「どうぶつえん in TOKAS 2021」Day 1

「どうぶつえん in TOKAS 2021」Day 1
https://www.youtube.com/watch?v=IfyylzpmBGg

*当日、発表されるパフォーマンスをオンライン上で視聴し、文章を書いていきます。なるべく、リアルタイムで更新できるようにがんばります。

12:00~14:00 ドッグラン
Aokid 
上野海貴 
濵田明季 

Aokidの挨拶からはじまる。
まずオンラインで配信があることの説明、またカメラの位置の確認などを確認。
ついで「どうぶつえん」というプロジェクトの説明。2016年に代々木公園ではじまり、アーティストの交流を通して新しい概念がもたらされる可能性を期待して行われた、とのこと。
今回はトーキョーアーツアンドスペース本郷という室内、ということ、また新型コロナウイルスの関係もあって新たな試みになる。

ドッグランのメンバー説明。
上野海貴、濵田明季 の二人が紹介される。

Aokidの「準備体操」
「映像見ているからもよかったら一緒に。」
「本当は午前中にすることによって、1日よく動けるのかもしれない、と思ったりもする。」

両腕を上にあげて体を引き延ばす。
そのままの状態で手首をグニグニまわしたり、指を伸ばしたり、なにかを掴むような動作をする。
空気を押す、と言ってまるでパントマイムのようにして前や後ろにものがあるようにして動かす。
次に体をパーでパチパチを叩く。そのあとグーでとんとんと叩く。
両手を横に伸ばして、立ったまま大の字になって30秒間キープする。しかし、だんだんと正確な静止ではなくなっていく。
ついで、両手を両耳にあてて、何かをよく聞くようなポーズになり、そのまま手で耳を塞ぐ。
そのあいだもAokidは腰から体をひねって、ゆっくりと左右を見渡す。
人差し指を立てたまま、一度大の字になって身体のいろいろな部分を触りながら、身体の感覚を確認していく。

今度はゆっくりと歩き始めてから、最後に後ろにジャンプ。

腕や手のひらを中心にくるくるとまわし、ラジオ体操のようなものがはじまる。肩甲骨まわりをぐねぐねをまわし、「牛乳パック!」との掛け声で両腕を勢いよく伸ばしたり、「春風チャーン」と言いながら手首をまわす。

たぶん、掛け声は、なんでもよいのだと思う。その語彙の選択にAokidらしさが出ているのだと思う。Aokidいわく、「言葉との関係で頭もストレッチできたらいいと思う」とのこと。

筆者も頭と(文字を打つための)指の感覚を調整できただろうか。

Aokidは「踊る根拠を提供してほしい」としたうえで、「コンテンポラリーダンス」という題名のダンスをはじめる。

ビニールシートをさわさわと触れて華麗に飛び出すAokid。
彼の動きは、いつも、ぎこちなさが滑らかに表出されるよう。どこか体が伸びきったような、硬さがある静止が滑らかに移動していく、というある種の矛盾をはらんだ動き。
会場の観客が叩く音などにあわせているのか、あわせていないのか、微妙なズレがありながらも彼の硬さのある滑らかな動きは続いていく。
小さなトランポリンにAokidが乗って軽やかに跳ねているにもかかわらず、その下半身に比べると上半身にはやはり硬さが見える。

ニューバランスの靴を持ってそこに生命があるかのように、もしくは四足歩行になって手が足になったかのように動かしたり、ダンボールのオブジェを叩いたりしながら、Aokidはゆっくりと、しかし文脈的には唐突に座り、ダンスの終了を告げる。

濵田明季 
「今日はこの人工芝を置いた時に、芝のカスをこぼしていく」
との説明があって、パフォーマンスがはじまる。
ポケットいっぱいに芝が埋め込まれている。ポケットに手を突っ込んで、中でもみほぐすように手を動かすと、ポロポロと芝が落ちる。ゆっくりと横に移動しながらその動作を続けると、そこには芝の道ができる。それはまるで、「芝の足跡」のようでもある。

