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街明かり-もう一度- ②


 もう諦めよう。
 印刷所からの帰り道、私はぼんやりとそう思った。自分はそれほど編集に向いていない。さして自分の実力がないことに執着する理由はあるのだろうか。
 今まで通り、この印刷所にたまに顔を見せてこんな風に話せたら別に良いじゃないか。と自分に言い聞かせた。
 休みの日には神保町に繰り出して自分が心行くまで本に触れる。欲しい本はたくさんあるが、今の部屋はワンルームで、ほんの置き場所があまりない。だから一日買える本を3冊と決めている。一人暮らしをし始めたのはつい最近のことだ。
 都内に両親が住んでいて、大学を卒業するまでは好きな本を好きなだけ読めるスペースと余力があった。だが、就職をしたからは別に忙しいとは思っていないが、雑務に追われ自社の出版物を読むように言われたため、他の本を読むことができなくなっていた。
 ぼんやりと神保町を歩いていると、見覚えのあるボサボサ髪の男がこちらに歩いてくる。
「あっ・・・・・・」
明らかに光だった。
 光も夏生に気づいたようだったが、無視して行くのかと思うほど歩幅でこちらに向かってくる。
「こんにちは」
と恐る恐る夏生は頭を下げた。
 すると光は「ああ」とだけ言ってけだるそうに言った。
「よく来るんですか?」
「まあ、あんたも?」
「はい、本読むのは好きで」
「へえ、だから編集部に行きたい訳ね」
「えっ・・・・・・ああ、覚えていらっしゃったんですね」
「だってあのとき、相当酔ってたし」
「そんなに私、酔ってました・・・・・・よね」
と反省していた。時計の針は丁度十二時を指していた。
「あっ、この間のお詫びをかねて、お昼ご一緒しませんか? 私おごります」
「へえ、何おごってくれるの?」
「神保町ってカレーがおいしいじゃないですか。だからカレーとかどうですか?」
とダメ元で誘ってみた。自分でも不思議ではあった。どうして光を誘おうと思ったのか。
 光はすっと歩き出す。「やはりだめだったか・・・・・・」そう思ったときだった。
「何ぼさっとしてるの? おごってくれるんでしょ?」
と言う声が聞こえる。私はハッと顔を上げて光の方へ駆け寄った。
 光の後をついて行った先は、ビルの一角で人一人が入れるギリギリの入り口から階段を上った先にあるカレー屋さんだった。
「こんな場所にカレー屋さんがあるんだ」
「神保町によく来るって行ってたのに知らないの?」
「あんまり食事を取らないから」
と言うと席に案内された。 
 注文をして待っている間、光はずっと本を読みふけっていた。
「あの、私、決めたんです」
と言うとちろりとこちらに目線だけ合わせる。
「何を?」
「いえ、この間、編集部に行きたいって言ってたんですけど、印刷所に行くのも楽しいし、そっちの方が向いてるんだなって気づいて」
「へえ、諦めちゃうんだな」
「えっ?」
と私が光の顔を見たときには目を本に落としていた。
「前も言ったけど、俺は望むことも諦めることもできないから分からないけど、あんたは頑張ってると思う」
「ありがとうございます。光さんは・・・・・・夢とか無いんですか?」
「俺は別に働くことができれば良い。休みの日は好きな本を読んで、好きに過ごせたらそれだけで十分だよ」
と言って届いたカレーに手を伸ばした。
 夏生の中で、謙虚な感覚を持った光を不思議そうな顔をしてみていた。
 夏生たちはカレー屋さんからでた。陽が差し少し暑くなってきていた。
「ごちそうさん」
「いえ、私もおいしいお店を教えてもらえて良かったです。まだ本を見て帰られるんですか?」
「いや、部屋が狭いからたくさんは買わない。もう帰る」
「そう、私も帰ります」
「ふうん、出版社に勤めてるのに三冊で良いの?」
「いえ、私も部屋が狭くておけないし、別に私は必死で読む部署でもないから」
と言うとクスッと笑って夏生を見る。
「あんたはそのままが良いのかもしれないな。俺は出版社の事はよく分からないけれど、きっと編集者になったら、好きな本も読めないだろうし、忙しくもなるだろうしね」
と言った。
「そうですよね。だから私はこのままで良いんだと思います」
と言って笑って見せた。
「あんたは、もし編集者になったらどんな本を出版したかったわけ?」
と光が聞く。
「私はミステリーが好きだからミステリー作家さんの本を出したかったな」
「へえ、ミステリー好きなんだ。俺も横溝正史とか読むよ」
「本当に! 私もよく読むわ」
「古い本なのに意外だな」
と二人で笑った。
