ネットでの情報発信においても広がっている。
もちろん、結論から語ったほうが聞き手や読み手にとって話がわかりやすいのは理解できるし、「それがマナーだ」と言われれば、確かにそうなのかもしれない。

だが、いつも必ず結論がわかっているとは限らない。
そもそも、自分が何を考えているかなんて、自分でもよくわかっていないのが人間というものだ。
少なくとも、私は自分が何を考えているか、自分でもよくわかっていない。
だからこそ、いつも書きながら考えるのだ。

ただ、私の場合は、結論こそ最初に述べないが、目次を記事の頭のほうにつけることが多い。
ちなみに、この目次はいつも記事を全部書き終わった後につけているので、目次を作っている段階では、結論が自分でわかっている。
だから、私の場合、目次の最後のほうに結論(らしきもの)を見出しにしてつけることもけっこうある。
つまり、それを見れば、別に文章全部を読まなくても、「私が言いたいこと」についていくらか予想できる可能性が高いわけだ。

もし目次を見て結論がわかるのであれば、私も疑似的に「結論を先に述べること」ができていると言えるだろう。
もしも情報発信をするときに結論を先に持ってきたいと思ったら、そういう手段も“アリ”かもしれない。

書く前には結論がわかっていなくても、書き終わった段階までいけば、自分の中で話も整理できているものだ。
そこまで行ってから、文章全体を見渡して区切りごとに見出しをつけ、目次を作って記事の頭に置けばいい。
もちろん、目次を作る分の手間はかかるが、そのほうが記事はグッと読みやすくなると思う。

◎「自分の答え」を見つけようと思ったら、結論はひとまず忘れること

とはいえ、もともと私としては、「結論が先にわかるように」と思って目次を作っていたわけではなかった。
ただ、noteにそういう機能があったので、「せっかくだから使ってみるか」と思ってやっていただけで、これまであまり深く考えてはいなかったのだ。

だが、今回こうして書きながら考えてみて、「目次を記事の頭に置くのは、読み手にとって話をわかりやすくする効果がある」ということがわかった。
だから、これからも目次作りは続けていこうと思うわけなのだが、こういうことが「書かないとわからないこと」なのだ。

私たちは、自分自身でもよくわかっていないまま、いろんなことをやっている。
それにはどんな意味があるのか?
なぜそのようなことをするのか?
そういったことは、あらためて考えてみないとわからないままだ。

また、無意識に感じていることや考えていることなども、きちんと言語化しないと自覚することができない。
むしろ、私たち自身にわかっていることなど、ほんのごく一部に過ぎないだろう。

だから、本当に深く物を考えようと思ったら、結論についてはひとまず忘れていてもいいと思う。
とにかく、まずは考えることだ。
頭の中だけでは整理がつかないようなら、私のように文章を書いてもいいだろうし、図にしたり絵を書いたりしてもいいかもしれない。

いずれにせよ、そういった試行錯誤の中でこそ考えは磨かれていくものだし、最終的に、「結論」を超えた「自分自身の答え」もまた、思考することによって見つかるものではないかと私は思う。