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宙組トップスターの贔屓について思うこと

ネット上で、それもSNSみたいにぼやかさずに思いを書き込むことに関して、その必要性があるのかどうか自分の中でも沢山悩んだけど、退団発表を機に、思いを一人で抱えるだけではなくここに形として残すことで、気持ちの整理をつけたいと思ったので、もし時間がある方はどなたでも、見ていただけたら嬉しい。

私が贔屓と出会ったのはほんの数年前。外部(東宝とかホリプロとか)のミュージカルが好きだった私は宝塚には絶対ハマらないという謎の自信をもっていたのだが(男じゃない人が男役やるなんて、、、と本気で思っていた)、友人に勧められてDVDだけでも見て、といわれ宙組のシャーロックホームズを見た。これがすべての始まり。「わ!ナニコレかっこよすぎない???」と思いがけないときめきを感じてからはもう見事な落ちっぷりで、ちょうど宙組の一般発売が始まろうとしていたためチケット戦にのりこみ、無事チケットを手にし、DVDを見た日からひと月も経たないぐらいでもう大劇場の座席に座っていた。観劇の日までは友人の指導の下、贔屓の舞台のDVDを見まくった結果すっかり私の心は贔屓一色になっていた。贔屓に出会ったときは雷に打たれたみたいになるとか贔屓は突然薔薇をもって現れるとかいうけど、私が贔屓におちた瞬間は
「目覚めて一番に頭に思い浮かんでるの、芹香さんじゃん」
って自覚したとき。
寝ても覚めても同じ誰かのことを考えてることなんてこれまでなかったことだったから、それだけ好きでいれる人ができたんだ私、、、って幸せを噛み締めたときに、私の贔屓は芹香さんになったんだと思う。


それから舞台姿をたくさん拝見して、そのうちトップ就任が発表されたりもして、贔屓がいる生活は本当に幸せいっぱいだった。だから、9月30日からの日々は言葉を選ばずに言うなら地獄のようなものだった。

最初はお披露目がどんどん中止になっていく日々に絶望した。中止のお知らせが来るたびに誰もいない廊下で泣いた。こんなに楽しみにしてたのにどうして。でもどうしようもないことで、せめて宙組生の心が穏やかになる日が来るよう祈った。原因はあまり考えないようにしていた。でも、こういったことがあった以上、贔屓の今まで通りの笑顔は見れなくなると、心のどこかで考えていた。ひどい話、本当にそれが何より悲しくてつらかった。今こうやって言葉にするとなんというか、適切ではないと思うけれど、そのときの本心はそうだった。必死だった。

だんだん事が進んで、週刊誌や会見で色々なことが語られるようになった。
原因に、贔屓がどういう形で、どのような状況でかは完全にはわからないけど、関わっているのではないかと、それを否定することができないということが受け入れがたくも事実として突き付けられた。SNSに並ぶ言葉ひとつひとつが全部突き刺さった。心が抉られた。たかだか渦中の贔屓の1ファン。離れていく人も見た。離れることも必要だと、冷静になれと、ファンとしての在り方を見直せと、そんな声も見た。でもそれにすら傷ついた。本当に苦しかった。明らかな誹謗中傷ではない、厳しいけど間違ってない意見がたくさんあった。自分もそう思うよ、だけど贔屓には世界で一番幸せでいてほしいという、今まで通りのその気持ちが、もうこれ以上誰も言わないでくれと叫んでた。

宝塚は一つというけれど、それぞれのファンに御贔屓様がいて、好きな組があって、1つだけどそこにはいろんな考え方を持った人がいる。それはすごくいいことだけど、このときは一番苦しかった。ジェンヌさん自身もそうだと思うが、ファンでさえも常に比較し合っているのがこの宝塚の世界。明らかに比較する人もいたが、トップはこうあるべきだよね、って遠回しに比較する人もいて、こうやって問題が明らかになった以上そう言われても仕方のないことなのだ、と傷つくことを肯定して受け入れようとして、毎日傷ついていた。贔屓が好き、贔屓が幸せになってほしい、今まで幸せいっぱいに発していた言葉が、発することに苦しんでためらうような世界になるこの辛さ、そしてそれは多くの場合わかってもらえない。理解されたいのか、承認されたいのか、自分がどうしたいのか、それすらにも悩み苦しんだ。贔屓は自分なんかよりもっと苦しい状況にあることを考えると、自分がこんなに苦しんでることもよくないことに思えた。

