死ぬことについて

これは自分がいつか死ぬことについて考える単なる暇つぶし、考えの整理です。決めつけとか適当なこと言ってるので「暇つぶし」に読んでいただけると嬉しいです。

先日おじいちゃんが亡くなり老衰だったので、周りの親族は泣くこともなく晴れやかな気持ちで葬儀を行なっていました。自分は少し気を抜けば泣きそうな具合で、おじいちゃんの妻のおばあちゃんが清々しく送り出すため気を張っているのに、自分だけ泣くわけにはいかんと必死に我慢をしていました。

「死」というのは、例えば宇宙の果ての果てを考えるのと同じようなまず考えても分からないものです。各宗教が言うように死ぬと新しく生まれ変わるだったり、仏になるだったり。肉体は質量保存で何かに置き換わって無になることはないですが、意識はどうでしょう。海外のゾンビ映画など意識(以後魂)を悪魔に奪われ、死体も操られて動き出すといったように、魂は質量のない存在として死んでも残ると言う意見もあります。自然に考えれば、意識は脳が機能することによって起こるものですから、肉体が死ねばもちろん脳みそも機能しませんし、そうなれば意識も無になるということになります。怖いですね。死後は解明されてませんし、宇宙も果ては誰にもわかりません。結局予想して想像しての繰り返しで答えに行きつかないので、不安になります。シェイクスピアが「暗闇はなく、無知があるのみ」と言ったように、分からないから怖いのです。このままでは一生死に怯えながら生きていくことになってしまいます。ではどうすれば、この不安は解消されるのか。ここが問題です。

この不安の解消法について考えてみます。ここでは事故死や突然死は想定しようがなうので考えず、老衰のように徐々に死に近づくことを前提にします。

まず浮かぶのは宗教だったり何か自分が信じるものを設定し、死んでも自分は良い方へ向かうという心の支えを作ること。これは身近で理屈っぽく考えすぎず楽観できる人に向いていそうです。死を目前にしてとこに伏せっているときも自分は大丈夫と思えるかもしれません。

次は死を克服することです。今後100年以内にに医学はもちろんのこと、VRの技術など目まぐるしく進歩していくでしょう。僕のちょうど世代の深夜アニメ,ラノベの王といえばSAOなのですが、あの作品のマザーズロザリオ編での話で、病気で身動きも十分に取れない女の子が、vrの髄を詰め込んだ機械の中でvr空間で自由に動き回り友人たちと楽しく余生を過ごすといったシーンがあるのですが、それと似たように、自分自身をサーボーグであったり仮想の存在にすることさえできれば、機械が動く限り寿命は半永久的になり死という概念自体がなくなるでしょう。こうなれば死なんか全く怖く無いですね。

次は諦めるという選択です。いずれ必ず死ぬ、万物は流転するからこそ今与えられている数十年の俯瞰で見れば微々たる生命でも自分に与えられた短い時間で自分が納得できる人生を送るという選択。死に際なんてみんなあれこうしとけばよかったなんて考えたらキリがないので、それを踏まえても自分はできる限りやったし、それがうまくいってもいかなくても精一杯満足な人生だったと思える人生を送っていれば死は自ずと克服できるかもしれません。これはバチバチの綺麗事ですが、実際先述したおばあちゃんは仏教を拠り所とし、他人に尽くして自分も楽しく元気に過ごしているため、本人ではないので確かなことは言えませんが死ぬことについてあまりマイナスのイメージは持っていないように見えます。

何だか面倒臭くなってきました。いくら考えても埒があかないので修行僧になってきます。ではー

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