最後はポケットから芝のかたまりを取り出し、こぼす、というよりもほぐしながら落としていく。そして、今回の「どうぶつえん」のポスターを取り出し、それをチリトリのように使って、芝をまとめる。そのまとまった芝の上にポスターをかぶせる。まとまった芝を隠すように、面布のようにして。
その後、芝の塊を置き、そのうえにまた芝の塊を、パルミジャーノレッジャーノを削るようにして、振りかけていく。
敷かれた人工芝を、四つん這いになって揉み解しながらむしり取り、このパフォーマンスは終了をむかえる。
もしも芝が身体だったのなら、それは揉みほぐしか、あるいは垢を毟られたのか。無機質な相手だからこそ、心情を無視して見れるからこそ、そこには生身の身体性が際立つ。

上野海貴 
「どうぶつえん」という曲があることの説明がAokidからあってからはじまる。

ギター一本での弾き語りだけれど、足でリズムを刻んで、タップダンスのような音も鳴り響く。
そのあと、Aokidが小さな鉄琴のようなものを座って膝に置いて鳴らしながら、ギターとのコラボ。Aokidは途中、楽器に飽きた子供のように、興味がほかにいってしまったと思わせるように、白い椅子がわりにしていた箱を叩き始める。理知的に構成された音楽と、児童のように振る舞うAokidという対比は、水と油というよりもドレッシングのようで、そう考えると床に敷かれ、またさきほどばらまかれた芝も、なるほどサラダのように見えてくる。

今度は上野さんと濱田さん、Aokidのコラボ。上野さんの曲にあわせて二人が踊る。踊る、というよりもリズムを感じさせながら変則的に、子供が横断歩道をわくわくで渡るときのようにして動く。それをダンスというのならそうなのだけれど、そこにはもうすこし本質的な遊びとしての、またはふいに体を動かせてしまう音楽の力が垣間見える。
 Aokidは「音楽に目をあわせるのは難しい、合わせたいのに合わせられない」と言う。その戸惑いもまた、ダンスかどうかを、会場に巡らされているのにいつでもまたいで越えていけるような境界線としての、ダンスかどうか迷わせる本質的な遊びのような動きにも通じている。

次の曲では濱田はさきほど使ったポスターのうえに芝を綺麗にならべ、かためてから、再度床に置き、ポスターを大きな人工芝の下に隠していく。

今度は、即興で曲をつくるようだ。会場から、いくつかのワードを聞き出していく。「距離」、「ゆっくり」、「卵」、「光」、「everything」、「芝」、「北海道」等々…Aokidが聞いたキーワード書き留める。

上野のギターを弾いて、Aokidが詰め込んで歌う。
「距離、ゆっくり、まったり、ひかり、卵のeverything!」
奇跡的になんとなく韻が踏める。卵のeverythingは意味がわからなくて笑ってしまうけれど、意外と聴き心地のよいリズムとメロディで覚えやすい。

そんな感じで1時間20分が終わって、休憩。

ギャラリートークがはじまるけれども、オンライン上の映像では、話されている作品がなかなかみえにくい。Aokidが作家と作品を紹介していく。なかには「野暮だから」という理由で、作品の説明をしないものも。
ギャラリートーク終わりに拍手から、手拍子にかわって、Aokidがパーカッションとともに歌いはじめる。

その後、Aokidの「何か歌いなよ」無茶振りによって、上野がまた弾き語り、Aokidが踊ることに。
さきほどよりも、音楽に目をむけることができたダンスのように感じる。初対面の緊張感がなくなって、徐々にお話することができるようになるシャイな男性のような時間感覚が、そこにはあるのかもしれない。

14:00~16:00 五本ケヤキ
西純之介
山田カイル
篠田千明
硬軟
阪中隆文

篠田千明「物を移動したい」とのこと。
移動してはいけない物の確認、また物を増やしてよいのかを確認してからスタート。
大きなビニール生地(プチプチ)がロール状になっていて、それを伸ばしていく。
篠田は人工芝の上に座り、観客がそのまわりをカラーコーンにビニールテープを巻いてかこっていく。また物干し台を移動させたりして、場が出来上がっていく。配信上のカメラにかぶるように、ビニールがかぶせられて、モザイクがかかったようになって、他のカメラからの視点がスイッチャーによって模索される。
もう一度ターンがほしい、と言い残して、次の発表者へ。

阪中隆文
吉祥寺アートセンターでの個展があるという宣伝と、最近アトピーが悪化していてそこに関連した作品を作っている、との説明。
ピンマイクを指につけてアトピーの人の掻く音でオーケストラする作品。