トップスターは本当に沢山のことを求められる場所だと思う。私がそんな場所に立ったことはもちろんない、本人がどんな状況で何を思っていて、実際のトップスターとは何かも私は知らない。

その中でこんなことを言うのは、ほんとうに苦しいというか正しくないのかもしれないと思いながらも書くけれど、トップスターであった贔屓は、何かできることがあった、のだと思う。
何か、は現場を知らない私にとっては漠然としか言えないけど。組を背負うということは、こんな名もなき「何か」を背負うことなのかもしれない。それが良いことだとはあまり思わないけれど。「何か」は「責任」という言葉とは少し違うし、限定された一つのものであるわけでもない。何もなかったわけではないことはわかっているから、この「何か」があれば、きっと命が失われることはなかった。「何か」は贔屓一人の問題ではなく、色々な物事が関わっているけれど、その一端に贔屓がいたことはきっと否定できない。
その上で、観客側がどうこう言えることはない。関係者では無い、と線を引かれた中で考えて悩んで、自分の考えを持てばいい。その考えは尊重されるべきだとも思う。
そう、今は考えている。あの日からずっとずっとずっと苦しみ悩んで考えて自分の中で見つけた考え方。

宙組のトップスターになってからの人生は宙組の為にある、とその道を歩き始めた贔屓の言葉を忘れた日はない。組子に宝塚に入ってよかったって思ってもらいたい、そのためにできることはまず自分がしっかりと背中を見せていい舞台をつくることだと、そう語った贔屓を忘れたことはない。ほんの数年だけれど見続けてきた人の、この言葉を私は信じている。

贔屓は、本当に自分に厳しくストイックな人だと感じる。どこまでも努力に努力して舞台を積み重ねてきた人。だからこそ自信があって、苦労した分、思慮深くて情熱を持っている人。ジェンヌさんはあまり露出機会が多くないけれどその限られた時間の中で贔屓が発する言葉からだけでも、贔屓がすごい人だということはずっと確信してきた。贔屓だけではない、ジェンヌさんは皆私みたいな一般人には考えられないほどの努力と類まれな才能を舞台のために惜しみなく費やしている。
贔屓が、もう一度舞台に立つと決めたとき、私は幸せだと思った。
苦しい、辛い、不安な気持ちが消えたわけではない。でもたしかに幸せだった。この気持ちを言葉にすることは難しいのだけれど、贔屓はきっと、全部をちゃんと抱えていってくれると、思った。美談にするな、って思われるのもわかる。見えないところで何かを抱えることがかっこいいことだとも思わない。でも、今まで果てしない熱量を持って舞台と宙組と組子と向き合ってきた贔屓がもう一度全力を尽くして舞台に立つと決めたその覚悟に、ちゃんと贔屓なりの心があると、私は今も信じている。根拠はない。でも信じていたいのだ。

「贔屓が好き」の根底には、贔屓が心から大切、と言う気持ちが常にある。贔屓が二番手になったときは小学生だった私にとって、その8年後にまだ宝塚の舞台に立っている贔屓と巡り合えたことは本当に大切で奇跡みたいな出来事だった。大切な人に心から笑顔でいてほしい、幸せでいてほしい、そう願わずにはいられない。大切だからこそ、贔屓のことには苦しむし悲しいし大好きな気持ちがある。どこの誰にも大切な人がいて、色々な考えをもって、そのために色々な行動をすると思うけれど、誰もが自分の気持ちを守りながらも、他の人の大切をむやみに傷つけないような心でいてほしい。

大切な贔屓が、退団するその日まで、大切な人と共に幸せを感じられますように。


(心のままに書いたら、どの立場が言ってるねんというようなことばかりになってしまった気もするのですが、誰かを傷つけたり否定したりする気持ちで書いている部分は全くないということだけ、、、誰も傷つきませんように、、、)




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