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「草むしりは正しいの?」と小1から訊かれたら、あなたは何とこたえますか?

草むしりは『正しい』のか?

「僕のしたことは、ただしかったと思う?」

小1の息子に、そう聞かれた。

『正しかった』という言葉の重みに、ややひるみながらも私は、
「『僕のしたこと』とは、つまり今、草をむしったことの話?」
と聞き返す。

ついさっきまで息子は、たまたま通りかかった遊歩道沿いにあったベンチから飛び出していた雑草を一心にむしっていて、その直後のことだった。

「うん、草をむしったことの話だよ。」私の問いかけに、息子はそう答えた。

何と答えようか?

私は、思案した。

「草むしりをしてきれいになったんだから、正しいよ。」なんて、簡単に言いたくない気がしたから。

そして、少し考えてから、こう答えた。

「正しかったか、正しくなかったか?それを決めなくていいんじゃない?少なくとも…悪いことをしたとは思わないけれど。」

息子は納得したのかどうかわからない表情でいる。
普段から息子と私の会話はこんな風に、すっきりさっぱり片つかない事が多いので、私はそれ以上言葉を続けることはしなかった。

そして私は、この世に唯一の『正しさ』なんてない、一体『正しい』とはどんなことだろう…?と考えた。

『正しさ』とは、何か?

例えば、究極に正しくない、と感じられる『人殺し』だって、戦争中には、敵を殺すことが『正しく、立派な行い』とされていたのだ。

そこまでいかなくても、文化や状況によって、『正しい行い』なんてものは、いくらでも変化する。

そんな風に考えた後で、息子がなぜ『正しさ』を気にしたのかも、私は気になった。

もしかしたら、「正しいことをしなさい」とかなんとか、道徳の授業ででも言われたのだろうか?
(実際、新一年生の息子は、既に五月雨登校で、休校の影響が最小限だった地域だったにも関わらず、まだ10日も登校していないのだけれど。)

そして、お風呂に入った時に、やっぱり聞いてみることにした。

「どうして今日、草むしりが正しかったか、気になったの?」


すると、彼はこう答えた。それは、私が想像していなかった答えだった。

「だって、植物に迷惑だったかな、と思ったから。」

なるほど。この子は、ひとしきり草むしりに集中した後で、植物の気持ちを考えたのか・・・

またしても私は、彼の言葉に何と答えようか?思案してしまった。

正しく、迷惑をかけないと人は幸せになれるのか?


『正しい行為』

『人に迷惑がかかる』

この二つは、長い間、私たちの文化の中で、しつけと切っても切り離せないワードとして君臨してきた。


大人としての『務め』だ。そう思って、私たちの親もそのまた親も、子どもに言い聞かせてきたであろうこの二つの言葉が、こころに呪いのように沁みついていくことは果たして、その人を幸せにするのだろうか?

わたしは、今、そうは思わない。

「自分が正しいことをしている」、「自分は人に迷惑をかけていない」。この思いが強ければ強いほど、一見正しいことをしていない他者、人に迷惑をかける他者を許せなくなる。


現に私が長い事そうだった。


常に正しくあれ、と言い聞かせられてきた私は、『正しくない自分』を感じるたびに、苦しんだ。

『人に迷惑をかける』ことを恐れるあまりに、人に頼れず、自分の限界を超えて無理をし、結果的には、最悪の形で人に迷惑をかけたこともあった。

そこまでして、私は『迷惑をかけないように』しているのに、平気で人に迷惑をかけ、それを気に病んでもいないような人を見るたびに、イライラした。

それは同時に、『迷惑をかけても平気でいられる』ことへの嫉妬でもあった。


もしも。

正しさを追求するよりも、正しくありたいけれどいつもそうはいかない自分を受け入れる方に力を使えたなら・・・

同じように『正しくない他者』を裁かないで済む。


迷惑をかけないことに必死にならずに、迷惑をかけ合える関係を作れたとしたら・・・

困った時には誰かに助けてもらえるんだ、という安心感が生まれる。迷惑をかける人を憎まずに。

お互い様で生きる

結局、息子には、こう話した。

「植物が迷惑に感じたかどうか、お母さんにはわからない。でも、誰にも迷惑をかけずになんて生きられないんだからさ、まぁお互い様だよね。それにしても、よく、植物の気持ちを考えられたよね。それって大事なことじゃない?」と。

またしても、わかったようなわからないような、さほどもうこの話題には興味がなさそうな息子。ここでこの話題はフェードアウトした。

本当は、「短くわかりやすい言葉で伝えるのが望ましい」とされている特性の子なのだ。そしてこういう『ここは、なぁなぁに出来ない!』と思う話題になると特に自分の話がまどろっこしいのも、自覚はしている。

でも、この世はわかりやすくは出来ていないし、一言で言いきれない事で溢れている。


私が言いたかったことそのものがたとえ伝わらなかったとしても、「とにかくそんなにバッサリと切ってまとめられるようなことばかりではない」と感じてくれたらいいな、と思う。


むしられる草は、「なんて人間はひどいんだ!」と感じているだろうか?


きれいに草むしりをしてさっぱりしている、私たち人間の気持ち、

むしられて迷惑だったかもしれない、草の気持ち。


どちらが正しいかなんて、私にはわからないけれど。

あえて言うならば、どちらも正しく、お互いに迷惑をかけ合って生きているに違いない。

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