レモン・イエローの告解

 煙草に火を点けるという行為は、どこか儀式に似ている。細く骨ばって関節のかさつきが目立つ、春田の白い指が煙草を取り上げるのを眺めながら、秋村はそう思った。形骸化した信仰の残滓は、日常に寄り添うようにしてまだ生きているのだ。それをすることでスイッチを入れるような、そういうなにかとしての喫煙。小さな炎からは煙がもうもうと湧いて、ローテーブルの上を蛇のようにのたくっている。その姿がどことなく、秋村には神さまじみて見えた。煙で出来た蛇が這うローテーブルのガラス製の天板の上には、そのおしゃれぶった趣味に合わない、安っぽい動物を模したデザインの灰皿が一つ載せられている。キリンのようなウサギのようなよくわからない生き物の丸まった背中のあたりに、山のように吸い殻と灰がたまっていた。陶器製のつるりとした表面に、秋村の顔がぐにゃりと歪んで映っている。春田の寝たばこは、いつ注意してやろうか。写り込んだ自分の顔に、脳内で秋村は話しかける。強い西日が二人の鼻筋を金色に染めて、神聖さを帯びて光っていた。
 思案していると、それまで煙を吸うことに集中していたはずの春田が突然こちらをねめつけてきた。ぶつけたように角のところだけが不自然にひしゃげたジッポをしまって、たれがちの目がまっすぐに、秋村を睨むように見つめる。緊張しているらしい。春田は打ち明けづらいことがあると、目つきが悪くなるという癖があるのだ。吸い始めたばかりの煙草を灰皿によけると、意を決したように口を開く。噴火した火山のごとく、煙が一本吸い殻の山から立ち昇っていた。いくら言ってもだんまりだった割に、こちらが黙ると途端に喋りだすのだからまったく春田は猫のような男だと秋村は思う。きまぐれで、あまのじゃくで、さみしがり。秋村は犬派だ。
「第一、おまえは何にもわかっていないんだ。お子様すぎるぜ秋村、ええ? その茶色いくりくりアタマをよくひねって考えてみろよな。いいか、俺はこれでもおまえより二コも年上なんだぜ」
「けど学年は一緒だろ、お前がバカだから」
すかさず言うと、春田は眉間に皺を寄せた。形のいい、少し細めの眉が怒りっぽく歪む。
「俺がダブってるのはバカだからじゃない、教授どもの授業がつまらんからだ」
「そんな理由で単位落として留年してるのがバカだって言ってるんだよ。これだから坊ちゃんは困るんだ。そんならおれに学費をよこせよな。大体、前々から思ってたんだが、そういう年上ぶるところがかえってこどもっぽいんだぜ」
 そう笑いながら、秋村は沈み込んでいた腰を浮かしてソファに座りなおした。ボンボン育ちの男が所有するこのソファは、やけにふかふかすぎて尻の据わりが悪い。秋村にとってソファとは、黒い革張りで古びていて、校長室にしか置いていない物だ。こんなにやわらかくて、やさしい水色の物ではない。春田の母が編んだという民族っぽい柄のソファカバーも、そんな秋村の「ソファ」の定義を崩している。向かいで春田が横になる、秋村が座っている一人用のとセットの三人掛けソファにも同じ、端の処理が少し甘い白地のカバーがかけられていた。窓際には青を基調とした造花のブーケが乱雑に置かれている。春田の下宿する部屋のこういう様子が、秋村にとってはいつもひどく眩しかった。秋村が母と暮らした六畳一間のアパートには、せんべい布団と無数のゴミと、あとは小さなドレッサーしか無かったからだ。あかぎれの滲む指に飾り立てた爪の光る母の手は、ときおり秋村を強く触るばかりで、針仕事をするところなんてついぞ見たことがない。母の顔を見る頻度と反比例して呼び出される校長室で、秋村は黒くてぼろぼろのソファに座ってよく教師たちの詰問を受けた。使い込まれたソファは座面が校長の頭と同じくらい硬くて、春田のソファとは真逆の方向に座り心地が悪かったことを嫌にはっきりと覚えている。あの貧相に擦り切れた革の隙間から飛び出る、茶色いクッション材の破片が嫌いだったことを思い出しながら、秋村は尻の落ち着く場所を探した。
