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街明かりーもう一度⑤ー


 加藤君は夏生の腕を引いたときだった。そのまま夏生の唇を奪い去っていった。
 一瞬の出来事だったのに、夏生は長い時間に感じた。心臓の鼓動が止まらない。しばらく下を向いていると、ぽつりと加藤君が囁く。
「今日、もう少し一緒にいないか・・・・・・帰したくないんだ」
 目覚めると、もう十二時を回ろうとしていた。慌てて起き上がり、現実を見る。その瞬間血の気が引いて、夏生は取り乱しそうになったが、身体の方が先に動いていた。急いで下着を着て、上着を羽織る。気配に気付いたのか、加藤君が起き上がる。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないの。こんな時間になっちゃった」
「帰るの?」
「当たり前よ・・・・・・どうしよう。私ったら」
「どうして焦るの? もう気持ち無いんでしょ?」
と言って夏生の背中に身を寄せるように抱きしめた。
「こう言うのって浮気って言うんだよね。いや、不倫か。私、今、焦ってるよ。加藤君も旦那もきずつけてしまう」
とワンピースのフォックを必死で閉めようとしている。
 さほど酔ってもいなかったし、素面のはずだった。なのに、どうしてこうなってしまったんだろう。
 夏生は理性を取り戻すのに必死だった。
―今ならまだ間に合う―
 そんな思いが頭を駆け巡った。
「どうしてあんな旦那に、お前は尽くすんだよ! 好きで結婚し訳じゃないんだろ?」
「だって、だって・・・・・・じゃあどうしてすぐにでも言ってくれな無かったよ」
と泣きながら外にでた。
まだ電車に乗れば間に合う。何ならタクシーでも良い。
 夏生はあたりを見渡しながら小走りをする。すると一台だけタクシーが横付けした。
慌てて窓をたたいた。
「すみません、三鷹まで」
と言うとタクシーの運転手はとても無愛想に返事をしてドアを閉めた。
 夏生は無意識に頭をもたげ、小刻みに震えていたように思う。気がつけば、家につくと急いでシャワーを浴びた。
 夏生は全てを洗い流して何もなかったことにしようとしたのだ。
 すると、物音で光が起きたらしい。寝室からの物音で、夏生も慌てて髪を乾かした。
「ただいま、遅くなってごめんなさい」
「いや、でも遅かったな」
「うん・・・・・・ちょっと著者も一緒だったから」
「そう、無理しないようにな」
「ありがとう」
と言うと光はリビングで水を飲んで寝室に戻っていった。夏生は動揺を隠しきれないでいるのを見破られているのではないかと、内心ドキドキしていた。
 翌朝、夏生は昨日のことが気がかりで、あまり眠れなかった。
「おはよう・・・・・・」
「昨日眠れなかったみたいだな」
「うん、いろいろ指摘を頂いたからね」
「ふうん、まあ、無理するなよ」
「ありがとう」
 光はいつものようにコーヒーを飲んで、仕事に向かった。
 夏生はしばらく家事をする気にはなれず、ソファに腰掛けたまま、メールを打った。
―昨日はありがとう。急いで帰ってしまってごめんなさい。―
書いては消し、書いては消しをしていると、着信が入る。加藤君からだ。しばらく出ることが出来ないまま、画面を眺めて意を決したように出てみる。
「も、もしもし」
「な、夏生、大丈夫か?」
「大丈夫よ。昨日はごめんなさい」
「いいや、俺も悪かった。ただ、あのときの言葉は嘘じゃない」
「あ、ありがとう。でも私には生活があるの」
「それでも良いんだ。二週間に一度、あの仕事の時だけでもいい。会いたい」
と加藤君は話す。
 夏生は、加藤君の声を聞いて、昨日の事を思い返していた。あまり覚えてはいないが、断片的に記憶をたどる。
 キスをした後、時間が止まったように思った。そのまま吸い込まれるように近くのホテルに身を寄せたのは覚えている。裸で眠っていた事を考えると、そういうことをしてしまったんだろう。
 加藤君が話している内容がうまく入ってこないまま、電話は続いている。
「今度の本の打ち合わせが」
と聞こえたところで、我に返った。
「えっと、本?」
「そう、仕事」
「ああ、ごめんなさい。私ったらぼんやりして」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ゲラ、どうしようね」
「また銀座とかで会えたら、来週あたりにゲラが出来るからさ」
「じゃあ、来週にしましょう。同じ時間で良いかしら?」
