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【第四話】一緒に死ぬことはできない。

 ——まだ、自己が未熟な小学生の頃、自分のことに関する作文をたくさん書かされたことを私は覚えている。自分の好きなもの、様々な思い出、頑張っていること、経験から得たもの、そして将来の夢。私は特に将来の夢にあたる「大きくなったらなりたいもの」という題の作文についての記憶が鮮明にある。しかし、覚えているのは書いた内容ではない。題に対して子供ながらに感じた違和感だ。「大きくなったらなりたいもの」の「大きくなったら」という部分。幼い私は漠然としていて広義なその言葉に惑わされ、クラスという群れが見ている方向を見失った。そのことをよく覚えている。
 
「だから、私には迷いがあるのだよ」
「すまない。理解するのに少し時間が欲しい」
 話し終えた市郎太に向けて、慎二は待てのサインを出す。市郎太は現在、慎二が持ち込んできたとある案件について話し合っていた。その案件とは、とある作家との対談であり、資料には「柵 命」という筆名がある。慎二は短い唸り声をあげた後、閉じていた目を開けた。
「つまり市郎太は、柵先生との対談で柵先生の言葉を正しく解釈できるのか、そして、その正しい解釈が、そもそも大多数の人間が持つ一般的思考に当てはまるものなのかが分からなくて不安だって言いたいんだな」
 市郎太は無言で頷く。回りくどいというには度を越えている思い出話で自分の気持ちを伝えるのは、慎二なら分かるだろうという信頼と甘えがあるからだ。市郎太の不安を理解した慎二は、頭を掻いて口をへの字に曲げた。
「自分はこの対談、行った方が良いと思うけどな。柵先生のこと、尊敬してるって言っていただろう」
「ああ、その気持ちに嘘も変化もない。柵命と実際に会って話せる機会に興味や喜びだって感じている。だがしかし、無視できないほどの不安があるのも事実だ」
 渋り続ける市郎太に、慎二はどうしたものかと腕を組んだ。この対談で得られるものは多いと思っている慎二は、市郎太にこの機会を逃してほしくない。しかし、得るものが多いことなど、きっと分かりきっている市郎太をどう説得するかが悩みどころだった。先ほどまでと同じような押し問答をもう三度繰り返すと、そこで慎二は閃いた。
「実は市郎太に言われてから、短編を一つ書き上げたんだ」
 その一言で市郎太は慎二の閃きを察した。
「待て、待て分かった。私が対談に行かなければその短編を読ませてやらないとでも言うつもりだな」
「まあ、大体は合っているよ」
 焦りの乗った声と、渋面をつくった市郎太を見て、慎二は人の悪い笑みを浮かべた。
「正確に言えば、誰にも読ませることなくデータを消してしまおうと思っている」
「愚か者め」
 市郎太は恨めしい声を出しながら、慎二を睨む。それは、慎二の発言が大袈裟なものではないことを分かってのことだった。慎二ほどの才能と実力を持った人間の傑作を、誰の目にも触れないまま失くしてしまうなど市郎太には許せない。だからこそ、この脅しは効果的だった。
 市郎太は肩を落として長いため息をつく。そうして、たっぷりと間をとった後に声を引き摺り出した。
「引き受けようじゃないか」
「よし! じゃあ、」
「ただ、頼みがある」
 昂って膝立ちになった慎二は、その体勢のまま市郎太を見下ろした。
「私が出ている間、この家の留守番を頼みたい。鍵を失くしたために、戸締りができないのだよ」
「ああ、そんなことか。任せてよ」
 続けて慎二は、元々同行するつもりだったため、予定は空けられると言った。
 こうして、市郎太は対談の予定を半ば強引に受け入れることとなった。その後、慎二から日程の候補と場所についての詳細が伝えられると、今日の打ち合わせは終了となった。
 
 対談当日。まだ寒さの厳しい朝方に押しかけてきた慎二から、あれやこれやと指示を出されながら市郎太は身支度を進めていた。
 慎二に跳ねた後ろ髪を整えられ、スラックスについた毛玉まで甲斐甲斐しく取られていると、市郎太は恥のような、惨めなような気持ちを感じていた。身なりを整え終わると、次は荷物の確認が始まった。
「財布、携帯、ICカード……メモは持った?」
「ああ」
 慎二の言うメモとは、待ち合わせ場所や時間、今日乗る電車の方向や時間などが書かれた紙のことである。市郎太は初め、必要ないと受け取ることを拒んだのだが、慎二に三問ほど質問をされた後に渋々受け取っていた。市郎太は億劫そうに鞄の中身を慎二に見せる。すると、慎二は指差し確認をした後に、満足げな顔をした。
「迷ったら電話して。あ、それかもうタクシーでも——」
「行ってくる。電車の時間が迫っているからな」
 うんざりした様子で出ていく市郎太を、慎二は玄関の少し外まで出て見送る。姿が見えなくなるまで見守ったが、市郎太は一度も振り返らなかった。
 
