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街明かり-もう一度 ⑥-

 それから一週間後、加藤君から連絡があり、会社に来てほしいと言われた夏生は、断りたかったが、渋々承諾した。
 次の日、久しぶりの元勤め先は、建て替え工事がされてきれいになっている社屋をくまなく見ながら受付を通る。受付は前の人とは変わり、美人な受付嬢が座っていた。
「あの、編集部の加藤さんとお約束させて頂いておりまして」
「少々お待ちくださいませ」
ときれいな声で対応してくれた。
「はい、高崎夏生様ですね。今お迎えに上がりますので、少々お待ちくださいませ」
―お迎えなんて大げさよ―
そう思いながらソファーに促されて待っていると、加藤君がやってきた。
「わざわざごめんな。どうしても編集長が会いたいって言うから」
「いえいえ、本当にそんなこと言ったの? あの編集長」
「そうなんだよ。まったくな。ごめんな」
「良いのよ」
「会ったらびっくりするぜ」
と変にはしゃいでいた。
 受付に会釈をしてオフィスに入っていくと、場所は多少変わっていた。編集部は花形だと思っていたが、バブル崩壊と本の売れ行きが悪さで奥の方へと追いやられていた。広さは変わらないが、なんとなく 
寂しい雰囲気だ。
「加藤君、帰りに寄りたい場所があってね」
「総務部だろ? 加世子もいるから」
「うん、ありがとう」
と話す。あっという間に編集部についたが、未だに入る時は緊張感がある。
「編集長、高崎さんいらっしゃいました」
「はい、どうぞ」
とあの怖い声が聞こえる。夏生の身体は無意識に加藤君の身体へと隠れてしまう。
 通された応接間で待っていたのは、少し老けて髪が薄くなった編集長の姿だった。
「失礼します」
「お久しぶりです。コラムの件、急にお願いしてしまって申し訳ありませんでした」
 会社に所属していた頃は、夏生の名前さえ呼んだことはなかったし、ましてや敬語なんて話していたのを訊いたこともなかった。唯一、怒鳴っていた記憶はある。
「お久しぶりです。このたびはお世話になっております」
と深々と頭を下げてお菓子を手渡す。
「良かったら皆さんで」
「これは申し訳ない」
と言って微笑みながら受け取り、お茶を持ってきたアシスタントに回した。
「編集長、覚えてますよね? 吉岡さん」
「もちろん、総務部にいた」
「はい、その節は大変お世話になりました」
「いいえ、でも作家志望だったとは」
「いえ、編集部志望でした」
とポロッと本音が出てしまった。目を丸くしている編集長に加藤君が慌ててフォローをする。
「ああ、あの願いを出してたんですけどね」
「そうか、着てくれたら良かったのに」
「いえ、私には才能がなかったようですので」
「いいえ、こんなに素敵な小説がかけるんですから。これをぜひ、出版しようかと思うんですが、良いですか?」
「えっ、本当にですか?」
「はい、うちの加藤がいたく推すもので、私も読んでみたんだが、とても良くてね。ぜひと言う話なんですが」
「はあ、でも私なんかで良いんでしょうか」
「お願いします。今、校正をしていますが、どんどん忙しくなると思うので覚悟してください」
と編集長が笑った。この人は作家を目の前にすると、こんなにも人が変わるのかと夏生は思った。
 「じゃあ、後は担当の加藤とお話しがあると思うので、どうぞ今後ともよろしく尾根がしますね」と言って編集長は出て行ってしまった。
 少し気まずい空気が流れたが、加藤君は微笑んで話してくれた。
「夏生、良かったな」
「えっ?」
「編集長は夏生の小説お気に入りでさ」
「そう、でもあれ学生時代に書いたものよ」
「うん、でも俺も感動した。だから頑張るよ」
「ありがとうございます。貴方にひどいことしてしまったのに」
「ううん、俺も悪かった。あの時、俺が無理矢理・・・・・・」
と下を向く加藤君に夏生は笑って見せた。
「良いのよ。貴方は悪くない」
「ありがとう。俺、この出版に命かけるからさ」
と加藤君も笑ってくれた。
 帰り際、古巣である総務部に寄る。
「お久しぶりです。丸山部長」
「おお、吉岡、じゃなくて今は高崎さん」
「ご無沙汰してしまって、これ、皆さんでどうぞ」
「おお、ありがとう」
と言って微笑む。少し老けたが丸山部長も変わりはなかった。すると、お昼休みを終えてぞろぞろと帰ってくる女子の群れの中に加世子の姿があった。加世子は相変わらず、元気で夏生に気付くと手を振ってかけてきた。
「夏生! 来るなら連絡してよ」
「ごめん、ごめん。ランチ後のデザート皆さんでと思ってね」
「夏生、作家デビューおめでとう!」
「まだだから」
「でももう決定でしょ?」
「まあね、噂は聞いてるんだから。今日、時間あるなら夕食でもどう?」
「うん、良いけど何時頃終わる?」
「今日は定時上がり!」
「分かった。映画でも見て時間潰してるわ」
と言うと加世子はウインクをして職場に戻っていった。
「相変わらずね。加世子」
とクスッと笑うと、加藤君も隣で笑っていた。受付まで送ってくれた。
「今日はありがとうな」
「ううん、久しぶりの会社も悪くないね」
「うん、じゃあ、今度はゲラでの打ち合わせと、コラムの打ち合わせを兼ねて」
「ええ、仕事頑張ってね」
「うん、ありがとう」
と言って笑った。
―もう元には戻らない―
