「どうぶつえん in TOKAS 2021」Day 2

「どうぶつえん in TOKAS 2021」Day 2
https://www.youtube.com/watch?v=lGiC_pqX_2o&feature=youtu.be

当日、発表されるパフォーマンスをオンライン上で視聴し、文章を書いていきます。1日目に引き続き、なるべくリアルタイムで更新できるようにがんばります。


2日目 オープニング
Aokidによる、「どうぶつえん」の概要説明、本日のタイムスケジュールの説明からスタート。

12:00~14:00 三本きのこの休憩舎
鈴木健太
荒悠平
時里充

鈴木健太と荒悠平による「ない対談集をつくる」
内容はおおよそ、「ぼそぼそと喋る」といったかんじ。お見合いのようにお互い、なんと呼ぶかを確認する。
ホワイトボードにキーワードが記述されていく。荒はキーワードを目次に並べることができる、という理由で対談集が好き、ということから、そのようにして話しながら今日の話の目次を作っていく。

大量生産されたぬいぐるみが、IKEAではバーっとディスプレイされている。愛着がわくか疑問だったけれど、それでもうちの子になる。 
お互いにわかっていない、愛着。個人的な体験としての愛着。

ウィリアム・サローヤン『パパ・ユーアクレイジー』(伊丹十三訳)
人称が省略されずに、そのまま英語を日本語に訳している。
I love you なら、「愛している」ではなく「私はあなたを愛している」のように。それが、とても、よい、とのこと。

二人とも、身のある話はしたくない、というなかで、身のある話になってきたところで、流れを変えるために歌うことに。自分が最初に歌うことになるとは思っていなかった、としながらも荒から弾き語り。
荒の本業はダンサー、としながらいくつかの曲の候補を挙げて鈴木がそのなかから「ウーパールーパー」を選ぶ。
その後、鈴木も一曲披露。

時里が用意したWebページ( https://hub.link/GTPrduG​ではヴァーチャル空間に巨大なノートパソコンがあり、そこには会場の様子を中心に、どうぶつえん関連のページが映し出されている。

野本直輝も、オンラインから、会場で行われる二人のギターセッションに打楽器として参加。


筆者も、あえて、「身のある話はしない」という流れに乗って書くのならば、ここで話された内容については深堀はしない。むしろ、この時間は、話している内容、音楽の内容以上に、「その時間のすぎ方」が大事なのではないか。

荒さんの距離の取り方は、たぶん、遠目なのだと思う。言わなくてもよいことは言わない、相手が開かない情報には踏み込まない。そのようにしてやや遠目から、間合いをはかる、縮める、というよりも気づいたらそこにいる、というスタイルのように思える。
一方で鈴木さんも、思いっきりインファイトをする、というスタイルではない。ぬるっとしたジャブの応酬。そうしたやりとり。
どういう脈絡なのか忘れてしまうような流れからはじまる音楽セッション。

徐々に縮まっているのか、縮まっていないのかわからない距離感。
初対面なのに家で話しているような違和感と、日常にあるような時間の過ごされ方があり、それを時里さんのWebページ、YoutubeのLIVE配信、会場という場を含めて「見られている」という違和感の連鎖こそが、この時間の面白さなのだと思う。

そんな風に書いていたら、荒が鈴木を肩車する、という親子のような強烈な身体的接触があって、やっぱり「距離感の収縮」を実感する。それは「収縮の意味」を度外視した「距離感の収縮があることそれ自体」の表出を実感することができるのが、小気味好い。

14:00~16:00 陸上競技場
うらあやか
山本悠
松本奈々子

うらあやか 「音接触とグッドルッキング」
ZOOMを使ったパフォーマンス。
触らないなかで触れる要素として、外にある音を使用を身にまとうような感じで、ZOOMの人に聞かせたり、自分のためにかける音楽を香水のように身にまとうようにして、画面のなかをデコレーションする。プリクラの落書きや、自撮りの画像編集のように試しながら1時間ほどを過ごす。

着飾る、ということの解体と再構成。
自分の画面、という部屋を改変していく。ある人は部屋にある物やぬいぐるみを使って、ある人はZOOMの背景画像を使って、ある人は自身の顔を映し出して、ある人は街中に繰り出して。それが配信場では統合的に一つの画面に映し出される。だいたい、9つの異なる場所からの映像が一つの画面に。監視カメラのように、だけれど、そこに映っている人々は監視と言うよりも自らの意思によって、身体を、あるいは映像を見られようと、聞かれようとしている。
そして、それは画面を通して行われている。だから、身体の拡張でもあって(マクルーハンみたいだ)、同時にそれは身体のありかの再思考でもある。行き場や目的、というよりも、置かれてある、そして置かれに行く人々。画面という自分のありかた。電子的な自分の置きどころ。


