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街明かり-もう一度- ①

 カーテンを閉めようと、窓に近づく。
 街の街頭や、住宅の明かりがふわりの光り始めた。
 ゆっくりと時計の針は進んで、あっという間に夜が来てしまう。夏生は夜が来ることが怖かった。暗闇に包まれるのもだが、もっとも主人と二人っきりになるのが不安でた堪らなかった。いつからこうなってしまったのか、解らないまま台所に立つ。主人との出会いは、大学を卒業して出版社に勤めていた頃だった。私は製本会社に製本依頼を掛ける仕事をしていた。
 ようやく念願の出版社に勤めることができたことを心から喜んでいた。いつかは編集部に転部できると願いながら仕事をしていた。
 ある日、製本依頼の原稿を持って製本会社に行った。いつもならバイク便に乗せて原稿を持って行ってもらうのだが、たまに間に合わなくて夏生が製本会社まで届ける事もあった。
 主人は、高校を卒業後、ずっとこの製本会社に勤め、ラインに乗った印刷物を一つ一つチェックして、ラインから箱に積める作業をしていた。作業着も黒いインクで汚れていたが、黙々とこなす姿が印象的だった。
「こんにちは、あの原稿とデータお持ちしました」
「ご苦労様、今日は随分かかったね」
と製本会社の社長が出てきた。あまり大きな製本会社でもなかったので、家内工業で成り立っていた。
「すいません、お待たせしてしまって。」
「いいやぁ、いつもありがとうね。暑かったろう? お茶でもどうだい?」
「で、でもお邪魔ですよね?」
「良いじゃないの。今から休憩だから」
「ではお言葉に甘えて」
と工場の一角の椅子に座る。社長の奥さんがお茶を出してくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ、いつもお世話になって」
「あんたくらいさ。いつもは仏頂面の営業が偉そうにやって来る。あんたは違う。いつも丁寧で、優しい」
「すいません、うちの営業が」
「いいえ、あんた、言い過ぎよ。仕事をもらってんだから文句言わないの!」
と奥さんが社長に一喝入れる。そこで一笑い起きて和やかな雰囲気になる。だが、一人だけ笑わない青年が今の主人だ。
「お仕事、お疲れ様です」
と言うと、軽く会釈をするだけで目を合わせない。見かねた社長が一喝する。
「こら、挨拶くらいせんか!」
「いえ、お疲れでしょうから」
とフォローするのが、私の役目みたいなものだった。
 私はこの製本会社が好きだった。いや、紙の匂いもインクの匂いも社長や、奥さんも働いている人の人柄も全部引っくるめて大好きだった。だから良く会社終わりに立ち寄ったり、差し入れを持って行ったりと通っていた。

 入社五年目の春だった。今年も部署異動願を総務に提出する。毎年のごとく編集部だ。そこから希望調査を元に人事部で会議が開かれ、大体は進行管理部のままになる。私はいつまでここなのかと、心に思いながら次の機会を待つ。そんな日々をもう五年も続けているのだ。
 ある日、人事部の前を通りかかったときだった。人事部が会議を開いていた。悪いことだとは思ったが、立ち聞きをしてしまった。
「またこの人、編集部希望かぁ」
「編集部は人気の職種ですからね」
「まぁそうだけど、普通一回願いだして、駄目だったら諦めない?」
「諦めますね」
「でしょう? それに進行管理でも製本依頼を掛ける仕事でしょ。彼女」
「えぇ」
「無理無理! まったく立場を弁えろって話だ」
と笑い声が聞こえる。
私は持っていた原稿に力が入った。聞いてしまった私が悪いのだが、それにしたって言い方が酷いと感じた。
「立場ってなんだよ」
