あだ名が、ない!
中学校に入りたての春。わたしは斜め前に座る男子に夢中になった。
「『ベイ』って呼んでください」
その自己紹介の瞬間から彼が気になって仕方ない。太めの眉、くりくりと大きな目、それをさらに印象付けるくっきりとした二重。
「どうして『ベイ』っていうの?」
「わかんないんだ」
どぎゅん。
「わかんない」とはにかむ顔に、完全にやられた。別の小学校から上がってきた彼は、顔馴染みの男子と違ってカラスのようにギャアギャア騒がない。ミステリアスな雰囲気に『ベイ』のあだ名は素晴らしく似合う。理由を知らないままあだ名を受け入れる器の広さでも、他の男子から一歩リードしていた。
セーラー服と、科目ごとに変わる先生と、体験入部と、ベイ。
小学校から激変したルールにしがみつくような春から初夏にかけて、黒板を見るフリをしてベイにそっと視線を向けるのは、安全でささやかな楽しみだった。
もし彼が「渡辺なので『ナベ』です」と言っていたら、教室の後ろから彼を見つめることも無かっただろう。あだ名は本名からかけ離れていて、独特で、奇妙で、意味不明なほど人を魅了する。わたしはベイにも、『ベイ』の名にも憧れた。遠い遠い国に生まれたらそんな名前だったかもね、なんて言いたくなるようなあだ名を貰える人間になりたかった。
高校で吹奏楽部に入ると、念願のあだ名チャンスがやってきた。
「二年生は、自分のパートの一年生にあだ名をつけること」
そんな伝統に従い、他の一年生と並んであだ名を頂戴したのだ。小鳥のような『チコ』の名は可愛すぎて照れくさかったけれど、ほどよくあだ名っぽい響きがある。ちゃんと理由もある。これ以上は望めない理想のあだ名だった。
新入生同士も、本名をすっ飛ばして担当楽器とあだ名のセットで互いを覚えていく。教室の外から大声で「チコ!」と呼ばれ、クラスの友人に「あれ、部活でのあだ名でさ〜」と言い訳しながら席を外すのは最高に気持ちがよかった。
なのに。なのにだ。一年の秋ごろからわたしのあだ名は急速にその存在感を失っていった。クラスも部活も同じ友人が「教室であだ名とか恥ずいし」と言いながらわたしを名字で呼び始め、同級生がそれに乗っかり、上級生に広がる。そしてついには、あだ名をつけた先輩までもが名字でわたしを呼び始めたのだ。 先輩!? 先輩がくれた名前じゃないですか!
「お前ら、いつも変な名前で呼びあってるだろ。なんでお前だけ名字なんだ」
顧問に聞かれても、さぁ……としか言えない。わたしだって知りたい、あだ名で呼ばれる方法を。変わった名字で、それ自体にあだ名のような響きがあったのも良くなかったかもしれない。
『チコ』の名は、あだ名というよりブームに近い形で萎むように消えた。呼ばれないあだ名を名乗るのもむなしく、開き直って新一年生には名字で自己紹介をする。
あだ名で呼ばれたい願望が見透かされるのは、名字で呼ばれる以上に恥ずかしく、耐え難い。もちろん新一年生には、我々二年生からあだ名を進呈した。
「伝統だからね」。まったく説得力はなかったが。
大人になってあだ名なんて関係ないと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。先日、弊社には二人目の『佐々木』さんが入社した。
「佐々木さん!『佐々木』が被っちゃってるんで、社内で使えるあだ名ってあります?」
自己紹介したての佐々木さんにマネージャーが無茶振りをする。
いきなりは無理でしょ。しかも自分からなんて……。
そうやっていたたまれない気持ちでいると、佐々木さんは慣れた様子で「あ、じゃあ『チャッキー』でお願いします」と返事をした。
「チャッキー!ようこそ!」
「チャッキ〜」
部内のチャットが勢いよく流れ出す。恐ろしい光景だった。
メジャーな名字を持つ彼らは、子どもの頃から数々のあだ名をつけられてきたのだ。過去のあだ名年表から一つや二つ、使い回せるお気に入りがあるのだろう。
じゃあ自分は? 旧姓も今の名字もマイナーで、貴重なあだ名も自然消滅させ、名乗れるあだ名がない。あだ名をつけてくれる人も、もういない。三十代になって、とっくに「過去につけられたあだ名」を使い回すステージに突入したのだ。手遅れだ。
「〇〇さんの名前、被ってるんですよね。 今まで呼ばれてきたあだ名ってないですか?」
転職先で質問され、固まる自分を想像する。
あっ、この人、あだ名が無いんだ……。その空気だけで初日の職場から逃げ出したくなるだろう。もっと酷い場合は、パニックになってあだ名を即興してしまうかもしれない。
「あ、えっと、〇〇とかですかね……」
「え? なんて?」
「××……。いや、なんでも無いです」
考えただけで体調が悪くなりそうだ。
今の会社にいる限りは、わたしは自分の名前を堂々と使う権利がある(後から入った人があだ名を使うのが暗黙のルールだ)。もはや転職するのが恐ろしい。
〇〇(本名)の座はわたしのものだ。絶対に譲らない。あだ名のある人間が、譲れ。