見出し画像

人生がくすぶった時には

人生がくすぶっている時、
私はドキュメンタリーを観る。

NHKのドキュメント72時間や、
フジテレビのザ・ノンフィクション。
特別大きなエンターテインメント性のない、淡々と素人さんの人生を追ったものが好みだ。

そこには大病を患ったり、
苦難に見舞われた人も多く登場する。

映画だとか、芸能人のドキュメンタリーでは「こうなりました」と語られるはずの"現在"は、
そういったドキュメンタリーにおいて、必ずしもスッキリするものではない。

現在進行系で病気と闘っているひと、

まあそんなに上手くは行っていない人生だけれど、ささやかな楽しみとしてここのお店の食べ物を買いに来たんです。と語るひと、

かつて同じ番組に出演したときどん底だったのに、今では子供がいるんですよ。人生何があるかわからないもんですね。と幼子を肩車しているひと。

いろんな人生がある。


私は、長い間
自分の目の届く範囲の「普通」にとらわれて生きてきた。

目の届く範囲とは、
近所の人、職場の人、同級生、親せき。

その範囲にある「普通」にはなれない自分を罰してきた過去もある。

でも、目の届かないような範囲……世の中にはいろんな人がいて、
いろんな人生があることを知ると、心が軽くなるような気がした。

「普通」の概念すら崩れていく。

ふつうって、なんだろう?

どんな働き方をしてもいいし、
どんな生き方をしてもいいんだよな。


自分より大変な思いをしてて、
それでも頑張って生きてる人もいる。

性格が悪いと、人は笑うだろうか?

私は、凝り固まった「普通」の枠を取り外して、
泥臭くても、暫定的にでも、生きていければいいと思っている。


誰もが、映画のようなドラマティックな人生を送れるわけじゃない。

というか世の中の大半のひとが、
ドラマなんかにならないようなパッとしない人生を送って死んでいくんだよな。

もしかしたら今よりもっとつらいこと、悲しいことが
この先待ち受けているかもしれない。

でもこの先、今のつらさを乗り越えた先に
いい未来が待っていないとも限らない。

私自身、フェスで訪れることがなければ
5年前に茨城で暮らすなんてこと、考えられなかったからなあ。
そもそも地元を出るなんて考えたこともなかった。

だからね、今日もダラダラと生きていくんだと思います。

「死にたい」とは思わないけれど
もしゲームのプレイヤーのように痛みも人のつながりもないのなら、
電源をオフにしてしまいたいと思うことはある。

ただ、ダラダラと。

消去法で生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?