 春田はなおも腹立たしげにしていたものの、形勢不利を悟って早々、また煙草に口をつけている。ニコチン依存のくせに健康志向の春田は、肺喫煙は身体に悪いだのなんだのと言っていつもふかしで煙草を吸った。しかし、それでぷかぷか独特のリズムをもって煙を吐き出す姿は、少しばかり間が抜けている。春田はまたしばらく煙を呑むことに専念していたが、ふいに鳥の脚みたいな指で煙草をつまみあげると、息を漏らすようにつぶやいた。
「親父とおふくろに言えば聞いちまいそうなんだけどな。おふくろなんか『まあ、嗣生ちゃんのオトモダチが苦学生だったなんて!』とか言いながら親父をせっつきだすに決まってるし、むしろ俺の援助が切られる。嫌だから絶対頼んでやらねぇけど」
「お前はまったく貧乏人の敵だよ、このスネかじりめ」
「金持ちの家に産まれたのは俺の意思じゃないけどなあ、産まれちまったからにゃ、スネはかじれるだけかじって、しゃぶれるだけしゃぶるつもりだ。それがまあ、俺なりのノブレスオブリージュってわけさ」
 ふっくらとした涙袋を悪どく歪めて、春田は笑う。つられるように、秋村も口端を少し歪めて笑った。そのまま寝そべっていた身体を起こすと、春田は銀に光るスクエアフレームの眼鏡を取り上げて、黒シャツの裾でレンズを拭う。うつむいた春田の頭につむじが二つあることに、秋村は気が付いた。咥えたままの煙草から上がる煙が、春田と秋村の間で、一本の柱のように悠然と立ち昇っている。なんとなく手持無沙汰で、秋村はまた少しソファに座りなおした。
「どうせ親父も俺に会社を預けるつもりはないんだ。今のうちになるべくいい思いをしておかなくっちゃあな」
拭き終わった眼鏡を掛け直して、最後に深く煙を吸うと、春田は胴体が長いウサギの背中へぎゅうぎゅうと、なにか覚悟するように強く煙草を押し付けた。そのまま秋村へ向き直って、もう一度強く、あの睨むような目で見つめる。どうやら逸れきった話題を元に戻すつもりらしい。春田はとんだ放蕩息子だが、根はまじめだ。目を逸らしたくなる問題でもそうはせず、それまでに少々足掻こうとするけれど、向き合うことはやめない。秋村は春田のそういうところが嫌いで、そして彼が持つ多くの美点のうちの一つだと思っていた。日本人らしい暗色の双眸が秋村をまっすぐ捉えていて、だから秋村は同じくらいまっすぐと春田を見据えた。窓辺で揺れるカーテンは部屋にそぐわないまぶしいようなレモン・イエローで、その色が春田の黒茶の瞳に重なってチラついている。
「最近、夢を見るんだ」
秋村の目をじっと見つめたまま、絞り出すように春田は言った。そしてすべての空気を追い出すように長く息を吐くと、また同じだけの時間をかけて息を吸い込んだ。その様子を秋村は声をかけることもなく、ただじっと、目を逸らさずに見ていた。それが必要なことだと、秋村は思った。
夢を見るんだ。もう一度、春田がつぶやく。
「その夢の中では、俺は八歳、いや九歳かな──でも五歳の時だってあった。まだ矯正をしていた頃だから、ずいぶん昔だっていうのは確かなんだが──いや、歳の事なんてどうだっていい、とにかくその夢の中で、俺はまだ半ズボンを履いてるようなガキになってるんだ。それで夢の中で、ガキの俺は暗くて狭くて涼しい、多分親父の実家にあった蔵の中にいる。真っ暗で何も見えねえけど、気配があの蔵と一緒なんだ。壺とか掛け軸とか、よくわからない仏像とか、がらくたと紙一重の骨董品が山のように積まれている気配。そこに俺は、体育座りで座り込んでる。
 別に、蔵の中は怖くない。むしろ俺はあの蔵が子供のころ結構好きだったんだ。親父の実家、つまり祖父さんの家はいかにも日本家屋って感じで、襖で、開けてて、鍵のかからない部屋がほとんどだった。俺はほら、上のきょうだいとは腹違いだから、別に祖父さんたちが何か言ったり態度が違ったってことはねぇけど、でもやっぱり近所の人間がヒソヒソ言ってるのは知ってたからさ、疎外感みたいなものをガキなりにずっと感じてたんだ。
それで、どうしようもなく一人になりたい気分の時は、あの蔵に行ってた。暗いし狭いし、なにより誰もこないからな。あそこで祖父さんやその前の代から集められた物の中に混じって小さくなってると、自分が認められる気がした。蔵の中にあるものは、誰も必要としてないけど、でも捨てられはしないだろ。だから俺もきっと捨てられないって思えた。あの家系の中で俺は、蔵の中のがらくたとおんなじに、居ても居なくてもどっちでもいい存在だ。それでもこういう薄暗いとこにだったら、居てもいいと思えたんだ。だから俺は、あの蔵が好きだった。」
