「どうぶつえん in TOKAS 2021」Day 3

いよいよ最終日。最後までがんばります。
オンライン上で視聴したものを、書いていきます。
https://www.youtube.com/watch?v=BWJMdGhhFg0


本日もAokidによる「どうぶつえん」の概要説明からスタート。

12:00~14:00 パノラマ広場
桑原史香(オンライン)
朴建雄
武久絵里(オンライン)
しば田ゆき

しば田ゆきがコーヒーを淹れる。その間に、朴建雄が雑談をはさむ、というスタイル。

TOKASの建物が、2011年以前に撮影された写真を応募している、という話。しば田はコーヒー豆を銀色の食器に一度うつしてから、豆を挽く機械へと投入。淹れたとき、ではなく、挽いたときが一番香りがたつ、とのこと。マスクをしていても、会場内ではその匂いがよくわかるらしい(筆者はオンラインのためまったくわからない)。
サーバーの上にドリッパーを置き、そこに挽いた豆をいれて、お湯をゆっくりとまわしながらかけていく。気づけばサーバーには大量のコーヒー。マグカップにうつされる。
本来は、来場者に飲んでもらう予定だったけれど、できないとしたうえで、今日淹れたコーヒーは、コロンビア産の豆で、農園の話をしていく。誰が作ったのかわかる豆で、コロンビアで賞をとるなど、よい豆である、との説明。
コーヒーは高地でしかできない。

焙煎に関してはやや深煎り。通常よりも多めの豆をあらびきにすることによって、酸味と、甘さ、香りのバランスをとり、チョコレートのフレーバーがすると言う。

朴は、こうした説明がお店でもなされるのかを聞いて、しば田は聞かれたら言う、とのこと。その後はコーヒーを淹れる器材の話、解説が行われる。

できることなら筆者もコーヒー(というかカフェオレ)を買いに行きたいけれども、見ながら書き続けないといけないから、ぐっと我慢。

そして味を語る共通言語の話に。たしかに味を語るのは難しい。目の前にあり続ける、というわけでもなく、視覚のような共通認識を得られにくい。もちろん、視覚にしたって感覚なのだから、そこにはズレが生じる。だけれど、「目の前にある、あり続ける」ということによって、共通認識があるものとして語られる。
同じものを食べて、そこには共通の感覚が得られているのかどうかが、わからない、ということもあって、味覚(あるいは触覚)は語りにくい。これは美学の、そして批評の根源的なテーマでもある。美を、対象を、感覚を言語に翻訳して語るということはある意味で滑稽だ。目の前にある、ただそれだけでいいじゃないか、という人もいるのだから。それでも収まらない、言語化する、語りたい、という欲求はある意味で、きっと昨日の最後にあった「踊りたい」という身体的な欲望とそこまでの差はないのだろうとも思う。

オンライン上から、「好きな食べ物は何ですか?」という質問が飛ぶ。
朴は「最近はりんご」、しば田は「チョコレート」と答える。
味覚の話からこうした嗜好の問題にうつるのは、(質問者は意図していないとは思うのだけれども)示唆的だ。


会場では睡眠の話に。どのくらい寝るのか、寝ることができるのは才能である、さらには寝ることに対する罪悪感、などなどをしていると、オンライン上から「お元気でしょうか」という質問が桑原史香によって唐突になされる。「静かに、あまり、お元気じゃないです」。


「今は何時ですか、朴さん」
「今日は何日ですか、朴さん」
朴は丁寧に答える。
しりとりの形式で単語、文が連なって読まれる。子供が読んでいるような感じで、桑原史香は読み上げていく。「チュールっておいしいの?さようなら」と言って読み上げも唐突に終わる。そして会場内では雑談がはじまるが、しかしまた唐突に桑原が鼻歌を歌う。それをBGMのようにしながら雑談は続く。

