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【ネタバレ有】シン・エヴァンゲリオンを見た

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※この記事は3月8日公開『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のネタバレを含みます。


ネタバレありますよ?


いいですね?


嫌な人はブラウザバックしてくださいね?


じゃ、書きます。



総論

めっちゃよかった。

本当に「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」だった。

見ている間はずっと「え、こんなに良くていいの? 信じられないくらい良い! こんなに良いエヴァって作れるの!? 視聴者こんなに幸せになっていいの?」と思いながら見ていた。

ラストに近づくにつれて、これまで心のどこかに憑りついていたエヴァというものが浄化されて成仏するような、良く言えばスッキリ感、悪く言えば寂しさを覚えた。

これはきっとこれまで25年にわたって繰り広げられたエヴァ内外の全てに決着をつける

「エヴァンゲリオン補完計画」

だったのだ、と思う。そしてその試みは見事に成就した。

現実に還ろう

まず、自分はそれほど考察ガチ勢ではないので(新劇場版の前くらいは考察サイトとか読み漁ったけどね)細部に不明な点は残るけれども、それでもこれまでのエヴァのような謎を投げっぱなしの終わり方ではないことに戸惑いすら覚えるほどの衝撃を受けた。

登場人物それぞれの感情が昇華され、親子はわかりあい、わだかまりは解けた。

観る前、僕は心のどこかでこう思っていた。

「新劇場版のラストとか言うけどさw 結局またわけがわからないことになってファンおいてけぼりなんでしょw」

と。

しかし予想を裏切り、かえってきた答えはこうだ。

「物語はしっかりと完結した。碇シンジも、観ている君たちも、大人になった。エヴァのことにかまける時間は終わりだ。みんなで現実に還り、今の世界を生きていくんだ」

これまで僕らが食い入るように見て来た劇中の舞台は安っぽいドラマのセットとして俯瞰され、劇中で綾波レイが「Neon Genesis」というタイトルの回収までしてみせた。

これまでもエヴァの映画の中で、エヴァ(という、あえていえばたかがひとつのアニメ)に躍起になる世間やファンがメタ的に描かれるシーンはあった。それはどちらかというと、制作側が世間に冷や水をぶっかけようとしているような、嘲笑的で尖ったニュアンスを感じていた。

しかし今回のメタ描写からは、ひとつひとつ僕たちが夢中になった記憶を辿り、寄り添いながら、それはあくまでも虚構であり、僕たちが生きていくのは現実なのだ、という丁寧なメッセージを感じた。

もちろんそうであったとしても、ファンからすればとても寂しいことだ。

「いやエヴァってさw 面白いんだけど結局解釈ゲームみたいな感じで意味わかんないんだよねw」

って、僕たちはずっと言っていたかったんだ。

個人的にシン・エヴァの公開をそれほど待ちわびてはいなかった理由もここにある。エヴァがキレイに終わるのも見てみたいけど、終わるのも寂しい。

でも、こんな形で優しくキレイに「ほら、エヴァはこうして終わったよ。もうエヴァのことは考えなくていいんだよ、君は君の日々を生きていいんだよ」と言われてしまうと、もうエヴァの謎を考えて日々を過ごすことはできないし、逆に「急に突き放すなよ!」と文句も言うこともできない。

あまりにも完璧に終わられてしまった。

エヴァの中のエヴァ、エヴァの外のエヴァ

シン・エヴァが見事なのはここだ。エヴァンゲリオンという25年間も引きずったアニメ作品の中の世界をしっかり終わらせた。そしてそれと同時に、エヴァにかまけて捉われる世間やファンにも手を差し伸べ、供養してしまった。

この作品はこれまでエヴァに捉われた全ての人を補完したのだ。

見事な傑作と言っていい。


余談

個人的にしっくり来なかったのは、真希波マリという人物。正直言って新劇からの”新参者”であり謎が多い彼女には視聴者として感情移入ができないままだったが、彼女にラストの地位が与えられていたのは何故なのだろう。

このあたりは純粋に自分の理解の足りなさによるものなのかもしれないが、ここまで従来のエヴァを供養してくれるのであれば、最後はレイかアスカであってほしかった。まぁ、あそこがマリであること自体にも何かしらメタ的な意味合いを持たせる読みも可能なのかもしれないけど、アスカだったらどれほど感動しただろうなぁと思う。

(追記:1日経って、マリはむしろ「現実世界からの使者」のように捉えるのがしっくりくるように思えてきた。考えてみれば、エヴァンゲリオンは各人物の心に欠損があり、それを補完する物語だが、マリには何の苦悩もない。ただ全体を俯瞰しゼーレやゲンドウの計画を阻止するように(ユイの遺志に従って?)動いているだけだ。これは彼女がエヴァの物語内部の文脈ではなく外部の文脈で、エヴァの虚構世界に囚われた視聴者たちを現実へと引き戻す役割を担っていることに対応しているのではなかろうか。こう考えると、それだけを聞くとやや違和感がある「迎えに行く」という表現や、Q終盤での「ちょっとは世間を知りにゃ」という発言も理解しやすい。ラストはアスカがよかったとは書いたけど、アスカとの関係は「好きだった」という言葉でけじめがつけられているし、シン・エヴァのアスカは旧劇での人間らしいアスカではなく綾波タイプと同列の式波タイプとして整理されている。これはもはやアスカはレイと同じようにある種の観念的な存在であり、僕らとともに現実世界を生きるパートナーではないということなのだろう。旧劇の当時のアスカはそうだったかもしれないが、残念ながら「大人になってしまった」のだ。そして僕らの現実におけるマリは僕らが探せばいい。このことはマリの「だーれだ?」が暗示しているのではないかな? 以上、オタク特有の早口)

そういう意味で改めて全体を言えば、我々が抱く登場人物への感情移入はアニメや旧劇場版によるところが大きいと気付く。新劇だけを見ると、アスカもレイもリツコさんも加持さんもそこまで深みはないように思える。が、これは仕方がないことだと言えるだろう。エヴァほどの作品でこれまでのシリーズを念頭におかないことはむしろ無理だ。という中で、やはりマリにだけディスアドバンテージがある。それを彼女の特別さだと言えばそうなのだろう。

なお個人的には「相田ケンスケは未来の加持リョウジたる逸材なのではないか」とアニメシリーズから思っていたので本作でそれなりの地位が与えられていて嬉しかったし納得感があった(あれだけの世界でKREDITとの橋渡し役というのはただの軍事オタクやメカ好きというだけで務まるとは到底思えない)。

(追記:ていうか、KREDITとの橋渡し役どころじゃなくて「アスカの精神的支え」という重大な地位がまさにアニメ版の加持からケンスケに委譲されているではないか!昨日どうして気付かなかったのだろう)


あとどうしても最後に言っておきたいこと。


……いや、こういうエヴァできるんだったらはじめからさっさとやらんかい!!!!!笑

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