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生い立ち(生まれてから社会人になるまで)

初めまして。ネジ(製造業)やさんとキクラゲ(農業)やさんで仕事をしているネジキクラゲです。変な名前。

自己紹介をしようと書き始めたものの、生い立ち紹介でいっぱいになってしまったので、生い立ちに変えました。

#西野亮廣エンタメ研究所  に禁煙をきっかけに(たばこ代をオンラインサロン代に変えました)鍵垢村にお世話になることになり、いろんな方がoutputしていることを目の当たりにして、自分の経験や感じたことをnoteに綴ってみようと思います。

生まれ

1988年5月29日 東京都世田谷区梅丘(江戸っ子)出身 父(B)、母(A)、兄(B)、自分(AB)の男兄弟の次男坊としてそこそこに可愛がられ、家族の中で一人だけ身長が高く、一人だけ一重(塩顔)で、よく橋の下で拾われた説がささやかれる。父は横浜出身、母は福山(広島)出身。

育ち

生まれて4か月ほどで、自由な父親の思いで家族みんなでアメリカはサンフランシスコへ。サンフランシスコのバークレーに1年半ほど住んだようですが、僕自身は乳幼児であったため、言葉はバブーしか話せず、今現在英語はよくわかりません。その後、帰国して横浜市でぬくぬく育ちました。小学校1年生までは割と裕福な暮らしをさせてもらい、その後、父親の事業失敗(2回くらい失敗してる)により、母親も働くいわゆる鍵っ子として、小学校生活を満喫。引っ越しもアメリカを含めると、7回くらいはしていて、たぶん親の所得の状況に応じて、家賃が増減していたと思います。親のことを恨んだことはあまりなく、いまでも父、母(離婚済み)とも個人的には良好な関係であり、兄は自由なバンドマンでしたが、なにやら来年アメリカはバークレーに引っ越すのだとか。(本来は今年4月に渡米予定でしたが、コロナによる渡米延期)

小学校

横浜市立つつじが丘小学校→桂小学校 つつじ小の思い出は、いじめっ子と仲良くなっていじめられなくなったくらい。 転校して桂小学校に入り、ドッヂボールに明け暮れる。桂小学校は僕が転校した年に開校した新しい学校であり、当時のPTA会長(芥川保志)さんがプロデュースした大林宣彦監督の「あの、夏の日」に出演。(がっつりエキストラ)ケータリングのカレーがおいしくて初めてナンを食べた。いま考えれば、当時の同級生の家庭はそこそこ裕福な層(大手総合商社マン、医者、パイロット、大手企業サラリーマン)であり、周りを見渡せば東大京大早慶出身がごろごろいて、きっとみんな立派なオトナになっている。そのころの将来の夢はスキー選手。ちょうど冬季長野オリンピックで上村愛子さんやスピードスケートの清水さんが話題となり、清水宏保さんみたいに母ちゃんに金メダルかけてやりたいなぁってマザコン感ある思いを抱く。ただ、横浜在住の雪なし県。冬以外はすることがないので、田奈スポーツクラブというサッカーチームに入り、スキーのためのトレーニングと称し、サッカーをしていましたが、巻き爪くるぶし2つ(有痛性外脛骨)もあり、そもそも上手くなかったため、小5で退団。スキーは小5でSAJ2級を取得。小6で1級挑戦も、1点足りずに不合格。自分の中の初めての挫折(小さな)を経験。