山本悠
まず、画用紙でビールを作って、乾杯。
そのあとは「馬をめちゃくちゃセックスさせて最強の競走馬を作る。」

画用紙を来場者に配っていく。
短いテープをいろいろなところにくっつけていく。

馬の体はパイプの組み合わせでできている、と言いながら、画用紙とテープを使ってパイプ状にした同じ太さのものを3本作る。
4本目はその3本が入るほど太いパイプを作る。
5本目は細いパイプを作る。それをさらに半分に切って細く短いパイプを作る。
最初に作ったパイプ2本は真ん中に切り込みを入れて、折る。これが馬の脚になる、と言う。折れたら太いパイプに2か所切り込みを入れて、そこに足を差し込む。これで4本脚になって立つ。
残りは首としっぽ。首は足と同じ要領で作り、これも差し込む。しっぽも適当につくって、馬が完成。
それらを既定の場所に集めて、各自、交配(パーツの交換)を行う。
そして、できた競走馬を展示したい、とのこと。

松本奈々子
「ワルツを踊る」
音楽がない状態で、左腕を左側に伸ばし、右腕は肘を左側に曲げた状態にして、軸足を中心にまわりながら、会場をまわっていく。
その後、ワルツの起源や概要の説明をしているが、配信上ではその説明がうまく聴き取れない。
「河童」に関する朗読が流れながら、もう一度さきほどと同じようにワルツを踊る。読み手の声の影響なのか、軽やかな動きなのにも関わらずどこか重みと哀愁を感じる。いや、しかし、川をゆらゆらと遊泳する河童――字義どおりの意味での河童の川流れ――のようにも見えないこともない。

ああ、これは初日にみた、Aokidの「硬さのある滑らかな動き」と相反する、「軽やかで滑らかな重さ」だ。

16:00~17:00 渋谷門
荻原永璃

本来は演劇の人間だけれど、なかなか難しい状況、ということで今回の発表に。
タイトルが「渋谷門」ということで、GoogleMap上で、渋谷門に。
今日は「待つ」という太宰治の文章を使い、2019年の春先に上演した演劇、さらにその1~2週間後に行われた「どうぶつえん」でも少しかたちをかえて発表した作品を、もう一度やってみる、とのこと。
GoogleMap上で以前その作品を上演した、代々木公園の場所に行く。
その前は、墨田川沿いにある、かわてらす、という場所で上演した。人通りがあり、ベンチがあって、川のある場所が上演場所には適している、と言う。ただ、同じ芝居でも場所をかえて、かたちをかえて、できると考えていた。
TOKASでもできたらよい、と思っていたけれど、現在では難しいので、べつのかたちを模索した。

公演、稽古をすることは難しいが、いつか上演するために、考え、作りづけている。そのために、やる場所を探している。そのために、良いベンチを求めている。では、良いベンチとはなにか。
発表者は、青空文庫にある、太宰の『待つ』の冒頭を引用し読み上げる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2317_13904.html

現在、ベンチは少なくなっているが、中野駅前にはちょうどよいベンチがある、と言いながら、よさげなベンチを会場の人々に聴き、GoogleMap上で探していく。(マップリスト  https://www.google.co.jp/maps/@38.3319484,70.9794279,3z/data=!3m1!4b1!4m3!11m2!2sXC-ume2VsSmwZRl2V0JA2tNfz7SAtg!3e3

そして、演劇の音声のみを上演する。帰り道に聴きながら、などがおすすめだそう。URLはこちら。( https://drive.google.com/file/d/1pYua-dGMIE3TjjIlB9ORcBhpHeUzy612/view?usp=sharing

なるほど、上演を「聴きながら見る」というのは、確かに新しい在り方だ。ポータブルに、そして、デジタルとアナログの間に自分を置きながら、自らの世界観をつくりながら、現実に投影しながら、上演することができる。ARとはまた違った、すこしアナログなリアリティは、一層情緒的にも成り得る。


17:00〜19:00 桜の園
村上裕
猫道
カズマ・グレン
米澤一平

村上裕、猫道

村上はサンバイザーをかぶって、フェイスシールド、首にタオルをかけて、白地のマスクに赤く唇を描いているようなマスクをして、マスクの話、病気の話、病気の話というように、村上はどんどん、問題提起を行っていく。なかにはベルリンの壁が壊れた時に世界がもっと一つになると思った、であるとか、今の社会が正常なのか病気なのか、という社会的な問題も。それに対して猫道は相槌を打ちながら返していく。…ああ、いや、筆者としては、すべてが病気であって正常なんてありえない、という立場なのだけれど。