「うん、かまわない」
と言って電話を切った。夏生は電話が切れるまで息を止めていたように思う。
 あれから一週間ばかり経った頃だった。夏生は、街に光のスーツを見に行った。すると、懐かしい歌が流れてきた。「見る夢が違う、着る服も違う。でも一番私を知っている」その歌詞に夏生と光を重ね合わせてみた。だが、重なるところは見当たらなかった。
 スーツを買い、靴も新調しようと思う。光は昔から服には興味がない。付き合っていた期間というくくりにしてはお粗末な関係の中でも、光が服を買った事はないし、いつもヨレヨレのシャツで着ていた。だから誕生日には必ずと言って良いほど衣類を買っていたように思う。結婚してからもそうだ。夏生が寝坊をして、朝の準備がおろそかになった時、光が取り出してきたのは冬なのに夏用のスーツだった。そんなことを思い出して、ショーウィンドウ越しに笑ってしまった。
 いろいろと買い物をして、家路につき、この間加藤君から受け取ったゲラに目を通す。そこには、夫の不倫が原因で復習する妻を描いたものだった。
 読み終えると、夏生はため息をついた。少し感情移入しすぎてしまったようで、なかなかコラムに進むことが出来ない。パソコンの前で、書いては消し、書いては消しを繰り返しながら、頭を抱えていると、インターフォンが鳴る。ゆっくりと受話器を取ると、光が立っていた。
「お、お帰りなさい」
「おお、ただいま」
と行って鍵を開けると、光はいつものように入ってきた。
「今日は、早かったのね」
「うん、早く終わったからな。そうだ、今日は外で食べないか?」
「えっ?」
「たまには外食も良いだろ?」
「そうね、じゃあ、支度します」
と行って光のスーツを受け取って寝室に入った。
 光と外食に行くのは久しぶりのことだ。考えてみれば、結婚する前にデートで行くのは、決まってカレー屋か、大衆食堂ばかりだった。それでも、神保町で本を選んで、本の話をしているときが楽しくてたまらなかったのを覚えている。
「お待たせしました」
と玄関に向かうと外で飛行機を眺めている光がいた。
「じゃあ、何が食べたい?」
「何って・・・・・・特にはないんだけど、貴方は?」
「最近、カレー食べてないな」
「じゃあ、カレーにします?」
「あの欧風カレー食べに行くか」
「良いですね。たまには神保町も」
と言って歩き出した。
 今まで手をつないだことも、腕を組んだこともなかった私たちは、今まで通り神保町まで電車に乗る。神保町のカレー屋は混んではおらず、すんなりと席に座ることができた。
 注文を終えると、光はふと外を見つめた。
「最近、コラムの方はどう?」
「そうね、とりあえず、二回目もお願いされてる」
「そうか、順調なんだな」
「うん」」
と言うと少し光が微笑んだような気がした。今まで、家のことや夏生自身のことなどに興味はないと思っていたし、光から聞かれたこともなかったのだ。少し動揺したが、それを必死に隠した。
「どんな本を読んでるの?」
「そうね、最初はミステリーだったわ。あと、今回は恋愛ものね」
「そうか、その本ってもらえるの?」
「ええ、もらえるわ。できあがっていないからまだゲラだけど」
「そうか、もしかして、今、再校の分かな?」
「そうよ、うちだったの。印刷会社」
「そうそう、カバーもきれいだったよ」
と久しぶりに光は明るく話す。こんな風に話す光を久しぶりに見たように思った。
「今度コラムも読んでみたいな」
「恥ずかしいわよ。大した物じゃないの」
「良いじゃないか。今度読ませてくれよ」
と言っている間にカレーが出てきた。昔と変わらない欧風カレーには蒸かしたジャガイモが付いている。
「このカレー昔と変わらないな」
「うん、美味しい」
「コラムじゃなくて、自分では書かないの?」
「えっ?」
「ほら、小説」
「無理よ。貴方も知ってるでしょ? 編集者でさえなれなかったのよ。無理に決まってるわ」
と少しおどけて見せた。すると少し寂しそうな顔をした。
「依頼主はなんて言ってるの?」
その「依頼主」という言葉に夏生はハッとした。加藤君のことをこの時間だけは考えないようにしていた。だが、この「依頼主」という言葉で思い出してしまったのだ。
「何もないわよ。何も」
「何もない?」
「そうね、コラムのことしか言わないわ」
と言って注意をそらす。ここであのときのことが露呈してしまってはいけない。あのときのことはばれないようにしないといけないのだ。
 カレーを食べ終わると、店をでた。外の空気は澄んでいて、まだ街が動いている様子があった。