中学校

横浜市立奈良中学校(赤学年)でサッカー部には巻き爪くるぶし問題により入らず、バスケ部に入部。年功序列ごりごりで1年はボール触れず、学校外をひたすらランニング。顧問は元ラグビー部であり、バスケがそもそも上手ではないが、熱い気持ちのある先生であった。青葉区では真ん中くらいだったが、市内では下から数えて何番目みたいな感じだけど、バスケ部はモテるようで、練習試合などで他校にいくとワーキャー言われることもあり、鼻の下を伸ばしながらレイアップシュートを決めてました。ちなみに中学が最大のモテ期であり、卒業式はボタン、ネクタイ、ワイシャツ、ジャケット、ベルト、手帳は下級生の手へ。(僕史上最大の武勇伝)大した面構えしているわけでもなく、ただ雰囲気で持てるのが中学生。恐ろしい。ありがとうございました。いまでも中学同級生とはつながっていて、みんなそれぞれの人生を歩んでいるが、集まれば中学生に戻るくらいにはアホである。勉強をあまりしない子(授業は下を向き、教科書をたて、寝るタイプ)なため、成績は良いはずもなく(特段悪くもなく)いたって普通。学習塾には小6あたりから通わせていただき、中2までは塾内のクラス分けでは一番上のクラスにいたので、進学校への行ける雰囲気だったが、スキーがしたくて大事な中2の冬期講習をシカトしてスキー場へ。(冬期講習は復習ではなく予習)想像にたやすく、冬期講習後のクラス分けテストでがっつりしたから2番目のクラスまで落ち、愉快な仲間たちに囲まれ、エンジョイ塾時間がスタート。そこから這い上がることができず(周りに影響されやすいみたい)。ちなみにこの時の学習塾で妻と出会い、当時はお付き合いはしなかったものの、お互いに好意を抱いていたとかいなかったとか。高校はスキー部がある学校に絞っていたため、神奈川県内だと慶応、法政二高、桐光、桐蔭あたりが良さげで、その下はぐっと偏差値が下がって関東学院、関東六浦、横浜商大、横浜高校があり、兄も通っていた横浜商大に進学。僕は残念でしたが、佐々木塾は青葉台に住まわれている親御さんたちにはお勧めです。塾長と室長はユーモアな方たちですが、そのお二人が作られたこそ毎年コンスタントに早慶含めた有名高校への進学実績があると思います。(英語には強くなると思います。あ。僕はしゃべれないので説得力無いですが)

高校

とにかくスキー部がある高校が良くて私立横浜商大高校へ入学。なんやかんやで兄と同じ中学、高校へ進学したため(3学年差のため同時期に在校することはない)先生方も、あいつの弟ね!てきな対応していただき、ありがたいことに可愛がっていただきました。スキー部では部長となり、関東大会には出場するも、インターハイ国体はごりごりのアルペンレーサーには適うことなく引退。ただスキーが上手なのとスキーが早いのは少し違うかなとも感じました。僕は中学までは基礎スキーヤー(技術選とか)だったので、板を走らせるよりもコントロール重視だったようで、アルペンレーサーの際どいコースをごりごり攻める。みたいなものは上手になれなかった模様。とはいえ今もENJOYスキーヤーとして子供を連れて山には毎冬行っている。同じ高校の友達はあまり今はつながっていないものの、スキー部でつながった他校の先輩同級後輩とはいまも連絡がとれ、SNSでもつながっている。スキーをやっている子たちの家庭環境のそれは小学校時代のそれと似ていて、会社経営者や事業主、両親公務員や医者、300年以上続く山形の老舗旅館オーナーなどが当たり前にいて、1年間でスキーにかける金額は100万円は優に超える。そんな恵まれた環境に行かせてくれた親にはマジ感謝。(お金なくて行けない合宿とかは当然あって、インハイにいく子たちは夏はニュージーランド、冬は北海道1か月合宿!みたいな感じ。それだけで100万以上かかるし、スキーのいたも1セット15万円を4セット毎年買い替える!みたいな貴族のスポーツであることを痛感)※だいたいみんな小学生くらいからアルペンスキーヤーとして毎冬合宿に行かせてるような感じなので、僕みたいなのはレアキャラだった様子 それでも、よくわからんそこそこスキー滑れるけどタイム出せない僕なんかも同じ輪に入れてくれて、スキーのメンテナンスなんてスプレーワックスをプシュッとヌリヌリしか知らなかった僕にいろいろ教えてくれたり、むしろエッジがヘタリ過ぎてて引かれた。(一生懸命エッジをたててくれた)そんな貴重な体験ができた高校生活も、学校では怒られ役でよく大声で怒鳴られては乳首つままれてたタイプです。(親には言ってないのですが、テストの日に寝坊したり、授業サボったりもしてましたすみません私立行かせてもらって学費払っていただいたのにすみません)