 そこまで話すと、春田は灰皿を携えうなだれて立ち上がった。キッチンへ向かう背中はひどい猫背で、やっぱり春田は猫に似ていると秋村は思う。のびきったクルーネックの首元から、ブランドタグがひょっこり飛び出ていた。吸い殻の山を処理してそのままコーヒーを淹れる春田の頭には、やっぱりつむじが二つある。湯を注がれたコーヒーの焦げたように深い香りが部屋に漂ってきて、秋村はそれをそっと吸い込んだ。春田はいつもコーヒーがインスタントであることを詫びるけれど、それでも秋村が普段飲むのよりはずっと上等な品だ。そうでなくても、人が手ずから淹れてくれたというだけで十分嬉しいものだと、春田は分かっていないようだった。手間をかけることばかりが愛情ではないし、手間をかけないことを申し訳なく思うのは、きっと愛情だ。そういう優しさを当たり前のものとして持っている春田の傲慢さが、秋村は好きだと思う。普段は上から目線のくせに春田はどこか自分を過小評価していて、模範的でないことを自嘲するような姿勢がある。実家の太さや学歴のような、ステータスとしてだけでない春田自身の持つ豊かさを、春田は信じ切れていないのだ。それが春田の傲慢さで、秋村が春田を気に入っている一番の理由だった。二つのつむじみたいに、ぐるぐるとして、でもただそこにある。春田嗣生という男は、繊細にいびつで、二回転ずつねじれ合って、それでもそれを取り繕うことなくただ自然に生きている。
 大容量の白いマグに淹れたコーヒーを二つ持って、春田は戻ってきた。会釈をしてそれを受け取ると、漂う程度だった豆の香りがはっきりして、脳みそにしみ込むように強くなる。窓に目をやれば、太陽は先ほどよりさらに傾いて、夜の足音が徐々に近づいて来ていた。空中に舞う埃にその黄昏の光が反射して、極小の蛍みたいにきらきらと輝いている。遠くのほうに分厚い雲が垂れこめているのを見て、夜には雨が降るかもしれないと秋村は思った。再び向かいのソファに座った春田も同じことを考えたようで、コーヒーをなめすすりながら、今日は乾燥機にするかあ、とちいさくつぶやいていた。
 部屋には秋口の冷たい空気とともに沈黙が満ちて、春田は口を開きあぐねている。先ほどまでの話は、重要な話ではあるけれど本題ではない。春田が今抱えていることの一部でしかなくて、ほんのさわりの部分だ。自分の恐怖について、端からつまびらかにできる人間なんてそうそういないだろう。自分がそうであったみたいに、秋村は春田に一晩でも一日でも付き合ってやるつもりだった。それでも、秋村はできることなら春田が怖い夢を見る時間が少しでも短ければいいと思う。だから単純に、秋村の思ったことを聞いてやった。多分今は、それが一番いいことだと思ったからだ。
「……にしても、春田のがらくた趣味はもしかするとその蔵の中の記憶が原因なんじゃないか? 結構根っからだろ、それ」
尋ねると、春田は考えるように斜め上を見上げた。その実、春田はもう答えを決めているように秋村には見えた。怪獣の印刷されたマグカップをローテーブルへ静かに置くと、春田はゆっくり、言葉を掬い取るように喋り始めた。
「ああ、なんか、きっとそれであってるよ。俺はきっと、あの蔵の中に今もいるんだ。なんつーか、その……俺はさ、誰にも必要とされていない物じゃなきゃ、愛しちゃいけない気がしてるんだ。蔵の中に閉じ込められてる居ても居なくてもどっちでもいい物たちを集めて、自分が解放された気になってる。そんなことしたって、どうにもならねえのに。
