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色々あったけど、僕は話を聞く人であり続けたい

◇はじめに

こんにちは、金子祐樹といいます。
31歳おとめ座のO型です。
普段は児童発達支援という、凸凹がある子どもとその家族の自分らしさを実現するための事業で先生をしたり、先生の育成をしたりしています。

今は、2024年1月に生まれた子どもの育児休業を夫婦で1年取得させてもらいながら日々を過ごしています。

人生のバイブルにしている漫画は「暗殺教室」と「アイシールド21」です。

これから実現したいことを応援,協力してくれるあなたに出会うために、初めてnoteを書いています。

想いを発信することは誰かを否定してしまうかもしれないし、揶揄されるかもしれない。でも、まずは表現してみることにしました。

このnoteでは、
①僕の人生、経験してきたこと
②これから実現したいこと
③そのうえで自分が取り組むこと
④読んでくれてる方へのお願い
の4つを書いています。

①が特に長くなってしまったので②から読みたい人は②から読んでもらえると時短ができるかと思います。

記憶を頼りに書いているので、当時関わっていた人から見て、事実と異なる部分ももしかしたらあるかもしれません。その場合はこっそり僕に教えてくれると嬉しいです。

また、慣れないけれど敬語を取っ払った方が自分らしく言葉を紡げる気がしたので、ここからは文体も変えてみる。
どうか同じ想いを持っているあなたに届きますように。

1章◇僕の人生、経験してきたこと

出生 - 小学校

1992年、金子家の三男として新潟県の海沿いの田舎町に僕は生まれた。
父は地元で大型ポンプを扱うメーカーの営業、母は結婚を機に営業事務をやめて専業主婦として子育てに専念してくれていた。

運動は三兄弟で一番苦手。身体も小さく、手先も不器用だった結果、ウルトラマン人形を使った空想ごっこをするのが好きな子どもだった。
幼稚園時代は我慢が苦手で、買い物に寄ったスーパーから帰る車中で夜用のアイスを食べて、夜までアイスを残しておいた兄が食べる様子に泣きながら怒るようなわがまま三男でもあった。
ちなみに母はその際に兄に譲るように促すことなく、「先に食べたお前が悪い」とちゃんと叱ってくれていた。なんてありがたい。

卒園して、小学校に入学したときにクラスで一人だけ時計の読み方がわからなくて、そこから授業はちゃんと聞くタイプになった。

4年生でバスケットボール部に入部したけれど、ずっと補欠。6年生の最後の試合は2軍のキャプテンとして下の学年が中心のチームで引退をした。
特に何かに秀でた自分では無かったが、友達は多かったと思う。近所の幼馴染や同じ部活の人など、部活を問わずいろんな人と遊んでいた。

人生の転機①中学校~名嘉塾との出会い~

中学校2年の7月に、高熱を出して3日ほど学校を休んだ。
次の日、登校して部活の仲間に挨拶をすると、目が合わない、返事が返ってこない、離れていった(元)友人たちは教室の隅でニヤニヤしながら視線を送ってきていた。

そう、イジメが始まった。ローテーションで回っていたいじめが自分の番になったのだ。
帰宅直後に母に泣きながら話をした日のことを未だに覚えている。
母は怒り、自分を受け止める発言を繰り返した後、先生に相談することを提案してくれた。

結果論だが、これが事態を悪化させた。いじめの主犯格と自分と学年主任の3人で一緒の部屋にさせられた後、お互いに「ごめんね」と謝る時間を作られた。当時の学年主任から言われた言葉は忘れていない。
「いじめを受けていると思っていても、いじめている側にも理由がある。自分だけが被害者と思わずに行動を改めていきなさい。」
その後、嫌がらせは加速した。部活用シューズの紐が切られる、寝ている机を蹴られるなど一通り王道のいじめを受けた。