大学

北海道情報大学という北海道江別市野幌(のっぽろ)※札幌の隣 にある大学に入学させていただき、実家は横浜なので寮に入っての生活がスタート。進学理由は、高校のときの進路相談三者面談で、担任からの「お前は関東の大学にいると遊んでばかりでしょうもないから北海道にでもいったらどうだ?」から始まり、同席していた母親も、スキーもできるしいいんじゃないの?と軽ーいノリで決定。AO入学という試験があってないようなものなのできっとだれでも入れる大学でした。縁もゆかりもない北海道の大地にポーンと身一つで乗り込んだものの、北海道の人は暖かく(外は極寒ですが)生なまらを聞いた時は興奮しました(水曜どうでしょう。が好きなので大泉洋も好きです)とはいっても名前から察する通り、オタク系大学であり、勉強があまりすきではない私にとっては歩いて3分(むしろ敷地内に寮はあった)も億劫になるほど大して大学に通わず、アルバイト(串鳥野幌駅前店)で焼き鳥屋さんに精を出し、17時からのバイトを寝坊するというぐうたら生活を行いながら、学費未納問題で大学4年生の冬(卒業間近)にフェードアウト。親には相変わらず申し訳ないと思いながらも、約4年間、知らぬ土地で生活し、一から人間関係を構築し、だれに監視されることもなく(細かく言えば寮の管理人さんには怒られた)大きなけがもなく、いや骨折しました。理由は大学では巻き爪くるぶし問題がありながらもひょんなことから体育会サッカー部に入ることになり、夕張遠征のときに試合開始5分で右足首を骨折し、スキーができない年がありました。(バリバリーユーバリー)当時、2個上の女性とお付き合いしたものの、なんとサッカー部の先輩の彼女だったらしく(先輩は留学中で海外にいたけど続いていたらしい)、その先輩が帰国されてその事実を知って今まで味方だった他先輩方も含め、よくわからぬ修羅場を経験し、土下座しろよ!と第3者から言われる経験をさせていただき、ありがとうございました。(いまではみなさんととても良好な関係を築いております)そんな諸先輩方ともお別れをし、北海道生活は終了。北海道のおすすめは札幌大通公園で期間限定で開催されるビアガーデン。サッポロアサヒエビスなどの各社がブースをだして北海道の気候を感じながら飲むビールは格別で、7月中旬から8月中旬の1か月、確か昼の12時から21時までやってたと思います。北海道にその時期行かれる方はぜひ。2人以上なら絶対いくべき。

社会人

幼少期からお世話になっていた方が経営されているねじ屋さんへ営業として縁故入社。40人ほどの自社工場を有するねじ商社であり、創業80年の老舗企業。語弊を恐れずに言うと、ぬるーい中小企業。下請け体質で戦略もなく、贔屓にしてくれる顧客に着いていく。そんな感じ。当然同期なんてのはいないし、新卒採用なんてのもない。職兄は10歳以上年上のアナログ兄さん。でも働く人はみんないいひと(一部を除く)で、何ができるわけではない僕を受け入れていただき、寝坊をして鬼電(着歴50件)してくれた。同級生は僕でも知っているような名前の会社にいく子が多く、少しの劣等感を感じながらも、田園都市線田奈駅で一人暮らしを開始。(北海道にいる間に両親の離婚は成立し、引っ越ししていたために住む家がなく、しばらくは会社の会長宅に居候)そんな中、入社のきっかけとなった社長(母親の学生時代からの友人であり、スキーを初めるきっかけとなった僕にとってのキーパーソン)が亡くなった。もともと会社に入る前から癌であることは伝えられていて、余命は長くても3年と言われていたのだけども、入社して1か月のでき事でした。病気療養中のため、会社で一度も会うことはなく、失礼ながら昔から下の名前で(しかも呼び捨て)呼ばせてもらっていたため、その人のことを社長と呼んだことは一度もない。僕が大学に行き始めたときくらいからよく酔っぱらうとお説教が始まり、「お前はどんな仕事がしたいんだ」とよく問いかけられ、考えがなかったなりに出した答えは、いろんな人に携わりながら事業を進めていくような仕事がしたいと漠然と考え「コンサルタント」と答えたら、あまりいい顔をされなかったことを覚えている。ただ、いまこの会社でやっていることはコンサルタントではないにしても、これからこの会社をよくしていくために、世の中から必要とされる企業にするために、思考して実行するポジションにつかせてもらっている。入社前に、「入社したら何があっても3年はやめさせない」と言われ、それがその人との最後の約束でした。社長が亡くなって、周りの方たちからは、社長が亡くなってしまったのだから、うちのところで引き取るよ。とありがたいお誘いを入社間もない僕なんかにしていただいたこともありましたが、大事な人との最後の約束すら守れない人間にはなれなくて、先が見えない社会人生活がスタートさせた当時の記憶は鮮明に覚えている。昨日7月29日がその人の誕生日でした。僕は今年で入社10年目を迎えました。

生い立ち(生まれてから社会人になるまで)はここまでにして、次は社会人からいままでの経験の中で感じたことや思うことを綴ってみようと思います。

多分いないとおもいますが、最後まで読んでくれてありがとうございます。

ではまた


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