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社会人になってから(ねじ屋さんの話)

大学中退から入社まで

学費未納問題が大学4年の後期が始まる頃に大きくなり、「あ、このまま卒業はできないんだな」と理解しました。(ここだけの話単位が足りてないのでそもそもその年に卒業は学費が払えても無理でしたすみません)バイト先(串鳥野幌駅前店という焼き鳥チェーン。鳥貴族より美味いし安い北海道ローカルチェーン。※仙台と東京には数店舗展開している)は大学生がメインなので3月ごろに辞めていくのだけど、僕は12月末に辞めることになり、一足早めの送別会を開いていただいた。寝坊して店長に怒られたりやくざさんに絡まれて半べそ(いや泣いてたな)かいてた。

4年間を過ごした北海道とお別れが決まった11月にこれからどうする会議が行われました。横浜に帰るにも実家は引っ越しして僕の部屋はない。そんな僕に救いの手を差し伸べてくれたのが、母の友人であり、僕の人生に多くの影響を及ぼしてくれたM氏。彼は会社経営者(ネジ屋さん)。彼自身は癌を宣告されて闘病中だった。自分自身、これから先について正直、深く考えていなかった。そんなことより恩師が癌で余命があまり長くないことのほうがよっぽど深刻で、頭の中がパニックだったのを覚えている。彼はそんなことより僕の話をしようと。そんな状況にも関わらず、「しばらくはうちで居候して、うちの会社に入れ。営業として仕事をしてもらう。なにがあっても3年は辞めさせないからな。」と。居候といっても会長宅にいきなり住むことになり、80歳を過ぎた老夫婦にお世話になるということ。お母さん(会長夫人)も困惑していたが、彼がいうから仕方がないわねと、受け入れてもらうことが決まった。2011年1月入社。周りの友達よりも一足先に社会人となり、会長宅での居候生活も1月中に無事に一人暮らしを開始できた。そんな矢先の2月4日。恩師であるM氏が亡くなった。なくなる2日前に病室に行き話をした。それが最後の会話でした。もう亡くなって9年以上経つものの、あんまりにも早かったので、いまだに実感が薄い。彼にはたくさんの恩があり、ほんの少しでも恩返しができるとしたら、いまいる会社をよりよい会社にしていくことかなと思った社会人一年目でした。

(ねじのwiki情報量すごい…)

別れ、のち、出会い

そんなこんなで、社会人生活がスタートし、黙々(?)と仕事をしていたとき、もう一人のキーマンとの出会いがありました。それが今の社長であり、亡くなった恩師の弟にあたるお方。彼は上場企業のアメリカ支社長を経験し、欧米の経営や運営ノウハウをもち、何もなければ本社の取締役にはなってのでは?というお方。家業であるためにエリートキャリアを捨てて、中小零細企業である当社の社長に就任しました。そこから会社は変わり、ごく当たり前のことが当たり前に行われるように。KPIやアクションプランによるPDCA、損益の見える化、在庫管理、調達改善、工場統合、工場増築、新規設備投資、新規拡販、組織の変更、経費節減。いまでは当たり前と思うことができていなかった過去が大昔に思えるほどに社内改革が行われました。その改革をど真ん中で経験し、勉強させてもらいました(現在進行形)そして僕は2年前に工場へ転勤し、工場長に就任。そこからは、営業というPlayerを担当しながら運営に大きく携わるポジションになり、見えること、見なくてはいけないこと、はたまた見すぎ(手を加えすぎ)てはいけないことを学んでいる。

製造業は派手な部分はないが、半沢直樹にも出てくるような町工場がモノづくりを支えていることを実感する。本当はねじに興味など一ミリもなかった人生でしたが、いまではすっかりねじマスターに。ジブリ映画の「風立ちぬ」で飛行機の設計士の主人公が「皿小ねじ」のキーワードを発したときに映画館で「!!!」と声にならない感情になったのは多分ねじ屋だけだ。

とにかく、そんなこんなでとても恵まれた環境で仕事人として10年が経とうとしていた矢先、ひょんなことから「白いきくらげ」の製造販売の運営にも携わることに…

だいぶ日が経ってからの2投稿目となり、またまたどなたが読んでいただけるかわかりませんが、もし最後まで読んでいただけた方がいらっしゃったら幸いです。次はやっと白いきくらげの話を。ではまた。


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