さらに追い打ちをかけるように、父親の多額の借金が発覚し、家には取り立て業者からの電話がひっきりなしにかかってくるようになった。家庭内別居が続いた後に離婚をしたが、それですぐに引き下がってくれる相手ではなかった。
どうやって特定されたかはわからないが、通っていた中学校にも業者からFAXが送られた。(道徳心を疑うひどい内容だった)
母親は当時コンビニでのパートを開始しており、その勤め先にも電話攻撃は続いた。

学校には行きたくない、でも家にもいたくない。
当時の自分は、

「どうして自分だけこんな目に」
「なにか奇跡が起きろ」

こんなことを毎日考えていたと思う。

ある日、母親から同僚が英語塾を個人でやっていること、そこに格安で通わせてくれることを聞いた。名嘉塾(なかじゅく)との出会いだ。

名嘉さんはコンビニでパートをしながら夜間に中学生向けの英語塾を開いていた。
「ゆうきのことが、おらは大好きだなぁ」
「ひさびさに英語の天才に出会ったよ!」
独特の一人称と表現を使う名嘉さんは、自分を好きになれる言葉を惜しげもなく伝えてくれる人だった。
家庭のことを察してか、時々夜ごはんを作って迎えてくれて、他愛もない雑談をしながらの夕食時間は底ついていた自己肯定感を十分に回復させてくれた。
週1回の塾だったが、大好きな人に褒められる喜びは何にも代えがたい報酬だった。
彼女の指導のおかげで英語は得意教科になり、後々外国語大学に進学して、英語の中高教員免許を取得することになる。

【場所が変われば自分を受け入れてくれる人に出会える】


この世界に対して希望を感じさせてくれた出会いだった。
辛さのピークだった時に自分の人生を終わらせようと地元で一番高い橋まで自転車で移動したときに、名嘉さんの顔を思い出して帰り路に向きを変えることができた日もある。
その後はなんやかんやありながらも家族のサポートもあり、保健室登校から再開し新しい友人にも恵まれて、地元の進学校に入学した。

高校 - 大学

特に他小学校との合併がない中学校だったため、小中は同じ顔触れで過ごしていた自分にとって、高校は0からのスタートだった。
出席番号が前後のクラスメイトと仲良くなり、一緒にバドミントン部に入部した。クラスの中心になるような男子グループには入らず、教室の隅で2~3人でガラケーのゲームを遊んだり、漫画の話をして楽しく過ごした。

中学校の思春期に引きこもったことや、いじめに女子が加わっていたこともあり、異性には敬語でないと返事ができず、映画のような青春は一瞬も味わうことはなかったが、部活,友人,受験勉強となかなかに充実していた3年間だった。

進路決定のタイミングでは、<得意の英語が伸ばせる外国語学部>×<奨学金で通える国公立>×<合格判定が狙える一番難しいところ>で探していると、関西の公立大学がひっかかった。
同学年の進路先は地元に残るか関東圏への進学が8割だったが、高校3年間で新たな人間関係を作れたことも自信になり、真新しい環境へ進みたい気持ちが後押しをした。

晴れて第一志望の大学へ合格をすると、神戸での一人暮らしが始まった。
海しかない街で生まれ育ち、電車移動もしたことが無い田舎民だった自分にはとにかく毎日が刺激だらけで、家に帰るとヘトヘトに疲れ果てていた。槇原敬之さんの【遠く遠く】に現状を重ね合わせて、よく聞いていたのも懐かしい。

エスカレーターから近い車両に飛び乗りほっとしていると女性専用車両だったり、「OIOIって読める?(笑)」と同級生から出されるクイズに見事にひっかかったり、沢山の田舎出身あるあるを繰り返すうちに、いつの間にか神戸はほっとする街になっていった。