とトイレに駆け込んで独り言をいってしまった。今まで、皆勤賞をもらうくらい会社に貢献し、有給の消化だって一ヶ月くらいは残るほど余っていた。それくらい私は頑張ってきたと自負しても悪くないと思うほどだった。
泣きたいのに、会社の中で泣けない。今の私は絶望だった。定時を向かえ、残業を避けて帰ることにした。
 とぼとぼと街を歩く私の姿を街のショーウインドウが写す。
 気がつくと、製本会社の前に立っていた。私は、シャッター前の小さな入り口から見えないように覗く。すると、一ヶ所だけ明かりがついていて、後は真っ暗だった。
 ため息をついて帰ろうとしたときだった。
「来たんなら声くらいかけたら?」
 急に話しかけられて、硬直している私に手招きをした。私は会釈をして中に入る。
「こんな時間に何か用ですか。失敗でも?」
「いえ、そ、そんな事はありません。ただ、皆さんどうされてるかと思って」
「そう、あんたここ好きなの?」
「えっ、はい」
「ふぅん、変わってんな」
と笑った。初めて彼の笑った姿を見た。
「か、変わってますか?」
「俺はずっとここにいるから好きなんて思ったことねぇもん」
「そう、でも紙の匂いやインクの匂いも落ち着きませんか?」
「別に、俺はここにしか居場所がないからいるだけ」
「そうですか」
と話す。会話が少し止まって仕事が終わったようだった。
「あんた、いつまでここにいんの?」
「えっ、あっ……もう帰ります」
と慌てて外に出る。すると彼は電気を消して、シャッターを閉めた。
「すいませんでした。急に来てしまって」
「別に、社長や奥さんは定時に帰るから」
「貴方は残業を?」
「別に早く帰っても何もねぇし、もし来るなら定時に前に来たら会えるよ」
「そうですか」
と話していると、ぴたりと一軒のラーメン屋で立ち止まる。昔ながらの暖簾にかなり古びたラーメン屋だった。
「俺、ここで飯食って帰るから」
「はぁ、では失礼します」
「あんた、飯は?」
「えっ、まだです」
「食ってかないの?」
「えっ……」
「別に誘った訳じゃねぇけど」
「食べます」
と言って一緒に入る。
「おっ、お帰り!」
店の店主が彼に言った。
「おっす」
と軽めの挨拶をする。
「あら、たけ坊お帰り。珍しいね、あんたがお連れさん連れてくるなんて」
と奥からは店主の奥さんが餃子を持って出てきた。
「連れじゃないです。取引先の人で」
と言った。
 彼はボサボサの髪を目まで垂らしていて顔がいつもは見えないが、良く見ると優しい顔をしていて、男前ではないが可愛らしい顔をしていた。
「そう、あんたもっと髪切ったら?」
「気に入ってるんで」
「そうなの? 暗い印象よ」
「良いんです」
と話す。
「たけ坊、いつもの?」
「はい、お姉さん、何にしよう?」
「えっ、あっ……醤油ラーメンを」
「はいよ!」
と言って彼と私用のグラスを二個と瓶ビールを出した。
「ビール、飲めんの?」
「す、少しなら。でも貴方のでしょ?」
「どうぞ」
と言ってぶっきらぼうに私のグラスにビールを注いだ。
「あ、ありがとうございます」
と言ってグラスにビールを注いでもらった。人から初めてビールを注いでもらった私はいつも以上に緊張した。
 一口飲むと、いつも以上に美味しくてびっくりした。
「美味しい……」
「あんた、ビール飲んだことないの?」
「違います。ビールってこんなに美味しかったんだと思って」
「やっぱり変わってんな」
と言う。私は膨れっ面で出されたラーメンを食べる。
「どうだい、うちのラーメンは?」
「すっごく美味しいです!」
「だろう?」
「大袈裟だよ」
「何言ってんだい。うちのラーメンは日本一だよ!」
「本当に美味しいです」
と微笑む。夏生は久しぶりに酔った。
「大丈夫か?」
「大丈夫、平気だって」
「平気そうじゃねぇよな」
とふらふらと公園のベンチに腰かけた。
「ほら」