……俺があの夢を怖いと思うのは、あの夢に兄貴が出てくるからだ。兄貴が蔵の外で突っ立ってるんだよ。ガキの頃とおんなじだ。あの時も、兄貴は俺が蔵の中にいるのを知ってて、でも何も言ってこなかった。蔵の入り口から俺のことをじっと見て、それで扉を閉じて行った。俺はそれがすごく怖かったんだ。兄貴に見放されたと思ったし、でもなによりも怖かったのは、ひょっとすると兄貴もこの蔵が大事なんじゃないかって、そう思ったことだ。もしそうなら、俺はこんな一人でじっとうずくまれる場所を兄貴に渡さなきゃいけない。大事なものは、全部兄貴が持ってなくちゃダメなんだ。俺はだって、会社を継ぐこともそのための勉強で遊ぶ暇がないなんてこともないんだから。ああ! 俺は、俺はいつだって、今だって、兄貴にずっとうしろめたいんだ! 俺は蔵を捨てなきゃいけないんだ。でもそうしたら、俺はどこに行けばいいんだろう」
 言い切ると、春田は頭を抱えてまた黙り込んだ。徐々に駆け足に、そしてかすれて響いた春田の低い声は、やわらかく毛足の長いカーペットに雨のように吸い込まれた。その間中、二個のつむじがこちらを見つめて揺れるのを、秋村はただ黙って見ていた。春田の兄は、春田と腹違いで彼より十八も年上だと酔った春田から以前秋村は聞いたことがある。一族で企業を経営する春田の家で、春田よりずっと早く産まれて嫡男としての教育を受けてきた。そういう兄を春田は尊敬して、そして同じ以上に恐れている。それは春田にとって彼の兄が、春田が産まれてこの方持ち続けている素朴な疎外感の象徴だからだ。兄への劣等感や打ち解けられないつらさ、兄が帝王学のために惜しんだ遊びのほとんどを甘受しているうしろめたさ、そういう少年の春田に刻み込まれた寂しさは、まるきり兄の姿をしている。秋村はそのことをなんとなくだけど気付いていて、今それは確証になった。春田は酒に酔うと、よく兄の話をした。それなりに仲が良いという姉たちではなくて、たまに顔を合わせてもほとんど話すことはないという、兄の話をだ。思い出の話は一切なくてただ春田はしきりに、兄はすごいのだ、とそれだけを繰り返していた。秋村はその様子を見るとき、いつも春田の兄のほうに共感をしていた。年の離れた妹弟が突然できて、それを受け入れた経験なら秋村にもある。多分春田の兄は、それこそ春田と同じように、十八歳年下の小さな弟が怖かったのだ。純粋にまっすぐな憧れのまなざしを向けられることは、ひどくこそばゆいということを秋村は身をもって知っている。自分に自信がなければないほど、そのまばゆさは耐え難い。春田の兄は、そんな眩しい子供にどう接すればいいのか分からないから春田を怖がって、近づかなかった。弟に幻滅されるのが恐ろしかったのだ。彼らは結局似たもの兄弟で、そこにはきっとお互いに対するうすらぼんやりとした思いやりがある。二つのつむじは少しずつ髪をねじれて絡ませているけれど、ほどいてしまえば、ただ寄り添うばかりだ。レモン・イエローのカーテンの外では、降りだした雨が厳かに街を洗っている。
「おまえはきっと、それでいいんじゃないかな。どこにだって、行かなくてもいいんだ。おまえの中に、その蔵をずっと持っていたって別にいいんだよ。おれだって、まだおれの中に砂浜を持ってる。あの時の薄水色の海を持ったままだ。なあ、人は弱いぜ。閉じこもる場所なんていくら持ってても構わないんだ。そこから出られなくならなければ、それでいいんだよ。その夢が何を意味してるとか俺は分からないけど、怖がらなくていい夢だよ、多分。兄貴だってきっと、様子を見に来てただけだ。なあ春田、おまえが兄貴をどう思ってたかは別にして、年の離れた兄弟って結構かわいいもんだぜ」
 そう言って、秋村はぬるいコーヒーを一息に飲み干した。冷えた空気の中で、春田は迷子の子供のように光る瞳で秋村を見つめている。強まってきた雨音が静かな部屋に響き渡って、まるで二人はノアの方舟に乗り損ねた気分だ。もう、言葉はいらなかった。そもそも、春田はきっと答えなんて必要としていなかった。秋村はただ話を聞いて、今日限り彼だけの神父か牧師になってやればよかったのだ。これはきっと、信仰の無い告解だ。春田の猫のような髪を、冷たい空気が静かに揺らした。
 夜と昼の間の広いリビングルームには、なぐさめと理解ばかりが満ちている。雨に煙る光がステンドグラスのようにカーテンを透かして輝く、くすんだレモン色の懺悔室で、春田と秋村はただ静かに溶解しそうな意識に身を任せていた。

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