サークルや部活の所属は無かったが、小規模な大学だったこともあり、クラスメイトにも恵まれて、カラオケ店員のアルバイトで生活費を稼ぎながら楽しく学校に通えた。

特に覚えているエピソードとしては、大学1回生の夏に、食堂のテレビで友人たちと甲子園を見ていたときのことだ。
それまで甲子園は新潟の高校を新潟県民で応援しながら見たことしかなかったのだが、大学には全国から学生が集まっていた。
対戦校の都道府県出身の学生同士で、お互いに野次を入れながら見守る観戦は随分面白かった。知り合いが増えるとその人に紐づく物事が近く感じられる経験としてすごく印象に残っている。
大学の細かいエピソードは書き出すときりがないので、またどこかで書いてみたい。

人生の転機②大学3回生~対話型ワークショップとの出会い~

新潟で2回大きな地震を経験していたこともあり、大学2回生から岩手県釜石市にある仮設住宅訪問を行う震災ボランティアに参加するようになった。その経験から、海外で震災について啓発するプロジェクトにも参加させてもらい半年間アメリカに滞在した。
帰国後、燃え尽き症候群になり、「震災を自己成長の経験として消費したのではないか?」と自責の念が強まり、何も手がつかなくなった。

そんな時に大学で教師育成の授業を担当する杉山先生から「僕が寄付をしているNPO団体が金子君にあってるんじゃないかなと思って。」と声をかけてもらった。
直感でインターンを開始すると、そこで初めて対話型ワークショップ【クレッシェンド】に出会った。
ざっくり内容を書くと、高校から総合授業やLHRの単位として認定を受けて、1回90分の授業を4日程行う。大学生/社会人ボランティア5名と生徒15名前後で小グループを作り、自己理解やお互いの関係性を深めるような授業。
そして、授業前後の研修と当日の進行を務めるのが自分の仕事だった。

ワークショップという概念も知らず、【ファシリテーター】という役割を担うことを同僚から伝えられた時に「なにそれ」と不思議に思ったのを覚えている。
結果、徐々にファシリテーションにのめり込んでいった。

自分の挙動次第で参加者の心理的安全性が左右されること、集団内の参加者の表情から機微を読み取る必要があること、過去の経験から他者の反応に敏感になっていたこともあり、経験が実践に繋がる感覚があった。
何より、目の前で高校生と大人が楽しそうにお互いを受け入れていく過程に伴走できることがやりがいだった。
(詳しく書くとこれも長くなるのでインターン当時のインタビュー記事を載せておく)

【お互いの価値観を受け止め合う空間は作ることができる】


中学の経験から求めていた空間を自身が作ることができる、という想いもあり、大学卒業後の就職先を考え始めた時から最後までインターン先への就職が第一希望だった。
早めに就活を始めていたおかげで業界や業種、企業規模を問わず社会人から話を聞けたが、1.2回話した人から聞く仕事のやりがいが日々の体験に勝ることは難しかった。
「自分が働きたいと思える人たちと意義のある活動ができる会社で働こう」と新卒でインターン先に入社させてもらった。

新卒入社 - 転職(東京)

社会を変える熱い志を持って入社した後、ますますファシリテーションについての知識を身に着けていった。
会いたいファシリテーターがいれば研修を受けるため東京に行ったり、獲得した知識を現場で試しては、後輩インターン生やボランティアも再現できるように伝えていた。
ここまではうまくいっていた部分の話。

結果、入社して2年2か月で転職をした。
2年目の年度末に各事業部の将来について検討する社員合宿が開かれた。
参加者で唯一「何も思い浮かびません」と自分の力の無さについて白状した。場づくりは好きだけど、その場づくりをどうやって事業として変化させていけばよいのかアイディアが思い浮かばなかったのだ。

加えて、絶対に良いものを提供しているという自信が無くなっていた。
定時制高校での授業に積極的に参加してくれていた子がある日から参加しなくなった。学校の先生に話を聞くと、親からの虐待が理由で転校をしたとのことだった。場づくりで解決できる課題は何なのか、迷いの中にいた。
代表や上長と1on1を繰り返していくうちに、外の世界を見て視座を広げたいこと、転職活動を始めることに合意をもらえた。