「この町はいつも眠らないね」
「東京はしかたないわよ」
「たまに銀座とかに出るだろ? 銀座はどう?」
「銀座も変わらないわ。いつも明るい」
「そうか、本でも見て帰るか」
「そうね」
と言って本屋に寄る。本を手に取る光の横顔は、真剣そのものだった。
 そしてあらすじや装丁などをきちっと見て、吟味した結果、三冊を手に取りこちらを振り返った。
「君は買わないの?」
「ああ、私もこの本たちを買おうかなって」
「そう、じゃあ、一緒に買うよ」
と言って、夏生が持っていた本を受け取った。
「あ、ありがとう」
と言ってぼんやりと光を眺めた。光はきっと何も変わっていない。夏生は自分が変わってしまったことを少し反省した。
 外に出ると古いレコードショップの前からまたあの曲が流れてきた。
―冷蔵庫の中で凍りかけた愛を温め直したいのに―
「俺、この曲好きなんだよな」
と言って光はレコードショップの前で立ち止まる。意外だった。今まで音楽の話なんてしたことがなかった。
「そう、この間、銀座でもかかってたわよ」
「良い曲だろ?」
「うん、とても良い曲」
と言って立ち止まって、少しの間聴いていた。
 夏生はようやくコラムを書き上げて、加藤君にメールで送る。すると、すぐに連絡が来た。
「今回、ちょっと遅かったけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫よ。少し忙しかっただけなの」
「そう、そうだ。また次のゲラの件で相談があって。それで、ちょっと他のことも」
「うん、私も・・・・・・」
「じゃあ、また同じ店で」
と言って電話が切れる。
―今度こそ、今度こそ別れを告げよう―
そう心に誓う。もう加藤君も良い年齢だ。もうちゃんと結婚して、幸せな家庭を気付いていてもおかしくない。こんな人妻になった人間といつまでも煮え切らない関係を続けているのもおかしい。
 髪をセットして、ブラウスに着替えた。すると携帯が鳴った。それは光からだった。
「はい」
「すまん、部屋の机の上に書類を忘れて」
「ああ、持って行くわ」
「うん、頼む」
と言って電話が切れた。
 光の部屋から書類を取り、家を出ると電車に乗り、会社へと向かった。
 久しぶりの会社に少し緊張をする。仕事をしている従業員の間をそっとすり抜けて、軽く挨拶をする。
 そして奥に進むと、光は誰かと話しているようだった。まだ若くキラキラとした眼差しの可愛らしい人で、光も彼女と話している時は、夏生に見せたこともないような笑顔だった。夏生は、声をかけられなくなって、そっと隠れていると総務に勤めている古株の吉井さんが声をかけてきた。
「奥様、どうされたんです?」
夏生はハッと振り返り「な、何でもないの。社長にこれを持ってくるように言われたから」
と言って手渡した。
「あら、お入りになれば良いのに」
「良いんです。これ、渡しておいてもらえます?」
「はい、かしこまりました。お出かけですか?」
「そうなの。急ぎで。これ、皆さんで食べておいて」
と言ってシュークリームを渡した。
 吉井さんは嬉しそうにお礼を言って会釈をした。どこかの営業だと思いながらも、どこか自分には見せたことのない笑顔に夏生は不安になった。
 銀座に着くと、待ち合わせの時間まで一時間ほどあった。近くのカフェでカフェラテでもと思ったが、今日はカフェラテよりもレモンスカッシュの気分だった。この胸のつかえをすっとさせたかったのだ。
 メールでカフェにいることを伝えて、店内に入りレモンスカッシュを頼むと、すぐに出てきた。勢いよく飲むと、スッと胃の中まで洗浄されたような気分がした。
 一時間ほど経った頃、加藤君がたくさんの荷物を持って夏生が座る席までかけてきた。
「お待たせ」
「うん、待ってないの。私が早く着すぎただけよ」
と言って座るように促した。そしてウェイターに紅茶をお願いして、夏生はもう一度、レモンスカッシュを注文した。
 加藤君はいつも忙しそうだ。
「忙しそうね」
「うん、まあね。夏生も忙しかったんだろ?」
「そうなの、ちょっと色々とね。遅れた?」
「ううん、大丈夫だよ。今回、コラムなんだけど、井上先生の本はどうだろう?」
「良いわね。私、井上先生の本好きよ」
「良かった。じゃあ、これ、ゲラ渡しておくね」
と言って出てきた紅茶を口に含んだ。一息つくと、加藤君は真剣な顔をする。
「夏生、やっぱり小説、書いてみないか?」
「どうして?」
「俺は良いと思ってるんだ。だから一緒に頑張ってみないか?」