プロトタイプの作品は、ガサガサした音が鳴り響く。ダンボールを糸鋸で切っているかのよう。発表者いわく、「これではテンションが上がらない」とのことで、次の作った作品へ。今度はゴーーーという轟音。映像は見えないが、3Dで撮影されたものがあるらしい。
次は画像が展開されるが、これもオンラインではなかなか見えない。手が動く軌跡をキャプチャーして、ドレスのようなイメージを作る、というシリーズの紹介がなされる。
無意識での動きが軌跡として形成される。意識的な身体、社会的な振る舞いとしての動きではない、コントロールできないものとしての動きにフォーカスを当てている、と筆者は言う。

無意識としての動きではあるものの、身体的な痒みという違和感は同時に強烈な身体感覚でもある。

もしかしたら、さっき毟られた人工芝もある種の皮膚で、床にまかれた芝も皮膚の粉として見ることもできるのかもしれない。掻くということ、剥がれるということの多様性と広がり。皮膚という表面が剥がれ違う表面に落ちるということの境界線の破壊、越境。
そしてある種の身体の広がりは、痒みは内側へ、皮膚は剥がれ身体の外の表面へと、どちらも行き場なく旅をする。

硬軟
速記に関するレクチャー。

「複数の文化や風俗を衝突させて、再捻出するというコンセプト」
「速記という文化、あるいは美術についてのレクチャー」
速記者はリアルタイムで発言されたものを手で書き、文字にしていると言う。そして、名前を崩したサインなどもあるが、速記者はそうではなく、独自のルールで出来上がった暗号のようなものがあると発表者は説明する。また、いくつかの流派がある、とのこと。
英語の筆記体のような流動的な書かれ方、ある種の芸術的なものに魅力を感じながらも、記号的な面白さと国会のような厳格な場所でそれが生み出されるということに魅力を感じた、と発表者は語る。
また機能美としての要素を速記は含み、くわえて、ライブドローイング、パフォーマンスとしての要素をも含んでいると発表者は指摘している。
自動音声システムなどが発達しているなかで、なぜ手で書いているのか、という問題もあり、それは聞こえているものを素早く書き留める、ということもあるが、その後の、筆記体の連なり方のように、一般の人々が読めるように書き換え公文書にし、国立国会図書館に収める、という仕事もあると言う。熟練すればするほど、個性が出始め、書いた本人しか認識できなくなるため、同じ暗号を使っているにも関わらず経験値や身体の動きによって通用しなくなる、という齟齬が生じることが面白い、との述べる。

以前には、速記→通常の文章に訳す→速記を繰り返す、伝言ゲームのようなものも行なったと説明している。
これらが、アーカイヴとも関わる問題であると考え、アナログなある種の体術のような技術を紹介したい、と考え、発表した。
そして、ここからは、様子をとる一員になってほしい。
何か身体を使ってこの会場の記録をとっている、という姿勢を示したいと思い、「挙手」を使い、ア行が聞こえたら挙手、カ行が使えたら挙手、などとしたい。それらを割り振って、聞こえたら、手を挙げてほしい。
アーカイヴの映像があるのでなるべく後からこの映像をもとにまとめたい、とのこと。

行ごとに挙手をする人員を割り振って、速記史6級のCDを流して、練習をすることに。
「最初のお話をします。新しい年がスタートしました」…と、ゆっくりとした音声で流れる。会場の人々は、せわしなく手を上げ下げする。旗あげゲームのようにも見える。

その後、まとめや質疑応答があって、換気タイムへ。

筆者(根岸)も、ときおり文字起こしのバイトをするけれど、あくまでもPCでのタイピングのため、そうした芸術性は生まれない。ただ、そこには自覚はしていないだけで、そして無意識的に打ててはしまっているけれども、なにかしらの身体性があるのは確かだ。身体性の自覚は、さきほどのアトピーの発表にもつながるのかもしれない。



西純之介 ARをつかった発表
画面上ではマリオがカートに乗って会場を走り回っている。
観客の人々が運転をかわりながら操作している。会場ではラジコンを使っているのだろうか。

久保田舞によるダンスパフォーマンスを、ラジコン上のカメラ(マリオカートの視点)で捉えようとするが、なかなかうつらない。それどころか、ダンサーにたびたび直撃する。また、カートが移動するため、ダンスそれ自体は捉えにくい。なんなら、ダンサーがもはやサーキットにおける障害物のようにもなっている。