そんな折に、大学時代の先輩が働いている企業へ紹介してもらえることになった。児童発達支援,放課後等デイサービスで家族単位へのアプローチをしている企業と聞き、「早い段階で家族にアプローチができればもっと幸せな人が増えるはず、自分の培ったファシリも現場に広めたい」とリファラル採用で東京本社の人事として採用してもらった。心機一転東京での生活が始まった。

当時の人事としての業務内容は、社内人材の資格取得補助、現場長会議の運営補助や研修システムの導入など、事業について学びながら裏方業務に徹した。

社員6名の会社から社員2000名超の事業部に入社したこと、東京での生活を始めたこと、現場職から本社部門へ異動をしたこと、何もかもが新しすぎて、数え切れないくらいの学びを得ることができ、そして同時にそれを凌駕するミスを量産した。

そんな経験でも自信に繋がったのは、延べ1000名超の社会人ボランティアと高校生の対話の場づくりをした経験を、会議運営など別場面でファシリテーターとして学びを応用できたことだった。
とはいえ、本社採用で事業の詳細を知らない自分には想像できないことが多く、2年程経つと再び壁にぶつかった。
悩んでいた時に、関西へ異動するマネージャーから異動打診の声掛けをしてもらった。つくづく自分のキャリアは悩んでいるタイミングで何かの縁があるなと思う。そして、それを応援してくれる職場に恵まれていた。コロナが始まった2020年に現場職(教室の先生)として関西へ帰ることにした。

人生の転機③異動(大阪)~子どもたちとの出会い~

関西へ帰ってからは教室の先生として、来所する2~18歳の子どもとその家族へ授業をしたり、保育園など関係者とのケース会議、それらに慣れていくうちに教室内スタッフの育成や研修などを担当させてもらった。

自分でも意外だったのだが、この経験を通じて、子どもと関わることが大好きなことに気づいた。
なぜ好きになったのか考えると、【好き】という気持ちにみんなが素直だからだと思う。嫌いなことは嫌いと行動で示すし、好きなことはどんどん取り組む。
その様子を見ていると大人,子ども問わず、それぞれが内側に秘めている【好き】を応援したい想いが強くなっていった。

【個々の【好き】を聞く時間が自分の人生を豊かにしてくれる】


一方で、自分の中に根強く眠っているコンプレックスと向き合っていくことになる。

人生の転機④結婚 - 転職 ~適応障害との出会い~

社内の昇級は順調に達成していったが、常に不安が付きまとっていた。
それは、【家庭を支えられる経済力を持った人間になれるか】だった。
思春期の父親の件があり、有事の際に家族を経済的に養えない人物に対する嫌悪感が残っていた。

人生語りから少し横道に逸れるが、賃金格差の話をしたい。
業界としてどうしようもない傾向だが、社会福祉や教育業界は平均賃金が他業界と比べて劣る。なぜなら多くの場合は社会課題解決を志しており、サービスの受け手から大金をいただいて事業継続をしようとするケースは少ない。また、昨今は誤解も解けつつあるが、NPO法人などは社会から清貧を求められて、声を上げて対価を得づらい背景もある。

その中で志を追って生き続けていける人間は僕からすると3パターンだ。
①ソーシャルセクターの第一線で活躍できる実力がある(事業部長など)
②既存の貧富の枠にとらわれない心の自由さがある
③実家が太い等何らかの理由で金銭的余裕がある
のどれかである。
①②③いずれも残念ながら自分は該当をしていない。
(①でないことをこうやって言い切るのは少し抵抗があるが、実際相当数な優秀な方々を見てきて、「あの人たちのようにはなれない」と悟っている。)

話を人生語りに戻そう。2021年に妻と結婚をした。
結婚を機に、妻が仕事を辞めても、子どもが将来できたとしても、住む場所に困らず生きていけるための稼ぎを得たい、そう思い人材業界の企業に法人営業職として転職を決意した。
これまでのキャリア軸と異なり、経済的な理由がメインだったため、【年収アップが見込める】×【人の好き,強みを活かせる仕事】くらいの解像度で挑んだ転職だった。

