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【小説】 渡し舟〔4〕 (あらすじ有)

 《第三の世界に紛れ込み、謎の島に流れ着いた僕は海岸から岸壁を登り、水を求めて森に入っていく。人間などいないと思っていたが、赤いビニール袋を発見し手に取ると、赤い液が手についた。》

 茫然と目の前の赤い液体を凝視していると、その中にごく小さな粒があることに気づいた。恐る恐る指を擦り合わせると、確かにその粒の感触を感じる。顔を近づけてみると、ほんの微かに甘酸っぱいニオイがした。血は時が経つとこんな臭いになるのか?そんな訳がないのに疑問に思った。そう、それは果実の汁だったのだ。赤い袋に入った赤い果汁。細かい粒々は果実の種子だった。咄嗟に舐めそうになったが、まだ理性が勝った。落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせ、呼吸を意識して整える。だが興奮で身体が震えているのがわかる。力を抜こうにも筋肉が硬直している。
 徐々に冷静になってくると、ビニール袋は風化しておらず、中の果汁も腐りきっていないことに気づいた。これは近くに人間がいるのかも…。そう思ったが、さっきの姿は見えず、鳴き声だけが聞こえた鳥が咥えてきたものかもしれない。またはあの恐ろしいうめき声を発した生物が使ったのかもしれない。待てよ。この島にはたくさんの動物がいるのでは。それは食料面では希望となるが、肉体的にはかなり絶望を感じる。なにしろ僕にはサバイバル能力などない。ジムに行ったこともなければ、ロープすら満足に扱えない。得体の知らない生物たちを相手に、生き抜く自信など内面のどこを探しても見つからなかった。とにかく、まずは手についた赤い果汁の感触が気持ち悪いのでどこかで拭き取りたかった。
 しかし色によって感覚が全く異なるのはなぜだろう。もし果汁の色が青かったなら卒倒しなかっただろうか。国によって色の解釈はそれぞれ違うようだが、赤は血の色。火やマグマも赤色だが、生命の内側には赤い沸々としたものが湧いているのかもしれない。赤は生命の色だ。その色に人は興奮する。赤に翻弄された僕は再び川を探し求め始めた。いや今は泥水でもいい。この不快な汁を洗い流したい。周りを見渡しても枯れた細い木にびっしりと覆われ、気持ちまで萎れてくる。水分など感じられない。もう疲れてきた。休むのに適した場所まで進もうと決めた。上半身はTシャツのところどころが、木の枝や草などに突かれて穴が空いている。血が滲んでいるところもあった。体力的にも精神的にも余力はほとんど残っていない。それに加えて身体が冷えてきた。そういえばこの島は暑くも寒くもなかった。しかし日の温もりは感じない。それこそ太陽がないのに明るいのは何故だろう。白夜か何かなのだろうか。このまま暗くならなければいいが、もし明るさがなくなれば僕はどうすればいいのか。月さえない世界に来てしまったのか。
 これまで生きてきた世界は、当たり前のように日が登り地球が回る。誰もがそれを平然と受け止めているが、規則正しい運動がどれほど尊いことなのかを知るものは少ない。ましてそれを忘れ、人は時に自然を破壊する。宇宙を汚す。人間だけではないか、確かにある宇宙のリズムに乗っていないのは。本当に大事なことは、ごく当たり前の中にある。すべては当たり前を考えることから始まるのだ。
 疲れ果て、暗闇にうずくまり続けたあの頃を思い出すような感覚になった。いや今は肉体的な絶望感もある。心身のバランスが崩れれば人は病む。僕の心身は状態が激しく揺れ動き、バランスはぐしゃぐしゃだった。それでも動かなければならない。なぜここまで人間は生きようとできるのか。人間もまた動物なのだ。理性を持ち過ぎた動物、ほとんど機械になった生物。それでも何かに駆り立てられ動こうとする。思考に支配された世界、それが今までいた世界だった。気づいても見て見ぬふりをしてきた。みんな気づいている。それに抗うのが真の人間なのだとのちに理解できるようになった。ただこの時の僕は息をするゴミのようだった。
 這いずるように歩きながら開けた場所を目指す。もう喉がカラカラだ。もう脱水症状も出てきているだろう。これまでで1番の極限状態だった。しかしどこか他人事のような自分もいた。そう、自分では分からなかったが、ここに来るまでもギリギリの死線を生きてきたのだ。人は精神が死ねば死ぬ。何度崩壊寸前までいったことか。肉体的な限界を褒め称えるような世界で、とにかく生き難かったことだけは確かだ。精神のアスリートたちを讃頌したい。そしてそんな人たちが活躍する世界を僕は生きたい。そのためにもここで死ぬわけにはいかなかった。泥水を啜ってでも。


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