「見送り三振」はやめましょう

野球研究者の根岸です。
今日は、「見送りの三振」について書いていきます。

筆者は、この「見送りの三振」が大嫌いです。
これだけ書くと、積極的ではない打者を嫌う監督であったり、野球殿堂入りもしている元高野連会長の脇村さんの閉会の挨拶のように思う人もいるかもしれません。
ただ、筆者は、「見送りの三振」という、その行為が嫌い、というわけではありません。

では、なにが嫌いなのか。
それは、「見送りの三振」という表現です。
「見逃しの三振」だろう、と。

え、同じでしょ、と思う人もいるかもしれませんが、ぜんぜん違います。ということで、その理由について説明していきましょう。
まず、「見送り」と「見逃し」の違いとは一体なんでしょうか。
それは、端的に言ってしまえば、ボールかストライクか、です。

一般的な使い方においても、「見送る」と「見逃す」は違います。
たとえば、「予定を見送る」であれば、次の機会をうかがう、というような意味を含みます。しかし、「予定を見逃す」とはあまり言いません。「見逃す」はむしろ、「見ようと思っていた番組を見逃した」のように、本来しようと思っていたことができなかった、という意味で使われます。

そして、野球においてストライクというコールは、本来、「打て」、「その球は打てるよ」という意味を含みます。反対に、ボールは打つことが難しい球です。

こうした前提をふまえたうえで、今一度「見送りの三振」、「見送りの三振」について考えてみましょう。
ストライク、ということは本来「打てる球」であるはずなので、打者からすれば見送るはずがありません。つまり、打てなかった場合は「見逃した」はずです。ボールであれば、それは打てない球と判断しているわけですから、「見送った」ことになります。

こうした反論もあるでしょう。「いやいや、ストライクゾーンにきている球であっても厳しかったら凡打にしかならないのだから、見送るだろう」と。
これは、確かにそのとおりです。難しいストライクの球を「見送って」、次のチャンスにかける。これはありえるでしょう。
しかし、こと「見送りの三振」ではそれは生じません。なぜなら、見送って三振になればその打席は終了だからです。
そのようにして考えると、こと三振した場面においては「見送りの三振」ではなく、「見逃しの三振」となるはずです。


「見送りの三振」と表現されるようになった経緯は、理解できます。たとえば、ラジオ中継や野球中継では瞬時に、言葉を出さなければいけません。だから、アナウンサーが「これはボールだ」と判断して、「バッター見送り…」と表現したあとに、三振がコールされた場合には、「見送り…、三振!」と表現せざるをえない。これは理解ができます。

しかし最近では、明らかにボールがミットに入ってから、実況者が自信満々に「見送りの三振ー!!」と叫ぶシーンが多々見受けられます。
いやいや、そこは「見逃しの三振」だろう…とおもうわけです。

仮に、「見送りの三振」という表現が通用するとするのなら、それは審判への侮辱を意味します。ストライクは本来「見逃す」ものだから、審判が本来のボールなのにもかかわらず、ストライクとコールした。その結果バッターからすれば「見送った」が、審判にストライクとコールされ、「見送りの三振」が成立した。こうしたシーンに対して、嫌味を言う時であれば、「見送りの三振」という語は成立するかもしれません。

あるいは、八百長の示唆の可能性もあります。
打者が「アウトになろう!」「三振になろう!」と積極的に思っているのなら、それは見逃した、というよりもヒットになることを「見送」って、「三振」になったわけですから、そうした意味では「見送りの三振」になるかもしれません。

しかし、この両者は言葉を使う際にギリギリ許容される範囲でしかありません。なんなら拡大解釈している。
そしてまた、アナウンサーが「見送りの三振」と言葉にするとき、当然ながら上記したような意味を含んでいる、と筆者は考えていません。
つまり、「見送りの三振」というように言われる時、多くの場合は、単純な誤用をしている、と考えています。

こうした記事を書いた背景は、テレビ中継などを視聴する際に、「見送りの三振」という語を耳にする機会があまりにも増えたからです。

野球というスポーツは、文化です。野球選手はもちろんのこと、メディアや、ファンもそうした文化の担い手です。そして、そうした文化は言葉を通して積み上げられていくものでもあります。

ですので、できるのなら、野球ファンの方々やアナウンサーの方には「見送りの三振」ではなく「見逃しの三振」という表現をしてほしいと願っています。











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