見出しに答えが書いてあるが、半年間の就労の後、適応障害を発症して退職した。

理由は、【自分が強みと信じていたものを否定される経験】×【激務】を繰り返したことだった。
これまでの、共感を大切にしたコミュニケーションスタイルは早々に課題として問題視され、そこそこ自信があったロジカル思考も営業の天才たちの前では使い物にならなかった。

転職同期7名の中でぶっちぎりの売り上げ最下位を獲得し、1on1で詰められる、残業は早入遅出で1日4~8時間、その状態が2,3カ月続くと吃音が始まったり、手の震えが起きた。
結果、妻からストップがかかり、診察を受けて退職。

そうそう、診断を受けるために心療内科の初診を探すと、どこもいっぱいで2,3カ月待ちと言われてさらに絶望することになるので、かかりつけ医を見つけておくのは重要だ。僕の場合は課金してオンライン受診を受けて、医師に15分診察されて適応障害の診断がついた。また、話が逸れてしまった。
戻そう。この経験からの学びはこれだ。

【信じているものを否定されると人は簡単に壊れる】

復職 - 出産

2か月間の休業期間中、これまでやったことのない一人旅をしてみたり、会いたい人にとにかく会いに行ったりした。

実は転職を機に結婚式の日取りをすでに決めており、式当日まで時間が無かったこともあり、それなりに焦りがあった。
「無職の新郎さんです!」と明るく紹介されるボケも思いついたが、妻の手前そんなことも言ってられず、自分探しと職探しをしていると、前職で子どもの【好き】に触れている時間が一番幸せだったことを思い出した。

そして、これは会社の名誉のために書いておくが、転職理由だった給与も同業界の中では十分保障をされていた。
また、妻と話し合いをして、自分がいかに独りよがりで焦っていたかが判明した。

先ほど書いた3つのパターンに加えて、
④無理がない目標と計画を立てて、収支を管理していく
という志を追いかけながら生きられる4つめの道が見えてきたのだ。

勝手にやめた手前、復職相談は気が引けたが「金子さんが楽しく働けるならいいよ」と快くマネージャーが受け入れてくれた。(本当にありがとうございました…!)
そこから悩みながらも楽しく2年半働き、直接支援と間接支援の両方を担う仕事をさせてもらっている。
そして、2024年今年の1月に話が移る。

子どもが産まれた。助産院で出産に立ち会った数時間の感動について語ると文字数(略
ありがたいことに子どもが産まれた翌日から育児休業を1年取得させてもらい、夫婦で育児に没頭できている。この記録もいつか誰かと分かち合いたい。

すでに親になっている人からすると当たり前すぎる話なのだが、子どもと生きていくということは、これまでのライフスタイルからの大きな変化を意味する。
僕らの世代は共働きがスタンダードになっており、FIREを目指さなければ80歳くらいまで働き続ける可能性がある。
男女の役割として固定されてきた価値観も流動的になり、これまでの世代に求められてきた父親母親とも違う家族観を形成していかなければならない。
何を辞めるのか/始めるのか/残すのかを夫婦で話し合い続けていくと、自分に対して一つの問いが立った。


「僕はどんな父親として生きていきたいんだろう」

答えはすぐに出てきた。
「自分らしく人生を楽しんで生きる姿を見せたい」

でも、どうやればよいのか、それが見えなくなっていた。

人生の転機⑤育休中~対話型ワークショップとの出会い②~

そんなことを悩んでいた5月に、以前お仕事をご一緒した人がワークショップの宣伝をしている投稿が目に入った。
【新時代の仕事論・人生論】というタイトルが入っており、数年ぶりに社外のワークショップに参加を決めた。
ティール組織論をベースに世界の組織のトレンドの変遷を知りつつ、個人の過去の経験や最近の衝動と向き合う内容だった。