しば田と朴の雑談は、言語の抽象度と、具体性の話に。
抽象的にして、ゆとりをもたせるのか。それとも、どこまでも無限対抗するように具体化していくのか。
「青」と言ったらだいたいが青になってしまうような力が言語にはある。確かにそうだ。
筆者自身も、今回の三日間の文章にタイトルを明確にはつけていない。これは「記述」ではある。しかし、「記録」なのか?いや、「記録」ではない。しかし「記録」の要素がない、というわけでもない。それではこれは「批評」か?いいや、「批評」としての要素はあるけれども、「批評」ではない。このように書いているとまるで寺山修司のようだけれども、彼の言葉少し借りるなら「ぼくは寺山修司ではない」。
この文章はたしかに文章ではあって、記述ではあって、記録的な要素があって、そして批評的な要素もあるけれども、「ぼく自身が決めかねている」とも言うことができる。それによって、他者は、この文章を、どう判断するのだろうか。

会場ではその後もトークが続き、しば田はもう一度コーヒーを淹れはじめる。今回淹れたコーヒーの説明をする。
さきほど淹れたのは、1杯140円。今淹れたのは一杯440円。なぜか、というと品種で、ゲイシャ種という希少価値が高い、華やかな香りを持つものを使用したとのこと。
別会場にうつった、朴がコーヒーを試飲し、コメントをする。フローラルな香りがする、としば田は説明するけど、朴は「これがフローラルな香りなんだ」と、若干齟齬が生じる。それは言語によるものなのか、感覚によるものなのかは、わからない。しば田は「味の説明に正解はない」と言う。わからなさによって、正解のなさによって、察しあうということが起きる。

14:00~16:30 オリーブ広場
長谷川新と飯岡陸と黑田菜月
木内俊克と長谷川新
豊島彩花と川上元哉

長谷川新による「ラジオ放送」生配信。
ゲストに
黑田菜月
https://mixch.tv/u/14968408/live?fbclid=IwAR1o42oyEy_J-RxGxs84XnbZnbmKd5lYWQeLxlibLaZgYzoiHZy9P5veDNA

でも放送。

動物園に最近ハマった、というゲストによる動物園という場所の問題、生き物を人々がどう見ているのか、という話を長谷川は聞き出していく。そのなかで、模索中の動物園が良い、として教育や博物館的な価値ではなく、お金はないけど試行錯誤のなかで、動物をどうしていく、見せていくか、という部分に惹かれる、と黒田は語る。たとえば、富山にあるファミリーパークは、里山を押し出している。植物園と動物園が一緒になっていて、なかなか動物に会わない動物園。しかも繰り返し同じ動物を見る。あそこにも、ここにもいる、のように。
見世物としての動物は、展示すると美術品も痛む、ということにも似ている。しかし見せなければ良いのか、というとそれはまた違う。そこにさらに生命という要素もかかる、と長谷川。
ちなみに、埼玉県のこども自然動物園は、動物園の入り口としてはおススメ。波のあるプールでペンギンが見れたりする、とのこと。

続いてのゲストはキュレーターの飯岡陸。飯岡は1日目に登場した阪中のアトピーに関する作品について語ったあと、千葉松戸にある長谷川が関わっている、アートインレジデンス、パラダイス・エアの活動についてたずねる。そこでは、審査の難しさがあると言う。審査をする側に立つ二人によって、審査の権威性、をどう引き受けるか、ということが語られるが、それは全力で審査する以外にない、という結論に。

最後に大和田俊がゲストとして登場。
生年月日のイメージからその人を語っていく。ある意味で、深夜ラジオのような時間。必ずしも論理的ではない、本人のなかにあるイメージで数字と人物像が語られていく。

続いて木内俊克と長谷川新によるトーク。
木内はもともと建築や空間設計をしている。またWhenever Wherever Festival の開催などをしている。これは同時進行で色々なパフォーマンスが、同じ会場内においてなされる、というもの。
そして場がどう出来上がるのか、ということについて、キュレーターの立場である長谷川と話していくことに。

長谷川は「クロニクル、クロニクル!」というのをやっている。これは、まったく同じ展覧会を2回やる、という試みだった。( http://www.chronicle-chronicle.jp
展覧会場になった場所はもともとは名村造船場。
今もそうだけれど、アートだけでご飯を食べれている人は少ない。
マネキンはつくるのがたいへん。
マネキンを作る、というのは彫刻家が食うためにやっていた。抽象彫刻、インスタレーションがその一方にある。食うために模型彫刻を作って、展覧会では「謎のオブジェクト」を出す。食うための仕事で低いもの、恥ずかしいもの、言えない、気後れ、のようになる。長谷川も当時、キュレータ―だけでは食べれないから別の仕事をする。食うための仕事と本当にやりたい表現があり、それらが二つあるというモデルがいいのだろうか、と思った。とくにマネキンに関しては、彫刻家はとてもがんばる。マネキンには制約がありながらも理想な人体を作っていく。それを双方良い、と言えないだろうか、ということがコンセプトにあった、と長谷川は語る。