と彼はペットボトルの水を差し出した。
「ありがとうございます」
「あんた、酒が弱いだろ?」
「弱い? かもね。私、今日はついてないの。私、本当は編集部に行きたくて、五年も異動願を出し続けてたんだけど、今日、人事部の前を通りかかったとき一回願いだして、駄目だったら諦めない? って笑われて、もう…私駄目なんだって」
と私が、泣いていると水を飲みながら私を見下げた。
「あんたらは選ぶ権利があるんだな」
「えっ?」
「俺は、高校卒業してからずっとこの製本会社に勤めて選ぶ権利なんてなかった」
「で、でも…転職とか」
「あのさ、あんたが思ってるほど世の中は甘くない。俺には、選択肢なんてない」
「それは……」
「何もあんたを否定してる訳じゃない。ただ、そういう人間もいるって訳だよ」
と話す彼に何の反論もできなかった。確かに贅沢だったのかも知れない。
 さして偏差値の高い大学を卒業したわけでもなく、努力と言う努力もしたわけではない。夏生ははたと自分の置かれている立場を認識した。
「何だかすいません。話を聞いて頂いて」
「いや、聞いたつもりはないけど」
「部署、変わってしまうとこちらには来れないし」
「そう、まぁ~あんたの事、社長や奥さんは気に入ってるみたいだし良いんじゃん」
「はい、また行かせて頂きます」
と立ち上がる。
「ここから近いのか?」
「まぁ……」
「もう遅いから送ってやる」
「いえ、大丈夫です! ここまでして頂いて」
「だって俺と会った後、何かあったら嫌だから」
と言ってついてきた。
「今日はありがとうございました」
「別に、では」
と言って彼は帰ってしまった。

 夏生の人事結果は、やはり今のままだった。夏生は分かってはいたが、ため息をついて席に戻った。仕事を始めようとパソコンに手をかけた時だった。
 編集部の編集長から呼び出された。急いでディスクまで行くといつものように原稿袋を手渡された。
「これ、急ぎで製本回しておいて」
「はい」
いつものお決まりの言葉。私は振り向いて廊下を歩く。
「下版、遅れたくせに……」
と独り言を言いながら、外に出る。この間、彼に迷惑をかけたこともあるので、お菓子を買って出向いた。
「こんにちは」
「あら、お疲れ様」
「すいません。また遅れてしまって」
「良いのよ。貴方、吉岡さん来られてるよ」
「おっ! なっちゃん、お疲れさん」
「すいません、遅くなりまして」
と原稿データを渡す。
「いやいや、ありがとう」
「それと、皆さんで食べてください」
と言ってさっき買ったお菓子を手渡した。
「あら! こんな上等なもの。ありがとう」
「いえ、いつもお世話になっていますので」
と頭を下げた。すると、奥さんはお茶をくんでくれた。
「皆、休憩するかぁ」
と言うと作業が止まる。
「おい、光も来いよ」
「光?」
「あぁ、ここの製本チェックしてる」
と指を指す先には、彼がいた。
「光君は、私たちの息子みたいなもんでね。私たちは子供がいないからね」
「光わなぁ、ちょっと変わっててな。就職面接で、紙とインクの臭いが好きだって」
「えっ!」
「どうした?」
「いえ、何も」
「さぁ、座って座って!」
「ありがとうございます」
私は彼を見て少しふてて見せた。
「先日は、ありがとうございました」
「いえ、別に」
と聞こえないようにお礼を言った。
「何よ、私には変わってるって言ったくせに」
と隣に座る光に話す。光は聞かないふりをして目をそらす。
「どうかした?」
と奥さんが私に話しかけたが慌てて返事をした。
「いえ、何も」
 光はクスッと笑って下を向いた。夏生は、そんな光の笑った顔がかわいくて、つい自分も笑ってしまった。

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