 夏生はそう思いながらも出入り口に向かってくるりと身体を振り向かせる。
 平日は有楽町の映画館も少なく、レディースディもあってか女性しか入っていなかった。夏生は見たことももない洋画を二本も観て、まだ時間があると本屋に立ち寄る。そして一冊本を買ってカフェでカフェラテを注文した。
 本を熱心に読んでいると、あっという間に時間が過ぎ、加世子から連絡が来た。有楽町駅の近くのカフェにいることを伝えると、すぐに向かうと連絡が来た。
「パワフルな人ね」
と独り言を漏らすと、本をパタンと閉じた。
「夏生! お待たせ」
「大丈夫。焦らせちゃったんじゃない?」
「ううん、仕事つまんないし、五時きっかりに終わらせちゃったわ」
と笑う。
 近くの中華レストランに入ると、紹興酒を頼む。昔から加世子はお酒が強かった。
「さあ、今日は旦那にも行ってきてるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ飲もう!」
と言って紹興酒をついで乾杯をした。料理が運ばれてくると丁寧に取り分けて加世子は口に運んだ。
「ここの北京ダックっていつ食べても最高!」
「本当に、いつぶりかしら」
「私も。ほらバブル崩壊の後、うちの出版社も不況でさ。歓送迎会や忘年会、新年会も安いお店になったわけ」
「へえ、そうなんだ」
と言いながらお酒を飲む。
「そういえば、私たちが会った日から加藤君、なんかあったの?」
「べ、別に。どうして?」
「ううん、様子がおかしかったから」
「へえ、そう。私に仕事を依頼してきただけよ」
「そうか、なら良いけど。ほら、昔から加藤君は夏生のこと好きだったし」
「そうなの? 知らなかった」
と誤魔化すより他はなかった。それがきっと加藤君にとっても夏生にとっても良いことだと確信していたからだ。
「そういえば、旦那とはどう?」
「相変わらずよ」
「相変わらずって、あのまま?」
「そうね、強いて言うなら好い人が出来たみたい」
「えっ、まさか不倫?」
「さぁ、そこまでは確信できないけど」
「相手は若いの?」
「若いかな。でも不倫かどうか分からないわよ」
「そう、でもいい仲なんだ」
「まあね、笑顔が素敵で。私とは正反対」
「ふうん、まあ様子見って感じかな」
「まあね、別に暴力をふるう訳でもないし、迷惑かけられた訳でもないし」
「冷めてるわねぇ~」
と言って加世子は紹興酒のおかわりをする。夏生は烏龍茶に変えた。
「加世子はどうなの? 結婚とか」
「それがさ」
と話し出す。加世子は五歳年下のカメラマンと付き合っているようで、結婚を急がせられないと言う。
「それは・・・・・・五歳年下か」
「まだ三十歳。夢見る夢男だもんね。でも彼の夢、一緒に見ていたいなって」
と微笑む加世子は、いつかの夏生と重なった。
「そうね、良いと思う。いろんな形があるし、結婚ばかりが幸せとは限らないわよ」
「あんたが言うとずっしり来るわ」
と二人で笑う。ほどよく酔った加世子をタクシーに乗せて、夏生は駅に急いだ。終電間際の電車は空いており、最寄りの駅にはちらほらとサラリーマンが降りるだけだった。
 出版に当たり、ペンネームにするか、本名で行くかなどを考える。その前に光には言っていなかった。あの日から光との距離が出来てしまった。どこの営業かは知らないが、不倫をしていても仕方ないと目をつぶることにした。夏生は今まで、光にあんなに笑顔を出したことはない。だからあの子の笑顔はまぶしかった。
―次回作は不倫ものとか書こうかな―
とそんな風に考えながら、掃除をしていると加藤君から電話がかかってきた。
「もしもし」
「ああ、夏生。この間はありがとう。今、電話大丈夫?」
「ええ、どうかした?」
「ゲラが上がってきて。そっちに送るから目を通してほしい」
「うん、分かった」
「それで直すところ修正を赤で書いて、俺も書くから二人で付き合わせて行こう」
「分かりました。じゃあ、コラム用の本も送ってくれるの?」
「うん、送る。今回は時間がなくてさ。すまない」
「良いのよ。大丈夫」
と言って電話を切る。
 数週間後、ゲラと本が届いた。じっくりと目を通したが、当時のまま出すわけにはいかなかった部分を直しておいて良かったと今になっても思う。誤字脱字はなかったものの、ここは膨らませたいと思った所は全て書き込む。
 久しぶりに目を酷使したせいか、しばしばと痛みがあったが、編集者という物になった気分で嬉しかった。
 合間で夕食の準備をして、コラムの本を読み光を待った。光にも本の出版の件を話さなければいけない。光が帰ってくる。光はいつも以上に疲れている様子だった。
「お帰りなさい」
「ただいま・・・・・・」
「あのね、ちょっと話が」
「すまん・・・・・・今日は疲れてるんだ。明日も出張で」
「そう・・・・・・なら帰ってきたら話すわ」
「うん・・・・・・」
と言ってソファでそのまま眠ってしまった。ため息をつきながら夏生は毛布を掛けてやった。
 明日の出張はきっと出張だろうが、少しだけ疑ってしまう心もあった。もしもあの営業の子と一緒だったら。もしも泊まりだったら。そんなことが頭をよぎるが、夏生は、食事を一人で取り、光の分を分けて片付け仕事に取りかかった。
 

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