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伊勢信仰を支えた御師(おんし)+α     (2/3)

前回は長くなったので、今回はあっさり行きたいと思います。とはいえ、御師おし、おんしはなじみのない言葉なので、説明は必要でしょう。気長にお付き合いいただけたら、たいへん嬉しいです。


     歌川広重/宮川の渡しより





伊勢神宮とは

御師の話を進める前に、伊勢神宮について振り返ってみたいと思います。講師の岡田登先生の寄稿文の一部をご紹介します。

《 人々は何故、伊勢をめざすのか 》
  古代大倭やまと王権が、皇祖神として祭っていた天照大神(八咫やたのかがみ)を、第11代垂仁天皇の時(3世紀末)に、大倭国(奈良県)から「とこよの波、重浪帰しきなみよする国、傍国かたくに可怜うまし国」伊勢の五十鈴川からほとりに遷し、伊勢の大神宮の祭祀が始まります。(略)

 本来、伊勢の大神宮は、天皇が国民を代表し、神に幣物を捧げて、天下泰平.五穀豊穣.子孫繫栄を祈る私幣禁断(私事の祈りを禁ず)の場でしたが、平安時代末以降、神官の中級神職(権禰ごんねぎ)に始まる御師おんしにより、北海道南端の松前から九州の鹿児島まで、多くの人々に伊勢信仰が広がりました。(略)

 多くの人々が、伊勢を目指すのは、天照大神(太陽=光と熱)と豊受大神(食)に、日々の感謝を捧げるため、街道を歩き、心身の再生と癒しを求めていたものと思われます。(略)

Teatime vol.112より/放送大学見え学習センター発行

読んでいると、神宮に寄せる祈りが伝わってくるようです。


大山参り

御師おしという言葉に出会ったのは、10年くらい前に丹沢の大山に行った時です。大山神社に向かう参道を歩いていると、「御師の宿」という看板があちこちにかかっていて、何だろうと不思議でした。

そして、そんな看板のあるお店では食事もできて、大山名物のお豆腐を美味しくいただきました。江戸か明治くらいの古めかしい建物でした。ゆったりした畳敷きの大広間で、廊下がぐるりと回り和風でいいなぁと思いました。

とはいえ、室内には御師の説明書きなど見当たらず、疑問は解けませんでした。(恥ずかしながら、学校で習わない事には相当に無知です。)


御師とは

岡田先生の講義で、10年ぶりにこの謎が解けました。お札を持って家々を訪れる、かつてはとても身近な存在だったようです。

歴 史

御師とは御祈祷師の略で、通常「おし」ですが、伊勢では「おんし」と読みます。元は神官であり「大夫(だゆう)」と呼ばれました。(まぎらわしいですが、「たゆう」と読むと遊女の意味になります。)

鎌倉時代になり伊勢神宮で武家の私祈祷が行われるようになり、御師の活動が活発になります。戦勝祈願や武運長久を祈るために、神人(権禰宜)から神役人、商工人、地下人まで御師の担い手は増えていきました。身分は神職と庶民の中間とされ、さらに職業化し恩師の株の売買もされたそうです。

そして、岡田先生の資料によると、全国には 伊勢神宮以外にも御師のいた社寺は約30社ほどもあります。稲荷大社(京都)、石清水八幡宮(京都)、江の島神社(神奈川)、大山神社(神奈川)、尾張津島神社(愛知)、春日大社(奈良)、高野山(和歌山)、信濃善光寺(長野)、富士浅間神社(静岡)、三嶋大社(静岡)、身延山久遠寺(山梨)、以上 抜き書き 。

役 割

御師は御祈祷を上げるだけではありません。大まかに言って二つの役割を果たしていたようです。一つは、参拝や宿泊の世話をするツアーコンダクターのような役割。下図は㈱大林組により復元された御師の屋敷です。豆粒のような人に比べ驚くほど大きな建物です。さぞかし大勢の参拝客が泊まっていたのでしょう。このような屋敷には神楽殿も用意されていました。

      屋敷の間口55m×奥行130m  三日市太夫次郎邸復元図/(株)大林組

そして、伊勢神宮の御師の家は18世紀後半に最大になり900軒ほどあり、1867年の江戸幕府崩壊の年は730軒ほどにでした。内宮.外宮の周りには御師の宿坊がひしめき合っていたのでしょう。

もう一つの役割は、全国津々浦々まで出かけ伊勢神宮の神符(神社で出すお護札)を配り参宮を勧める事でした。御師が「師」となり参詣者を「檀那」とする関係が、武士から始まりやがて庶民にも広がりました。そして、御師は年に一度は供を連れ北海道南端松前藩から九州まで、江戸時代の人口の8~9割にものぼる檀家にお札を配って歩きました。檀家からは初穂料を受け取り、その額に応じて伊勢暦、伊勢白粉、万金丹(薬)、鰹節、帯などをお土産にしたそうです。

そして、自分の檀家が参宮する時は、自分の宿坊に泊めお世話するという仕組みでした。伊勢神宮の賑わいは、御師たちの地道できめ細かい努力によるところが大きいと思われます。


御師の廃止

しかし、明治には国家神道への意向だったのか、状況が変わりました。明治4年(1871年)5月に世襲神職の廃止、同年7月には御師の廃止が、政府により定められました。

御師の立派な家屋などは解体され材木として、家財道具は骨董商や古道具屋に、記録文書などは古紙回収業者に売られてしまったそうです。伊勢の御師たちは、平民として様々な職業に就きましたが、料理屋や旅館を営む人もいたようです。

名残り

御師の活動は、今もわずかに残っているようです。大山神社では、大山講の人々や檀家を巡る御師の映像があります。大山詣り―御師が育んだ大山信仰―【記録編】 私がお豆腐を食べたお店も撮影されていました。)30分ほどの動画ですが、具体的で分かりやすくお勧めです。

また、富士山講の御師であった旧外川住宅や小佐野住宅(ともに山梨県富士吉田町)は、国の重要文化財に指定され見学もできます。




あとがき

多少の物見遊山があったとしても、江戸以前の人々は信じられないほど熱心に社寺参詣を行っていたようです。また、全国を歩き参詣を勧めていた御師の存在には驚きました。聞いたこともありません。(時代劇でも一度も見たことないような…)わずか150年前まで、誰でも御師を知っていました。

宗教というと特殊な感じがしますが、人間は弱いので願望や不安.苦しみを受け止めてくれる信仰は大切なのかもしれないと、記事を書きながら改めて思いました。今は若い人たちが御朱印を集めたりお伊勢参りをしたりと古風だなと感じていましたが、気づいてみれば先祖返りなのかもしれませんね。

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