見出し画像

ペースを落とす、くねくねしていく

夏頃から参加させてもらってるメッシュワークゼミの座談会がさっき終わった。

ゼミメンバー、インターンのかた、新聞記者のかたとで、ゼミでの学びについて今までじっくりと時間を取って話してこなかったようなことについて対話。飛び石のように話が連なっていき、とってもおもしろかった。


はじめに話し出すきっかけになったのは、「ここまでゼミやってきて、どんなところに混乱してますか?」という問い。

学び進めるにつれて収束していくのが多くの学びのパターンだけど、このゼミ(≒人類学?)はやればやるほど広がっていってわけがわからなくなる、というゼミ生仲間。

めっちゃわかる!といいたいところやけど、まだ自分はそこまで記録を集められていないので、その感覚を味わえていない。記録魔になってる仲間のことをすごいなあと。


自分含めて4人いたゼミ生が揃って「これが大変だ!」と口にしていたのは、出来事を『ただ、受け取る』ということ。

評価、ラベリング、勝手な解釈をせずに、目の前で起こる出来事やはされる言葉を『ただ、受け取る』。これがホントにむずかしい。意識して日々を過ごせば過ごすほど、いかに自分が「勝手にわかったつもり」でいたものか、と頭を抱えてしまいたくなる。

もっとむずかしいことがある。

それは、『ただ、受け取る』をやりつつも、『自分のモノの見方 / フィルター』を大切にする、ということ。なんというアンビバレンス!

それってどうやって共存しうるの?と考えながら話を聞いてたんだけど、今の自分の感覚はこんな感じかなあ(下)

まず、普段ぼーっと過ごしていると、目の前の出来事を「わかったつもり」にして受け流してしまっている(ということにようやく気づけた)。

あるいは、あくせく過ごしていると「わかったつもり」にしなきゃ生きていけない。

「わかったつもり」の反対側にあるのが、『ただ、受け取る』だと思う。

受け取るっていうのは、言い換えると「ん?と立ち止まって考える」ということ。

そうした「ん?」と立ち止まったもののなかから、「自分のアンテナ 」に引っかかったものに目を向ける。
そして「わかりたい!』と思って踏み込み、関わっていく。それが人類学的な態度ってことなのではないかなあと今のところ思ってる。(となると、アンテナをいかに育てるか、がめっちゃ大事だなあ。好奇心。)

つまり「自分のフィルターを通して出来事を受け取る」のではなくて、「一旦、とりあえず受け取る。そのあとに、自分のフィルターを通す」っていうのが1つのあり方なんじゃないかなって。感覚的で伝わりづらいけど。

ただ、そもそも出来事を見聞きしている時点で「自分」っていう身体を通して体感しているので、「まっさらぴんのノーフィルター」で物事を見るってことは不可能なんやけどね。

うーん、やっぱりアンビバレンス!


座談会の最後に
・メッシュワークでの学びの「遠回り」さ
・学びが仕事にどう生きているか
について記者さんから質問いただいて、ゼミ生一同あーだこーだ話したのがおもしろかった。

観察する力や技法が身についたり、学びのプロセスを通じて今までよりも思慮深くなれたことが、同僚との関わりの中で生きている、とか。

一直線に進んでいくこと, 逆算して進めていくことの限界を感じているので、遠回りが逆にいいんだ、とか、いろいろ。

おもろい。


わいの場合は、「仕事にいかしてやろう!」という目的を強くもってゼミに参加したわけではなくて。

そうした「遠回り」とか「くねくね」な学びやプロセスを体験してみたい!という欲求と、人類学への純粋な好奇心とが応募の主な理由だったのです。

でもここで学んでみて、このプロセスって、探究的な学びづくりの本質(とかいっちゃったり)だとしみじみ感じているし、「その人が世界をどういうふうに見ているか」をわかろうとすることって、いろんな立場の人と共創のきっかけをつくっていくコーディネーターにめちゃくちゃ大事な態度だと思ったりしていて。

なので、ここでの学びは必ず自分の仕事に還っている、あるいはこれから還ってくる気がしている。

けれども、それはあくまでも「結果的に」そうなっているだけであって。
「仕事に生かす/生きる云々」以前に、そうした態度を携えて他者と関わっていくことの積み重ねや、それを通じて醸成されていく思慮深さ・想像力ってのは、それだけで人生をいいものにしてくれるんじゃないかなという気がしてる。知らんけど。


最近バタバタ・あくせく生きていて、いろんなものを受け流して過ごしていたなぁというのが今日の気づき。

あしたから、もう少しペースを落としてみよう。


フィールドワークのペースは上げなきゃだいぶマズイけど。ぎゃーーーーーー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?