以前から感じていたことが確信に変わったのは、最後にそれぞれの人生についてシェアをする時間だった。
個人の語りを集団が聞き、そこに対する尊敬からお互いに気づきが生まれる。自分の好きな温度を感じていた。
そして、誰の語りに対しても内側から無限に質問が湧いてくるのを感じていた。
「きっかけはなんだったんだろう」「これからはどうするんだろう」などなど

思えば、雑談に苦慮したことが無い人生だった。昔から誰かの話を聞くのが好きで、3時間同じ話を繰り返す親戚の隣には最後まで自分だけがいたり、友人と渋谷駅で無料愚痴聞きをしてみたり。
本人が話したいことを尊重しながら、個人の経験や価値観に触れるのが何よりも好きで生きてきた。たとえそれが愚痴や迷いでも、夢を語る熱い思いでも。
止まらない探求心は、電車の隣の人に話しかけたくなるし、例えば立ち飲み居酒屋で初見さんと話すことには何の抵抗もなかった。
一時期は、「ただ、話を聞くだけでは人の役に立てない」とコーチングや1on1スキルを学んで支援の力をつけてみようとしたり、雑談後の出口を設計するための人脈を作ろうとしてみたりした。
話を聞く人としてプロの資格も無いし、自分よりもコンサルティングやティーチング,相手に合わせた対話をできるプロが思い浮かんでは自己否定をして、終わりの見えないインプットを繰り返した。

ただ、何か自分の【好き】を無視している感覚があった。

本当は、ただその人が語りたいものを聞いて、受け止めて、それが相手にとって良い時間であれば、インタビューやコーチング、ワークショップだろうが飲み会だろうが場所はなんでもよかったのだ。
物心がついてからの約30年間、帰り道は常に「どうすればもっと良い時間にできたか」とコミュニケーションを振り返る日々だった。そして、それは止めようがない。振り返りの質は置いといて、毎日繰り返す自動装置が自分には搭載されているのだ。


【自分は【個人の語りたい話を聞くこと】が大好き、それを発信して求めてくれる人や場所と分かちあっていきたい】


とワークショップに参加したことで気づくことができた。
そして、想いに気づいたからには次の一歩を踏み出すことにした。

1章 まとめ

ここまでの長文を読んでくれた人、ありがとうございます。
人となりや思い、何かが伝わってくれていると嬉しいです。

人生を文字に変える作業は、選択の連続でした。
書き記したい名前や感謝したい出来事は数えきれないくらいあります。同時に、僕が忘れてしまっていることもあります。
僕がすでに出会っているあなたが出ていないことに、申し訳なさを感じています。ごめんなさい。

今回の自分史は僕のこれからに向けた変遷で切り取りをさせてもらっています。もし読んでいて何か僕に話したい思い出が浮かんだ方はぜひご連絡ください。話を聞くことが大好きな自分にはご褒美になるはずです。

そしてここからは1章のまとめ。

人生をかけて、僕の価値観は緩やかに変化してきた。

【場所が変われば自分を受け入れてくれる人に出会える】
          ↓
【お互いの価値観を受け止め合う空間は作ることができる】
          ↓
【個々の【好き】を聞く時間が自分の人生を豊かにしてくれる】
          ↓
【信じているものを否定されると人は簡単に壊れる】
          ↓
【自分は【個人の語りたい話を聞くこと】が大好き、それを発信して求めてくれる人や場所と分かちあっていきたい】

そして、これからについては次からの章で書きたいと思う。

2章◇これから実現したいこと

子どもの誕生を機に、「自分らしく生きる姿」を実現したいと考えた。
自分のやりたいことは、
個人の語りたい話を聞くこと

そして話をした人が、
【良い時間だったと感じられること】

シンプルにこの2つだ。

今のところは、この2つが積み重なった影響や、その先にある社会までは明確なビジョンがあるわけではない。特定の誰かをイメージできているわけでもない。

でも、好きなことで誰かの役に立つことを繰り返した先に、
【何があっても、いつからでも、あそこに行けば、自分は新しい仲間と出会える】
と感じられるような空間,コミュニティに繋がっていれば嬉しい。