搬入や搬出、という裏方的な時間や場所も含めて、全体を記録する、ということで展示化しようとした、という部分もある、と木内は補足する。

長谷川はそれに対して、搬出や搬入なども結構な労働で、そこにもフォーカスを当てたかった、と言う。それを展覧会でやれないかという考えもあった、と言う。今では少し変わって、見せないプライドのようなものもあり、その兼ね合いは常にある、という考えにもなってきた。しかし当時は、すべてを見せようとした、と述べる。

そのなかで、想定していたこと、想定外だったこと、2回目に起きたことを聞きたい、と木内。

長谷川は、それに対して、生きているアーティストと亡くなってしまったアーティストがいて、種々様々な理由で同じものを出さない。同じものを出してくれ、と言っても、アーティストのプライド、あるいは売れてしまった、ということなどもあって新作を出してくる。同じことを繰り返そうとする不自然さがあった。展覧会の背後にある搬出や搬入が大事なのはもちろんそうなのだけれど、それをするとたとえばアーティストの生活のように、いくらでも広がってしまう。だから、展覧会には、そうした無限に広がる欲望を終わらす、断ち切ることが大事でもある、と長谷川は強調する。――切断の哲学だ、と思う。

時間の制限があって、語れなかったこととして、木内は「インプロビゼーションとシステム」、「出来事と反復」、「フェスト日常」、「エージェントとネットワーク」、「『ふれる』と『さわる』」、「『口』の形成」、「私の属性に山を貸し与える」などを提出して、トークは終了。


豊島彩花 川上元哉 『2+?』
豊島は薄い、金網のようなものを持って会場内を歩く。
他方で川上は、YouTubeのチャット欄に文章を投稿していく。それはコンセプトであったり、ダンサーに対する指示であったりする。
たとえば、「2人の人間の身体と身体で様々な部分をかたどる」、「金網にかたどられた身体の形状をほぐして、再びまっすぐにする。その際、金網はまっすぐ伸ばそうとしても縮んだり伸びたりしていた形を保とうとするため形状や長さが、扱う前と後とで微妙に変わる」などと投稿されている。

それをダンスにおけるイントロ(音楽はない)のような場面において川上は投稿し、のちに楽屋から川上があらわれる。そして、川上が出した指示のもと、金網を中心にしたパフォーマンスははじまる。

コンセプトがおもしろい。チャットでの指示、あとからの登場というのもスタイリッシュだ。

川上が登場した後、二人は金網を隔てて複雑に絡み合いながら、金網は変形していく。時として二人は離れて別の動きをする。また時として、豊島が川上を金網で覆って型をとろうとする。もちろんそれは厳密にヒト型にはならない。今度はグネグネになった金網を二人で引き延ばす。床に置いて寝っ転がったり、叩いたり押したりしながら、なるべくもとあったような平らな金網になるようにしていく。それをさらに、ロール状にして、ポールに通して、二つのカラーコーンの間に、金網が通されたポールを設置して、パフォーマンスは終了。残ったその金網は、ケバブのような、骨付き肉のような「残骸」だ。

身体もまた動きによって変形させ、そこに絡んだ金網も変形し、しかし身体も、そして金網も、元通りに「近づける」ことはできる。身体のもと通り、はどこにあるのかはわからない。今もぼくの、あるいはダンサーの身体のなかでは細胞が分裂して、徐々に身体は変わっている。だから、近づく、に過ぎない。そして金網も身体も経年劣化していく。元通り、から違うかたちへ、ちがうものへ、しかし同質なものとしてあり続ける。そして残骸へとなっていく。
人の意思や、力の動きによって変化する物。だけれど時間の動きによって変化する物、あるいは我々。二つの動きの共同は、同時に豊島と川上という人と人、あるいは、人と金網、という、どこまでも「2」でありながら、その「=」の先、もしくは「+」されるものは「?」であるままに。