次は会場の人々がiPhoneを使って撮影して、作品をつくっていく。
会場の人々は音をたてたりしながら、久保田さんのパフォーマンスを、あるいは会場の様子を撮影している。
撮影終了後、一斉再生して、iPhoneを一定の場所に置いていく。
各々が撮影した映像を、一斉に送信して、後日、編集して公開される、とのこと。
発表者のコメントにもあった通り、多角的な視点から得られた映像ではある。それが一点に集められて編集される、ということは、再び統一的な視点をもたらされる。そうしないと、認知できないながらも多角的というなかでの作品がどうなるのか。そこにあるのは、統一か、それとも多角か。

(再び)篠田千明

会場に置かれたカラーコーンに、各自、印象に残った言葉を書きながら、まわっていく。そして移動して自分の目の前にある単語、文を読んでもらい、また横へと参加者はズレていく。一斉に読むため、配信上だとすこしごちゃっと聞こえる。会場にいたら、違う方向から聞こえるから、そうでもないのかもしれないけれど、一つのスピーカーから一斉にだとノイズのようになってしまう。だけれど、人々の感じること、印象に残るもの、というのは、ある種のノイズなのかもしれない。そしてまた、そうした多角的な要素が、さきほどの撮影されたものともつながっていく。




17:00~19:00 ホッケー場
タカラマハヤ
神村恵
カニエナハ

パフォーマンスの起点と、人と人とのつながりが混沌としていてわからない。
現場の空気、のようなものもあるのかもしれないけれど、神村さんはビニールのプチプチに手を這わせたりしながら、それをもう一人の男性から撮影されている。それ以外にも壁に手を這わせる、椅子の足を様々な持ち方で握り、触り、這わせながら、ひたすらに手を撮影していく。手を頭の後ろで組んだままスマートフォンを持って撮影、などその撮影する側の手法も様々だ。

他方で、カニエナハさんは、それをモデルにしてなのか、手を描く。ついで絵の具を調合して、描き続ける。人工芝に髪を置いて、筆ですらすらを描いていくそれは、最初にデッサンのように描かれた手とは違って流動的な様相を呈している。それは記号のようでもある。何枚かの紙が手の記号でいっぱいになると、今度は自分の手首や手のひらを黒の絵の具で塗って、それを紙に押していく。一般的な手形は手のひらだけれど、手の甲などの型などもそうして写し取っていく。けれどそれは純粋な型ではなくて、どこかやはり記号的だ。だんだん動きが大きくなっていって、寝転がりながら、体重をかけながら、手首だけではなく腕の部分を押し付けるなどダイナミックになっていく。さらには足の指に筆を挟んで何かを描く。記号と身体の独特さ、なんてまるで、「速記」技術のようで、それは予期せぬ伏線回収。

さらにその一方で、タカラマハヤさんはシンバルを床に置いて、足で鳴らしたり、まわしたりしている。さらには側面部分を床に引きずって音を出したり、自分を中心に、床でシンバルをまわしたりしながら音を出すなどと一つのシンバルを多彩に使い多様な音を鳴らす。今度はカラーコーンの上に器用にシンバルを置いて、ポールで遠目からそっと叩く。震えるようにしながら連打、ポールの先端ではなく中心部で叩くなどしながら音の出方を確認しているようでもある。

各々が同時進行で別のことを同じ空間でしている。これにまとまりはつくのだろうか、と思っているとタカラマハヤは左手でシンバルを持って右手の親指と人差し指ではさむようにしてシンバルを交互に叩きながら歩く。そのシンバルを神村も叩きながら撮影し、手を這わせていく。カニエナハは筆でシンバルを叩く。シンバルの上に紙を乗せて描く。

その後はまた別れて、
カニエナハさんはノートパソコンをいじりはじめる。詩を読み始める。思いつくままの言葉がふらふらと出され続ける。
タカラマハヤさんはアルミホイルを床に敷いて歩いている。アルミホイルと、ガムテープと、シンバルを使って音の探求を続ける。
神村さんはまだ色々な方向性で手を撮影している。
また、スマートフォンに本配信が映し出されて配信に映すことによってラグのある電子的な無限回廊が作り出される。

別次元にいて、たまたまこの画面では重なってしまったかのように、行動のすべてが偶然的に重なっているだけのようにも見える。
配信上で引きの画角になると、もはやなにをしているのかもわからない。なにもしてないようにも見えてしまう。なるほど、これは確かに「どうぶつえん」だ。



2021年1月15日
根岸貴哉

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