「今度、本を貸してくださいよ」
「えっ、俺が持ってる本?」
「はい、二人で貸し合えば買うより安いわ」
「確かにな。じゃあ、今度印刷所に来るときに頼む」
と言って約束をした。
 夏生は少しウキウキしていた。社内でも自分の趣味や好きな本について多く語る方ではなかった夏生にとって、光は少し特別な存在になっていった。
 いつものように編集部から呼び出しをされた。
「これ、印刷所に持って行ってくれ」
「はい・・・・・・」
「そういえば、ここに勤めて何年になるの?」
「えっ?」
いつになく、編集長から声を掛けられた。
「えっと、五年になります」
「大卒で?」
「はい」
「そう、もうそんなになるのか。結婚とかしないの?」
と聞かれた。明らかにセクハラだが、夏生はぐっと我慢をして原稿を受け取った。
「そんな兆しはありません」
「ふん、まあいい人いたら結婚はした方が良いぞ」
と言った。夏生は頭を下げて会社を出た。
―おいおい、離婚してる編集長には言われたくないよ―
悶々とした思いが駆け巡ったが、急いでお菓子を買って印刷所へ向かった。もちろん、光と約束をした本を持って。
 印刷所につくと、丁度休憩中だったのか、休憩テーブルに一同に集まっている。
 夏生が声を掛けようとしたときに社長が話を始めた。
「もう俺も歳でな。後を継ぐ人間もいない」
「そうなの。まだ、社長業ができているとは言え、脳腫瘍も経験してるし怖いのよ」
と奥さんが下を向いていた。夏生は物陰に隠れてその様子を伺っていた。
「そういうことで、別に今からって訳じゃないけど、光に跡を継いでほしいと思ってる」
と言う社長と奥さんが見詰める目線の先にいる光を他の従業員が見つめていた。
 すると光はゆっくりと下を向いている目線を上に上げる。
「俺、多分、無理っすよ」
「どうして? ここで一番ノウハウを知ってるのはお前だぞ」
「そうよ、私たちも貴方が跡を継いでくれたらこれほど嬉しいことはないのよ」
「親もいない、俺を拾ってくれた社長や奥さんの気持ちは嬉しいけど、俺にはそんな資格はないですから。それに潰すのがオチです」
と言った。
「そんなことないわ。みんなも光なら・・・・・・
「まあ、ゆっくり考えてくれたら良い。まだ若いんだし、俺もまだやれる。だから後二、三年は猶予もあるから考えてみてくれ。だめだったらお前が言うように遅かれ早かれ廃業届を出して、みんなには別の就職口を探しておくよ」
と社長は微笑んだ。光はこっくりと項垂れるように首を縦に下ろした。
 夏生は話が終わるまで待った上で、何事もなかったように挨拶をして出て行った。
「お疲れ様です。三校ゲラお持ちしました」
と言う声に社長は顔色を仕事モードに変えて笑顔で出てきた。
「おぉ! お疲れさん」
「吉岡さん、いつも悪いわね。今お茶入れるわね」
「いいえ、お構いなく。こちらこそ入校が遅くてすみません」
「夏生ちゃんのせいじゃないよ」
と言って奥さんが席を用意してくれた。
 夏生は持ってきたお菓子を出してみんなに配っていくが、光の姿が見えなくなっていた。トイレを借りるフリをして外に出てみた。するとベンチに座る光を見つけた。夏生は近寄っていき、様子を伺う。
「こ、こんにちは」
「あぁ、あんたか」
「どうかしたんですか?」
なんとなく察しはついていた。さっきの話を悩んでのことだったのだろう。
「いや、別に」
「そう・・・・・・そういえば、本を持ってきたんです」
「あっ、そう。ありがとう」
と言って夏生が差し出した本を受け取った。
 夏生はそのまま光の隣に座った。
「私は良いと思います。貴方だから社長や奥さんも跡を継がせたいって思ったんだろうし」
「あんたが思ってるほど楽じゃないんだぞ。馬鹿な俺だってそれぐらい分かる」
「やってみないと分かんないじゃない!」
「えっ?」
「私だって馬鹿だし、社内でも孤立してる。でも、チャレンジ精神だけは持ってたよ。やりもしないで諦めるなんて野暮よ!」
といつの間にか自分のことのように熱くなっていた。
そんな夏生の姿を見て光はプッと吹き出す。
「す、すみません。なんか熱くなっちゃって」
「いや、それもそうかと思ってさ。まあ、まだ時間はあるから」
「そうですね」
と夏生は熱を冷ますように座り直す。
「じゃあ、あんたも手伝ってくれよ」
「えっ? 私は何もできませんよ」
「あんたが嗾けたんだ」
「どうしたら良いの?」
「奥さんと社長みたいになればいいわけだよ。どうせ、あの出版社にいたって今と変わらない生活なら、こっちで働いたって良いわけだろ?」
「まあ、そうですけど。奥さんと社長の関係性は夫婦ですから」