それは居酒屋かもしれないし、ワークショップスペースかもしれない。
こだわりは一個だけでリアルなスペースがいい。
学術的な知見は何もないけど、五感を分かちあったり、偶発的に生まれる対話があったり、コロナ禍を経験して、オンラインには無い可能性を感じた。
すでに似たような場所は世界中にいくつもあると思う。そういう人たちとも仲間になっていきたい。

3章◇そのうえで自分が取り組むこと

「話を聞くことが好きなのでなんかやっていきたい」と発信しても、僕が提供したい価値は伝わらないはずだ。動けることから動いてみようと思う。

・対話ワークショップの主催
【じぶんの気持ちを感じて、話して、整理してみる会】
7/13(土) 13:30-17:00@梅田
これまでのキャリアで得た学びを複合したファシワークショップを実施予定だ。
今後もワークショップは定期的に開催していきたい。

ありがたいことに現在申し込みがすでに6名いらっしゃる。残り2席だけれど、良い場にするために鋭意作成中なので、ぜひ参加してほしい。
イベントリンクはこちら。
→ありがたいことに記事公開後申し込みいただき、定員となりました!またの企画をお待ちください。(6/19(水)13:00追記)


・noteの定期発信
会って話をしてみたいと思ってもらうには、
課題を解決できる可能性や、
会ったらなんか面白そうと感じてもらう必要がある。
ここは苦手だけど、自己研鑽をしながら発信していきたい。

育休中は隔週の火曜日20:00に自分の価値観や経験値をnoteで発信していってみる。火曜なのは完全になんとなくだ。

・オフラインの場への参加
新しい友人や繋がりなど、自分が話を聞く場を開くだけでなく、交流の場に参加していきたい。
育児の合間で時間の捻出は課題だが、できる範囲で。

・社内でのキャリアアップ
それから、会社には所属し続けていきたい。
今の仕事は好きだし、副業にも寛容的で、家族を養うための経済的基盤は必要だ。

・発達障害、応用行動分析に詳しい人
・子どもの好きを極められる人
・教育業界で育成を担ってきた人

として信頼を得られるように子どもに関わる知識と経験は引き続き重ねていきたい。

4章◇読んでくれてる方へのお願い

無理ない範囲で応援してください!😊(直球)

例えば以下のことが今ならすごく嬉しいです。

・金子の発信にコメントやいいねなどリアクションを返す🗣
お豆腐メンタルなので、発信するのにプルプルしています。感じたことを伝えてくれるの嬉しいです!
今後発信するnoteもぜひ読んでください。

最近twitterも始めました。(スパムアカウントからモテすぎて疲れたので辞めましたが再開します)
良かったらフォローしてください。

・金子主催イベントに参加する
作りたい時間や世界に共感してくださった人はぜひ直接会いに来てください!一緒に良い時間過ごしましょう。
一緒に何か企画したいと思った人ぜひやりましょう!

・金子が知ってたらいいなと思う情報を提供する📩
この人、この場所、この考え方合うと思うよの紹介大歓迎です。基本、本読むのは好きですが、子ども抱っこしてることが多いので、最近は動画をよく見ています。

・金子にチャレンジの機会をあげる💪
大学時代から2歳〜18歳と幅広く関わる経験を10年積んできました。
また、保育園〜高校の先生の内省支援、ケース会議に参加してきたので教育者伴走の経験もあります。

♯子ども♯場づくり♯チームビルディング♯アイスブレイク♯育成支援
この辺に関して、人の思いを引き出す場づくりの需要があればお呼びだてください!

ちなみにネットワークビジネスは断ります、ごめんなさい!

以上です。
いつかあなたにとって面白いなにかを提供できるように、僕は自分の好きと向き合って生きてみます。

ここまで読んでくださりありがとうございました!

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