「うん・・・・・・昔書いていたもののストックで良かったら持ってくるけど」
「本当か! じゃあ、今度のコラムの打ち合わせの時にでも」
「ええ」
と言ってレモンスカッシュに口を付けた。安堵の顔と嬉しそうな顔、両方見せる加藤君に夏生の胸が締め付けられる。
「そういえば、夏生からも話しあったんじゃないの?」
「ああ、えっと・・・・・・加藤君との関係なんだけど・・・・・・」
と言おうとした時、脳裏に今日の光とあの女性が浮かんだ。だが、もし自分がしていることを光が知っても、何も思わないのかもしれない。だけれど、自分が不貞行為を行っている事を知られたら自分が傷ついてしまう。そんな気持ちがした。
「うん・・・・・・」
「もう終わりにしない?」
「終わりにって」
「加藤君もいい歳よ。幸せな結婚をして子どもがいてもおかしくないのよ」
と下尾向いたまま話す。
「俺は、夏生と幸せになりたい」
「駄目よ。人妻と幸せになれるわけないの」
「ご主人はこれから幸せにしてくれるのか?」
「分からない。でも・・・・・・私は彼と結婚したの」
「そうか・・・・・・分かった。でも小説やコラムは続けてくれるんだよな?」
「もちろんよ。させてもらえるなら」
と言うとさっきまで険しかった顔を少し緩めた。
「残念だよ。俺はずっと好きだった」
「私ももっと早く気付いていれば」
と言ってぎこちなく微笑んで見せた。すると、加藤君は夏生が飲んでいるレモンスカッシュに目を向けた。
「レモンスカッシュ、好きだったっけ?」
「ううん、分からない。でも今日はそんな気分だったのね」
と言って飲んで見せた。
「幸せになれよ」
「ありがとうございます。じゃあ、今度のコラム会議で」
と言って別れた。
 そして電車に乗り込む。いつもように加藤君は夏生を見送る。加藤君が幸せになってくれることを心より祈った。
最寄り駅に降りて家路につこうと歩き出す。商店街を通り、ちらほらと飲み屋も明かりを灯している。街明かりは、夏生の顔を赤く染めた。
 これ出よかったのだ。そう言い聞かせながら歩く。すると、一件の立ち飲み屋に目が行った。そこには笑顔でテーブルを囲む光と彼女がいた。
「貴方・・・・・・」
と呟いてその場に立ち尽くすしかなかった。夏生は思った。自分がしてきた行いの報いがここできたのだ。下を向いて涙を拭いながら家路についた。
 あの日から幾日が経って、何事もない日常を過ごすことに決めた。自分が見た者や聴いたこと、加藤君との別れ全て心の中にしまうことにした。
 掃除をしながら自分の部屋の押し入れに身体を入れて、誇りをかぶった荷物入れを取り出す。嫁入り前に母が用意してくれた荷物入れは、。埃をかぶっているとはいえ、とても可愛らしかった。高校の卒業アルバムや大学のサークルで撮った写真。出版社に入社したときの写真。その下の方から出てきた原稿は、懐かしい淡い思い出のようで人に見せたら壊れてしまうんじゃないかと思うほどだった。
 大事そうに取り出して眺めていると、今よりも拙い文章ではあるが、新鮮で初々しさがよく感じた。夏生はパソコンに打ち込みながら手直しを加えて加藤君にメールで送信した。この小説を世に出す日が来るなんて思えなかった。きっと加藤君が駄目だと言うか、もしくはあの偏屈編集長がゴーを出すわけないと思っている。
 二週間後、夏生と加藤君はコラム会議を行うため、いつものカフェに集合した。今日は小説の感想も来るだろうと夏生は加藤君と会うまで緊張していた。
「夏生、この小説、むちゃくちゃ良かったよ!」
「えっ、そ、そんな暇つぶしで書いた物だし」
「そんなことないだろ。この出来具合は間違いなく本気だったでしょ?」
「いや・・・・・・どうだろう?」
「これ、世に出さない?」
「えっ? 本気で言ってる?」
「俺はマジだよ! 編集長にも打診してる」
―本気で言ってる?―
と内心思いながら話を合わせていた。
「初版は一万」
「一万? そんなに出すの?」
「新人作家だから一万だよ。俺は少ない気がする。これはきっと十万部は行くよ」
と意気揚々だった。夏生は半信半疑だったが、乗っかるのも良いかもしれないと思った。
「分かった。じゃあ、預けてみるよ。これも編集長が駄目って言ったらもう粘らなくて良いからね」
「分かってるよ。俺を信じてくれよ」
と笑った。
 あの時のことは加藤君にとって過去になっているようだった。夏生はホッとしてカフェラテを口に運んだ。
 

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