「俺はそうなっても良いと思ってる」
とさらっと大切なことを言われた。
「ちょっと待って、私たち夫婦になるの?」
「そうだよ。俺はそれが一番手っ取り早いと思ってる」
と少し真剣な顔をしていた。
 夏生は今付き合っている人がいるわけでもないし、今の会社に未練は無かった。それこそ、ここにいられるなら幸せことだ。
「わ、分かりました。でも付き合う段階がほしい」
「それもそうだな。俺の生い立ちとか聞いたら、あんたの親だってなんて言うか分からないし」
と笑っていた。夏生は初めて光の笑い顔を見たように思った。

 夏生と光は付き合う事になった。だが、夏生が思っているような一般的にいうカップルのような感じではなかった。
 休みの日は図書館や本屋を巡った。本を調達すると、ひたすら喫茶店で読み込む。
 夏生は今でも疑問だった。
―私のことを本当に好きなのだろうか? 私は少し気になっていた分、彼よりも熱量は高いと思うが―
 そう思いながら本を読むフリをして光をのぞき見た。
「何?」
「いや、話さないのかなと思って」
「何かあったの?」
「いいえ、それより付き合ってるのよね? 私たち」
「そうだな」
「でも貴方って私に自分のことを話さないじゃない?」
「何が聞きたいの?」
「ご家族のお話とか。この前言ってたじゃない。家族がいないって」
「ああ、俺は五歳のときに父親が蒸発して、母親も男を作って出てったんだ」
「そ、そうだったの。ごめんなさい。私、何も気に掛けず聞いてしまって」
「ううん、別に俺は聞かれても良いと思ってたし。いずれ夏生の親にも言うことになるから」
「うん、うちの親は何も思わないと思うの」
「そうか、まあ、その方が良いよ。俺はずっと施設で高校を卒業するまで育ったんだ」
「それから就職を?」
「そう、就職先を探して、この印刷会社を紹介してもらった。社長も奥さんも子供がいないから、俺のことを我が子のように可愛がってくれた」
「そうだったの。あの社長さんと奥さんらしい」
「うん、まあ優しい人たちだからね。俺はそうはなれない」
「そんなことないわよ。あのお二人と一緒にいたんだもの」
「まあ、頑張るよ」
と言って珈琲に口をつけた。
 一年後、夏生の親に二人で挨拶に行った。母は心配そうにしていたが、父はあまり心配はしていないようだった。光の生い立ちも二人が良いならと認めてもくれた。
 そして夏生は仕事を辞めた。未練はなかった。もしこれが編集の仕事をしていたら未練はあったのかもしれない。
 印刷所の社長と奥さんに挨拶に行くと、驚きを隠しきれない顔をして腰を抜かしていた。
「夏生ちゃん、本当に光と?」
「どこでどうなったんだよ。でも良かった! 俺は嬉しいよ。光と夏生ちゃんが一緒になってくれたら」
「ありがとうございます。私も不思議なぐらいで」
「そうよね、でも本当に良かったわ」
「社長、奥さん。俺、考えてみたんだけど。跡を継ぎます」
「本当か! 光」
「はい、夏生にも手伝ってもらおうと思うんだ。良いですか?」
「もちろんよ! 吉岡さんが良いなら入ってもらって」
「私も頑張りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします」
と頭を下げた。
 結婚式はよく覚えている。バブルがはじけてからというもの、こじんまりとした式が多くなった。光もあまり友達がいなかったため、人数の少ない式になった。
「夏生、おめでとう」
「ありがとう」
と友達たちがお祝いをしてくれた。
「あんた、作家になりたいって言ってたのにね」
「そんなの無理よ。編集者にだってなれなかったし」
「次は印刷所夫人か」
「やめてよ。別にそんなんじゃないよ」
と言って笑った。周りは医者や弁護士と結婚したりしている子もいたが、私はそれなりに幸せだった。
 印刷所では経理を奥さんと一緒に行う。最初は何も分からず、経理をやったこともなく、給料日には四苦八苦したが、二年が経つ頃にはミス無く、一人でやりこなす事ができた。
 光の方も専務という役職から始めて、社長に同行しながら事務も覚えているようだった。忙しそうにしているが、充実もしていて、家庭ではよく仕事の話をするようになっていた。
「従業員を増やそうと思ってるんだ。増やすと言ってもカズさんや三木さんが定年を迎えてしまうからだけど」
「そうよね。求人の準備もしないと」
「うん、頼む」
と言って夕食を取る。夏生はそろそろ子供がほしいと思っていたが、光はそうも思っていないようだった。

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