16:30~19:00 バードサンクチュアリ
綾門優季&藤田卓仙(オンライン)
たくみちゃん
よだまりえ
田村興一郎(オンライン)

田村興一郎 
ダンスカンパニー横浜で行うものの、試作。
1部と2部があり、そのうちの1部。前半部分をする。社会的な距離などが余儀なくされた時代が続いた時代を想定し、それをさらに膨らませたもの。

ぼくは、このパフォーマンスを、どう評したらよいのだろう。いちばん、むずかしい。
ダンスの身体性がふわふわとあって、そこに演劇としての物語が、ダンスのふわふわとした感覚と一致するようにゆったりと語られていく。
断続と、断片と、察するということをしなければよくわからなくなって置いて行かれるような、いや、すでにぼくはこの世界観を察しきれずに置いていかれる。これは、どこなのだろう。いつなのだろう。どうなっているのだろう。ふわふわとした身体感覚は観者にものりうつっていく。
最後には、「どんな夢があるのか」という応答があって、終わっていく。

綾門優季&藤田卓仙による「あなたには届くはずもない欲望を」 というタイトルの朗読。
参加者たちをはじめとした多くの人物から、欲望するものを150字以内で応募して、それを整理したもの。それを読んでいく。
先ほどのパフォーマンスの最後にあった、「夢」の話と、つながっていく。

ぼくも自分の欲望を応募したけれど、ああ、多くの人の欲望はもっと直近のものなのだなあ、と思う。身近な、手に取れそうな欲望が、しかしそれは欲望として消えないくらいの満たされないくらいの欲望。
重い欲望、手に取れそうな欲望、強欲な人、いや、それでも、その深度はわからない。ぼくにとっては、軽い欲望であっても、その人にとってそれはきっと重い欲望なのだ。それが欲望なのだ。

たくみちゃんによるパフォーマンス。
マスクをしたまま、服を徐々に脱いで、会場の天井付近にかけられたハンガーにつるしていくと、マスクとふんどしだけの姿になる。
そのまま、体を動かし、なにかをつぶやく、ゆったりと、ゆったりと。暗黒舞踏のようにも見える。長い黒髪にふんどし姿、というのもあるかもしれないが。
…しかし、この記述に、何の意味がある、というのだろう。それは、筆者の集中力が落ちて作品を評せない、記録としての文章が書けない、ということではない。
この作品は独立している。ぼくの言葉を、この作品に対して突き刺そうとしても、鈍器で殴ろうとしても、まったく通じない。作品が柔らかい、のではない、通じない、という表現が適切だと思う。
理解をすること、それ自体の意味を、このパフォーマンスは意味をなさない。ただ、ある。自律的に自立的にある作品。それは観客の理解といった迎合よりも、自らのなかから出てくるものを出している、かのようにも見える。しかしこの例えもおそらくは意味をなさない。理解を超える、というよりも、理解の外にある、というよりも、理解という概念がない世界にあるのだ。それもまたある種の芸術世界。
パフォーマンスの終わりは、服を徐々に着ていき、会場の外へ。外へ出て帰ってこない。観客が出て行ってしまった先を見つめる。おそらくは会場の外からの「ありがとうございました」。彼は文字通り、観客を置き去りにした。

よだまりえによるパフォーマンスは一転して、演奏と歌。
しかしその楽器はギターではなくて、サムピアノ、だろうか。どこかの国の民謡のような、子守唄のような、ゆったりとしながらも強弱と、響きのある声。しかし、このパフォーマンスは、作品として独立している、というよりも、理解を、言葉を賭すことを「しなくてもいいんだよ」と諭されているようでもある。

少しだけ思い返すなら、最後の最後の、このバードサンクチュアリは、文章の外側にありつづけた。書くことをそれぞれの発表者は否定していないにしても、その作品に対する文章はどこか虚しくなってしまうような、作品としての独立性や、ただあるがままの欲望があって、それは筆者の力のなさも合間って、だからこそなおのこと、作品の、パフォーマンスのあり方を提示していた。
博物館としての役割、見世物としての役割としてなど、多様なあり方を「どうぶつえん」は示していた。


2021年1月17日
根岸貴哉

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