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居場所の正体

こんにちは。
常々思って、消えてはモヤる話題を氷結片手に書いています。
いわゆる「夜にかく手紙」・「夜の作詞」と呼ばれるものを仕上げてしまうかもしれませんが…笑

行き場のない子どもたちのために


まちかどアトリエNeiroは、開室当初、いろんな子、親子の居場所になればと思っていました。

私自身発達障害の子育てをしています。
不登校・引きこもりの息子たち、社会に馴染めない感性・・・

同じく苦しく、もがく誰かのためになればと思っていました。

ですが、「何か自分がしよう、してあげよう」というのは、どこか歪んで伝わるのか、うまくいくことはありませんでした。

これは邪推なのかもしれませんが、「そういう雰囲気」は伝わるのか、表面上はどこからどうみても「善いこと」をしているのに、定着しないのです。

最近思うこと。

「私」自身が、誰かに何かしてあげよう、とあれこれ提案するのではなく、「誰か」が何か助けを求めたときに「私」に頼んでみたいと思うような「環境」に徹するべきなのでは…と。

つまり主体は私ではないのです。

結果的には、どこに視点を置くかで主体なんていくらでも変わるのですが、私が、「何か困ってる人」を助けたいと集めるのではなく、常日頃から接する中で、「困った時に」拠り所になる場所、そんなふうになれたら幸せだな、と。


居場所という言葉のモヤモヤ

ところで、私はずっと「居場所」という言葉にモヤモヤしていました。
便宜上、使いますけども、この言葉はとっても苦しい言葉なのです。

なぜなら、学校という所属をなくした息子たちは未だ居場所を見つけられないから…

「子どもの居場所」なる場所に、息子たちを連れていったことも何回もあります。ですが、どの場所も、子どもたちの居場所にはなりえませんでした。

「みんなの居場所は、私(僕)の居場所ではない、という強烈な孤独感」

子ども自身がどう思ったかは分かりませんが、親として、みんなが手に入れているものが自分(と息子たち)にはないことの孤独感は半端ないです。

「みんなの居場所」「すべての子の居場所」なんて主語が大きくなっているところに自分の居場所を見つけられない日なんて、ことさらに落ち込むわけです。

そういう理由で「居場所」という言葉を使うのがとっても苦しい私がいます。
(繰り返しになりますが便宜上使いっています…)

だからこそ、
居場所という箱としてあるのではなく、なんとなく出会った場所が、自分の居場所になれば、というのがとても理想的なのです。

積み木教室の子どもたちの居場所になり得ているか

教室には、積み木がやりたくてきている子もいれば、私に子供を託したいとありがたい言葉を下さる方もいらっしゃいます。
自分の事を聞こえ良く言うのはとても苦手ですが、誤解を恐れずに書くと、「私」という人間にお子様を預けてくれるというのは、積み木のカリキュラム以上に身が引き締まる思いなのです。

そういう子達の「居場所」になり得ているのか、本当にいつもいつも反芻しています。
そうして出会える子どもたち、お母さんたちが、愛しくてたまらないのです。

自分が、ただ「環境」として機能できている喜びを噛み締めています。

居場所の主体

居場所、寄り添い、という主体は、いつも「本人」の中にあって欲しいんです。支援者側のエゴで終わりたくない、だからこそ、自分は環境資源でありたい。

私とその子の関係性で出現する「場」を起点としたい。

そんな思いがずっとありました。
やっと文章にできました。


「何か役に立てたら」と思うことは普通のことです。でも自分がしてあげたいと思っている限りは、何も生み出さないのではないかという仮説が、自分の中で言語化できた気がしています(伝わったとはいってない…笑)

今でも、小中高の、不登校のお子さんや保護者のための「環境資源」になれたらと思うのですが、箱ではなく、何か、シンパシーのような関係性の中で、か細い糸が繋がるような出会いがあればと願っているのです。

そのために、箱じゃない、何か雑多な場所から生み出されるものが生まれないかと頭をぐるぐるしています。

それが私にとっての「居場所の正体」

出会うべくして出会う、
関係性の中に人同士の安寧を見出したい。

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