猫道は、「どうぶつえんに、どうぶつを見に行こう」と、大きなエコーをかけて歌う。そしてメンバーの紹介、村上とオンラインから参加するカズマ・グレンを紹介する。

「不景気に就職活動をする男(ヒト科)」と自らを自嘲的に紹介しながら作品に入っていく。ノリが良くて痛快なラップ、そして合間に挟まるストーリーの語り。
「通勤電車で詩を書く会社員(ヒト科)」と、また自嘲気味に自らを紹介しながら詩を読み始める。しかし、詩を「朗読」するというようなものよりも、やはり小気味のよいラップ調で。最初に鳴り響くは山手線のアナウンス、自らが書いた詩を読んでいく。壁やカテゴリー、といった境界線の問題を取り上げながら、次は「壁を殴って骨折する男(ヒト科)」。今度は音楽が鳴りながら歌う。果たして、その「壁」は先の村上の話からの流れ、なのだろうか。これを知っていて、雑談気味にあの話はされたのだろうか。それとも、偶然?それはただ視聴している筆者にはわからないけれど、どちらにしても、その関連性がリズムに乗って気持ちが良い。
そしてその流れのまま、猫道は人前でパフォーマンスをするのが後ろめたい世界になった今の世界を、2012年にあった「NO DANCING」という張り紙が張り巡らされたことを紹介し、「踊ってはいけない国で踊る男(ヒト科)」として、「踊りたい!」という欲望をむき出しのままZOOM上で檻に閉じ込められた、グレンカズマが紹介される。
これは風営法上の問題で、クラブで踊ってはならないという理由で様々なクラブが摘発されたことが背景にある。そして、そこではどこまでが「踊り」なのかが問題になった。座っている人間が立つ、ストレッチする、それすらもクラブでは時として踊りとしてみなされた。トイレに立つことすらも許されない、ということもあったのかもしれない。そうしたことを背景にしながらグレンカズマは踊っていないのか踊っているのか、という際どい動きを、そしてそこから解放されながらも、どこか束縛――それは社会的で精神的な――を感じさせながらも檻のなかで踊る。キマッたような顔をしながら、その束縛を振りほどく、というよりも、ありながらも関係がなく乗り越えるというよりも束縛のなかだからこそ出てきてしまう、禁止されているから余計にしたくなるという欲望を隠そうとしないままに動きまくる。

今度は米澤一平のタップダンスのリズムにあわせた音楽とフリースタイル。タップのタカタカタン!音が心地よい。上半身だけをみると、あまり動いていないように見えるのに、打撃音の連続はすさまじい。そこに村上が奏でるキーボードで音が重なっていく。お互いを見あう、というようなことをしない。互いに自らが鳴らす音、鳴らされた音に集中するように。音と音の対話。会場に鳴り響くのだから見る必要もない、音同士が混ざり合う。村上が歌い始める。猫道がエコーがかったコーラスを入れる。音量が上がるにつれてタップの音も大きくなっていく。負けないように、まわりにあわせて、その素材のなかで存在がより際立つように。猫道が足元の足音を、と言いながらラップを刻む。村上は新しいメロディをキーボードで奏でる。
Music、というよりも、「音楽」。鳴らしている当人たちはもちろんなのかもしれないけれど、音と音同士が楽しみあう。村上がギターを、米澤がエフェクターを手に取りいじりながら、音と音の楽しみは広がっていく。後ろの映像ではグレンカズマが音に乗せられて踊っているのがかすかに見える。それはそうだ、「踊りたい男」なのだから。この音と音の重なりはまさしく踊りを誘発するのだろう。本能的な欲求としての身体の動き。歌声は、音は、徐々に叫びのように、鳴き声のようになっていく。

ああ、これもまた、どうぶつえんだ。

一区切りついて、米澤はトランポリンの上でリズムをとる、音は鳴らない。板に飛び乗って音を鳴らす。もう一度トランポリンの上でリズムをとる、音は鳴らない。猫道がストーリーをリズムよく語り始める。そのストーリーにあわせて米澤は音を鳴らす。ムードを高めるための音楽を村上が奏でる。米澤は頭になにかを乗せて、落とさないようにそーっと歩いている。その間も猫道の聴かせる語り。村上の語りにあわせた合わないギターのチューニング。今度は幻想的な女性の歌声。テレビの砂ら荒らしの音が混ざる。子供の声のような、加工された音声も混ざる。今度はバグのように、音と音が重なり合って楽しみあう、というよりもノイズになっていく。音が重なりに重なりを重ねて歪んで潰れて塊になった先、最後に残ったのは皮肉にもどこまでも人間的な「言葉」。

2021年1月16日
根岸貴哉

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