見出し画像

モノローグ(独白)とダイアローグ(対話)

しばらく前から、援助職のセルフヘルプグループに参加している。世界的な感染症のおかげでいまはzoomでのオンライン開催になっているが、本来は一箇所に集まって「言いっぱなし、聞きっぱなし」の集まりをやっている。僕もできればFace to Faceのリアルな集まりに参加したいところだが、こは言ってもしかたがないし、遠方からの参加者があるなど、オンラインにはオンラインの利点がある。

この援助者セルフヘルプグループ(以下、SHG)は「言いっぱなし、聞きっぱなし」と書いたが、この「言いっぱなし、聞きっぱなし」スタイルの会に参加するのは初めての経験だ。SHGはこれまでに参加したこともあるし、運営していたこともある(ひきこもり当事者・経験者のグループ。いまもべつの人の手で続けられている)。だが、どちらもスタイルとしては自由に喋り合うオープンな形のものだった。だから当然、「言いっぱなし、聞きっぱなし」スタイルには慣れていない。最初はいささかぎこちなく話をした。まあこういうのはじきに慣れてしまうものだし、実際に慣れた。特に問題らしい問題はない。

この援助者SHGについては、参加してみて良かったと思っているし、今後も参加を続けるつもりでいる。参加して「良かった」と思ういちばんの理由は、やはり話す(speak)ことで自分の中のもやもやや課題を離す(release)ことができるという点だ。話すことで自分の思いをreleaseし、客観的になれる。これはひとりでやるのはむずかしいし、話すことで自己理解が深まるという効果もある。きっと僕は、月に一回のこの機会を楽しみにしているのだろう。

他方で、気になるというか、引っかかっていることもある。対話がないのである。まったくないわけではないので、「対話が少ない」といったほうが正確かもしれない。

「言いっぱなし、聞きっぱなし」だから、参加者がひとりずつ順番に話をしていく。持ち時間や制限時間は特に決まっていない。そのあたりは「なんとなく」のカタチで、わりと鷹揚にできている。ひとりの参加者がひとしきり話をし、拍手があって、そのとなりの参加者が話を始める。それの連続。これまでの参加者が話した内容を踏まえてもよいが、それだと自分の話したい(あるいは吐き出したい)内容が話しきれなくなるので、だいたいは前の参加者の話とは無関係の内容になる。「言いっぱなし、聞きっぱなし」なのだから、この場ではそういうカタチになるのはやむを得ないというか、むしろ当然というべきだろう。しかし僕としては、そこにいささかの物足りなさを感じるというのも、正直な感想であったりする。

「言いっぱなし、聞きっぱなし」方式の利点は、全員に(だいたい均等な)発言機会が保証される点にある。もちろん人によって短く切り上げる人もいるが、そこはその方の自由である。裁量の範囲である。しかし、これがフリートーク形式の集まりになれば、話の分量バランスはいくぶん偏るかもしれない。たくさん話したい人が多くを話し、声の大きい人が自分の陣地を広げるということになるやもしれない。場合によっては大きく偏って収拾がつかなくなるかもしれない。全員に均等な発言機会を保証するのは大切なことだし、これを否定するものではいささかもない。

だが、この方式のデメリットとしては、おおむね独白(モノローグ)に終始し、対話(ダイアローグ)や話の広がりが生まれにくいという点がある。ある人の話にまたべつのある人の話が重なって、重層的な展開を見せることは、まず期待しにくい。話が思わぬ方向に広がって面白い展開を見せるということも、かなり想像しにくい。

まあ、参加者各自の好みの問題といえばそれまでである。そして、その好みの問題でいえば、僕はもっとより多くの対話がほしい。ポリフォニー的とでもいえばよいのか、いろいろな人の声が重なることで新たなる発見や気づきがあるもののほうが僕の好みである。対話のケミストリーとでもいうべきか。それはこれまで、SHGやワークショップのカタチで複数の参加者が(最低限のハウスルールは確認しつつも)話をしていくスタイルをたくさん経験してきたからでもあるだろう。フリースタイルに近い形式でも、逸脱した偏りなしに話を進めることは可能だと知っている。ファシリテーターとして、何度もそうした場を作ってきたという経験も自負もある。

おそらく僕は、対話を必要としているのだ。それも、より多くの。自分ひとりで考えていても答えは出ない。モノローグ(独白)で気づくこともあるが、ダイアローグ(対話)で気づくことのほうがおそらくは多い。僕がしばらく前からオープンダイアローグに興味を持っているのも、もしかしたらそのあたりに理由があるのかもしれない。

やってみたいなあ、オープンダイアローグ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?