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Neki inc.の新しいサービス名がなかなか決まらない話

Nekiで始める新しいサービスの名前がなかなか決まらない。

しかし候補は色々と出てきており、
ゆっくりと決まっていくような気配があり嬉しい限りである。

そんな中、僕も遠目からそのプロジェクトを見つつ、
「果たして僕らが(特に僕と成田が)ずっとときめいているあれって、なんなんだろうな」
とぐるぐると考えている。

その中で、今日ふとメモしていたことがある。

僕らは、デザインでも写真でも常々、
「日常の中にある、チンケで、それでいてかけがえがない、物語を構成するいちセンテンスのようなもの」をとても愛おしく感じているような気がする

といったことだった。
そんな事をふと思ったのだった。
(※チンケというのは、愛情をこめて言ってます。)

僕らは、各々が、それぞれの「人生」といったような、巨大な物語の中を進んでいるとして、
僕らはその巨大さ(長さ?)ゆえに、近すぎてそのセンテンスたちのかけがえのなさや大切さをうまくみたり、感じたりできないのだけれど。

けれど、僕らは(僕とおそらく成田は、)なんらかの方法で、それらを感じ取りたいと思っているし、その為の術のようなものを身に付けたいと思い続けてきたのだ。(それが、僕らにとってのデザインだったり写真だったりするような気もする。)

人は、人生という物語の密林の中にずっといるようでもあるし、
人生という巨大な生物の一部を、間近でずっと見ていて、全容はついぞ見れない。というような。
(「人」とか「人生」とか書くと、壮大すぎるのですが、とりあえずこの単語でメモしていたので、このままいきます。)

イメージとしてはこんな感じ? 「群盲象を評す」とちょっと似ている。

ちょっとズレるかもしれないが、
例えば、
物語の登場人物が「自分は登場人物である」と物語に気づく方法はあるのだろうか?
(ミヒャエル・エンデ著「はてしない物語」のアトレーユは結局どうだったかしら・・・)

そのように、自分より高次元のものに気づくことは難しいかもしれない。(メタ認識にも限界がありそう)
しかしだからこそ、人は低次元に向かって物語を出力して、自分が属している物語その存在を、いっとき感じようとするのかもしれない。

こんな感じか。地球を理解するための地球儀のようなものであったり、
世界地図のようなものともちょっと似ているような気もする。

そう考えると、
僕たちが制作に携わるデザインや写真は、

物語を「作る」ためのデザインや写真ではなく、
物語に「気づく」ためのデザインや写真であっても良いかもしれない。

また、鑑賞するための制作物というのももちろん重要だけれど、
自分が身を置いている世界を理解したり、味わったりするための「ものをつくる」という行為も、同じくらい面白いことかもしれないと改めて思う。

そういった後者の意味での「ものをつくる」ことを、様々な人に開いていくフォーマットとしてのデザイン行為や写真を撮る行為も楽しそうだ。

日常の一瞬は、近すぎてよく見えないけれど、
確かに、一つの物語を紡いでいく一文であったりするような気がするし、
それを可視化するようなことが出来ればめっちゃ良いな。

そんなことを思う2月初旬の夜でした。

乱文失礼!

人間というものは、レコードの針がレコード盤の溝を進むように、毎日を撫で続ける事でしか自分の人生の全体像を味わえないのが、とても愛おしいところだなと常々思っている。(仕事や日々のアレやこれやに圧殺されかけながら・・・)

書いてる人

坂田佐武郎|Neki inc.代表 グラフィックデザイナー

https://www.neki.co.jp/

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