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【小説】 渡し舟〔2〕 (あらすじ有)


 《雨垂れの港から第三の世界に紛れ込んだ僕は、謎の島にたどり着く。信じたくもない今ある目の前の現実をどう生きるのか。とにかく前に進むしかなかった。そこで見つけたあるものとは。》


 振り返り川を目指す。この島はどこまで続いているのだろう。どこかに水はあるはずだ。じゃなきゃ生命はいないのだから。先ほどの鳴き声が気になったが、生きるためには進むしかない。森の中へと目指し分け入っていく。いきなり森が濃くなってきた。草や葉の新鮮な緑、木や苔の深い緑、赤や橙の硬い植物の実、かすかに感じる潮の匂い。それらが混ざり合って生きた心地がする。ここから僕は何か新しい段階に入るように感じた。以前にも微かに体験した感覚。ここから全ては始まりそして終わり、また始まる。一瞬一瞬が始まりであり終わりである。その瞬く間に生命を燃焼させられるかどうか。精進するとはその行為を目指すことなのかもしれない。
 森を進む。川の気配はない。起伏がある地形をあてもなく彷徨うのも疲れる。高い場所もないので、見渡すこともできない。それは人生を生きる自分のようで、俯瞰できないもどかしさを感じた。その時、クルルルと鳥の鳴き声がした。姿は見えない。幻聴なのかもしれない。だが健全な幻聴もあるはずだ。ここにないものはここにある。始まり終わるのと同じだ。その世界を科学は否定する。いや科学はまだ何も解き明かしてはいない。解き明かしていると考え、傲慢になっているだけだ、人類は。そんな人類かどうかもわからない自分は、ないものがあると無意識で理解しようとしていた。幼い頃のように。
 鳥の声が小さく遠くに去っていく。姿は見えないが遠くこの島以外の世界へ行くのだと理解できた。それは微かな希望になった。まだ自分の中にそんなものがあるとは思っていなかった。ないものはつくり出せるのだ。ないことはないのだ。なぜなら今ここに私たちは存在する。そう「ある」のだ。無に帰するなどあり得ない。今この目の前の確かに感じるこの世界は実在している。だから無とは言えないし、この瞬間、思い出、過去、歴史、それらが消え去ることなどない。
 その時の流れの中のどこに今自分はいるのかはさっぱりわからない。死後の世界なのかもしれない。むしろ生も死も分け隔てるものでもない。ただ真っ直ぐ過去から未来へと連綿と続いていくのだ。その流れは直線ではないだろう。うず潮のようなものかもしれないし、流れ星のようなものかもしれない。果てた先にまた生まれる。この一瞬のうちに。

 鳥の声が全くしなくなった。また寂しさが込み上げてくる。大嫌いだったあの人が今は懐かしく会いたいとさえ思った。人はあるはずのものがないと理解するとその大切さを学ぶ。そしてそれを忘れまた同じことを繰り返す。忘れるから不幸せなのだ。そして、忘れるから生きられるのである。
 この島には時の流れはあるのだろうか。季節は移り変わるのだろうか。そんなことをふと考えたが、島の植物はこれまで見たことのあるもののようだった。意識して植物を見たことがほとんどなかったことに気づく。人ばかり見ていた。それも人の悪い面だけ見て生きてきた。それは見せ続けられてきたと言ってよい。そのことに気付くのにはまだ時間がかかった。目の前の木の葉に流れる脈などとうに忘れさっていた。
 気を持ち直し、森の中に分け入っていく。さっきの恐ろしい雄叫びを思い出し足がすくむが、喉の渇きが時を追うごとに激しくなってきて、恐怖よりも欲望が勝ち始めた。欲も案外悪いものでもない。そんな雑念が僅かによぎったが、肌に当たる木々の葉っぱは僕をこの現実に引き戻す。
 そうしていると遠くの木の陰に熟した赤い果物のようなものが見えた。僕は目を見開いた。もうその物体のことで頭がいっぱいになった。ささくれ立った木の枝も気にせず、なりふり構わず両手で押し除けながら進んでいく。足元でバリバリと植物を踏みつけながらじりじりと赤い物体に向かう。しかし徐々に近づくにつれて、嫌な予感がしだした。果物にしては薄っぺらいのだ。その予感はどんどんと確かになっていく。そして手を伸ばす前に、期待は儚く消え去った。と同時にその事実に驚嘆した。なんと赤いビニール袋だったのだ。この人工物が彼を動揺させた。先ほどの尖った欲望も飛んでいった。嬉しいやら悲しいやら訳がわからなかった。
 少しずつ冷静になるにつれて、この世界には、いやこの島には人間がいるのではないか。と考えるようになった。

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