AI遺電子の1話を考察してみる
プライム・ビデオでたまたま見つけた作品。
攻殻機動隊シリーズが好きなので、サムネイルから「電脳」かなー?と思いつつ視聴を開始した。
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0C945HMJ1/ref=atv_dp_share_cu_r
今回は1話について気になる点があったのでそれを考察をしてみようと思う。時間があれば他の話数もまとめるかも。
※ネタバレを含む可能性があるので、作品を視聴後に拝読することをおすすめします。
この作品における初記事なのでここに基本的な世界観の話を入れています。
基本的な世界観の話
ヒューマノイドと人間
この作品ではヒューマノイドが人間の社会で生活をしている。
AIの話やSFが好きな方はこういった世界観をよく目にしているだろうと思う。
が、この作品ではそんな視聴者の今までのイメージを覆えすほど、”ヒューマノイド”が”人間そっくり”に描かれている。
ヒューマノイド(humanoid)は”人間そっくりの”という意味を持つ英語であるからして、「いやいや、だってヒューマノイドじゃん」と思う方もいらっしゃるだろう。しかし、私が言いたいのは「”人と区別がつかない”ほどの超弩級のヒューマノイドである」ということだ。
彼らと人間を区別できる特徴は身体的なものしかない。
それは”瞳の形”である。
詳しくは作品を観てもらえば分かるのでここでは割愛させていただくが、いままでのヒューマノイド”ロボット”とは一線を画すものになっていることを抑えていてほしい。
たとえば、感情面。これはいままでのAIやヒューマノイドロボットと違い、紛れもなく”人間”そのものである。嫉妬や怒り、喜びなど人間が持ち得る感情を有している。逆に言えば、いままでのAIやロボットのような側面が一切排除されている。
前述したように区別できうる特徴は”瞳の形”のみである。
ここまで人間に寄せすぎたヒューマノイドがどうやって人間と共存していくのか、今後の展開に期待を持たずにはいられない。
1話のテーマについて
1話でテーマになっているのは、「バックアップ」。
彼らはバックアップをすることで人格をコピーすることができる。
それはつまり、肉体が消えても新しい肉体にバックアップを入れれば同じ人格・同じ記憶を共有した個体が生まれることを意味する。同じ容姿の体を作れば中身も容姿も同一、不死の命の誕生である。
しかし、この世界ではバックアップは犯罪として扱われており、かつウイルスによりオリジナルの個体に悪影響を及ぼす可能性が示唆されている。
技術的には不死を実現できるが、現実的にはリスクを伴うものであるという設定になっている。
世界観の考察
なぜヒューマノイドを生み出したのか
みなさんはどんなときにロボットやAIを利用したいと思いますか?
私は、肉体的な労働や機械的にできる作業であればロボットやAIが人間の労働を奪い、人間の社会活動を支えてくれればそれは素晴らしいことだと思います。人間はより創作活動や自己実現を目指すことに時間を使い代用可能な労働からは開放される。
そんな価値観でこの作品のヒューマノイドをみていると疑問が湧いてくる。
「これだけ人間に寄せていたら、労働力として使えなくないか?」という疑問。
彼らは人間と同じように思考し同じように感情を持っている。
つまり、彼らには”人権”というものが存在しているように見受けられるのだ。人間の言うことに忠実ではなく、彼らは彼らで社会活動を人間と同様に行っている。それは、労働の拒否や人間への反発が起こる可能性をはらみ、人間社会との対立も考えられる。
ヒューマノイドを生み出した人間が彼らをそう設計したのだろう。設計思想や社会思想、ヒューマノイドと人間の共生の構図など、上記の疑問を持ち得ることは造作もないことであろうと思うが、この疑問が後々解消されることを願っている。
実は1話を2回視聴した。
視聴1回目では、バックアップから復元をする直前に拒絶をしたヒューマノイド(母親)の気持ちが理解できなかったし、スクランブルエッグの味付けについて涙した人間の子供(ヒューマノイドの母の養子)の気持ちが分からなかった。
が、2回目の視聴で自分なりの理解ができた。
今回の記事はこの点が肝である。
バックアップにおける考察 ー【拒絶したヒューマノイド】
彼女はバックアップを取った後からバックアップで復元するまでの時間(1週間)、自分の記憶が消失することを理解していた。
ただ、1週間分記憶がないだけだと。
しかし、いざバックアップするときにドクターが言った言葉。
「フォーマットする。頭の中を更地にしてからバックアップを入れる」
この言葉に取り乱した彼女の気持ち、みなさんは理解できるだろうか。
彼女は自己認識することができており、その上でバックアップを入れることを許容することができていたはず。それは上書きのような感覚だったんだと思う。言い換えれば差分バックアップのような、ウイルス感染した部分だけをキレイにするようなものだと。
でも実際は、”すべてを消す”という作業が入る。
これはつまり、彼女が今現在自己認識しているものをDeleteし、新しいものを入れることである。もちろん新しいものは自分のバックアップだということは分かっている。しかし、そのバックアップが本当にいま自己認識しているものだという感覚や実感を得ることはできない。当然、バックアップを入れ終わった後もそれを確認することはできない。なぜなら前の彼女はDeleteされているからだ。
普段、パソコンやスマホを使ってデータのバックアップや復元をされたことがある人なら分かると思うが、当然同じデータなので差分がないことは明らかである。しかし、なぜ私達がそれを受け入れることができるのかは、その結果を確認することができるからではないだろうか?
バックアップ、復元、という作業を終え同じようにデータが存在することを確認できるからこそ私達は同じものであるという判断ができる。
その確認者であるはずの自分が消されるというのだから、バックアップ後の自分が自分であろうということは想像することが難しいのではないだろうか。
そこに彼女の拒絶した理由があるのだと思う。
いっそ、死んだ上で生き返らせてほしいと。
バックアップにおける考察 ー【スクランブルエッグが意味すること】
バックアップを復元したとしてもバックアップを取っていない期間の記憶は取り戻せない。この期間に母親はスクランブルエッグの味付けを変えた。子供はその味を気に入り、そこから1年ほどその味付けで食していたのだと思う。そして母親が逝き、バックアップで復元した彼女はスクランブルエッグの味付けを変えたことを覚えていなかった。
「生クリームいれた?」
その質問に含まれていた問いは言葉以上の想いがあったと思うが、残念ながら返事はNOであった。
バックアップで復元されるまで過ごした時間を子供は覚えており、それを共有していたはずの母親は何も覚えていなかった。それは子供にとって容姿や人格が同じであっても別の人間に思えたであろう。一度、死んだものが生き返るということは過去のモノと対比される。そして悲しいことに過去のモノは一生変わらない。もし、死なずに生きていた場合は自然な変化も受け入れられる(生クリーム入れるのをやめるなど)かもしれないが、新しく生を受けたものが同じ変化をしたならばそれは「違うモノ」として認識されるであろう。
生物というものが自分の意思で生きることができる以上、死からの生還は絶対に起こり得てはいけないものである。
もし、あなたが死に生き返ることができたとして、それは本当にあなた本人であると言い切ることはできるだろうか?
了
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