 留守番を開始してから一時間弱。あれから慎二に市郎太や先方等からの連絡はきていない。それは、市郎太が無事に目的地に辿り着けたことを表していた。携帯を気にして何度も画面を見ていた慎二も、やっと落ち着いたようだった。
 そこで、持ってきていた手帳とペンを机に出す。市郎太に言ったように、慎二は短編を一つ書き終えているものの、それで市郎太が満足するとは思っていない。そのため、新たに書く題材や表現したいことを考える必要性を感じていた。
 淹れてから適温に冷めた茶と、市郎太から与えられた菓子の詰め合わせをお供に、ページを文字で埋めていく。書かれていく単語や短い文章は、それぞれ独立していてまとまりがない。しかし、その文字列たちで数ページ分が埋まると、次にページを捲った時にはすでに、慎二の頭の中では約二万字の短編小説の構想が出来上がっていた。紙の上をペンが走り、それが出力されていく。そうして、さらに数十分が経過した頃には、簡略はされているものの精巧なプロットがそこにはあった。
 集中しきりで固まった体を伸びでほぐす。冷たい水でも飲もう。そう思った慎二が立ち上がった時、呼び鈴の音が聞こえた。市郎太が帰ってくるには早すぎる。慎二は自分が対応できる用件だろうかと思いつつ、玄関の戸を開けた。
「はい……って、あれ」
 来客の正体は光樹であった。現れた相手が想像と違ったのはお互いさまのようで、他人行儀なぎこちない挨拶を交わした。
「お久しぶりです」
「久しぶり。市郎太に何か用だった? 今、居なくてさ」
 慎二は以前、市郎太から光樹と疎遠になった話を聞いてから、その後どうなったのかを知らない。そのため、市郎太と光樹の今の関係性が分からない分、どう接すれば良いのかと内心迷った。
「いえ、忘れ物を取りに来ただけです。市郎太さんからご自宅へあがる許可はいただいています」
 そんな慎二の心情に気づかない光樹は、平然としている。そして慎二は、光樹の口調から、市郎太と光樹の仲が険悪ではなさそうなことを察して一安心した。
 慎二は光樹を忘れ物があると言う奥の洋室へ通す。慎二もあまり立ち入ったことのない空間で、光樹はまっすぐ机の方へ向かい、置かれたままの筆箱を手に取った。
「ここで書き物でも一緒にしていたのか?」
「え、いえ……」
 何気なく問うたことに、動揺したような表情をする光樹を見て、慎二はさらに疑問を深めた。光樹は慎二から目を逸らして、手元の筆箱に着地させる。その不自然な態度に、光樹が何か自分には言い難いことがあるのだと慎二は勘づいた。
「じゃあ、どうして筆箱を?」
「それは……」
 光樹は下を向いたまま黙る。慎二は光樹の発言を待った。光樹の隠し事に確信の持てる予想がつかない慎二には、余計に知りたいという欲求が湧いている。市郎太に関わることなら尚更だ。
「槙原さんは、」
 光樹の目には憐れみが見えた。
「知らないんですか……?」
「知らないって、何を」
 慎二の目には妬みがこもった。
「いえ、知らないなら良いんです。勝手に話して良いのかも分かりませんので」
 光樹の口振りから慎二は最も気になっていた情報を得た。この隠し事には、市郎太の重大な感情が関わっている。それは、思い煩う何かかもしれないし、忘れられない罪悪感かもしれない。はたまた、身を焦がすような激しいものかもしれない。想像を働かせる慎二は、後ろ手で部屋の扉を閉めた。無意識に近い自然な動作で行われたそれがこの場にもたらしたのは、ただの閉塞感だけではない。
「教えてよ」
 慎二の頼みに、光樹は微笑みで返す。その笑みは、困惑という感情を綺麗に表していた。慎二は光樹の両目から、少しも目を逸らさない。そもそも、慎二は光樹に関して知らないことが多すぎる。だから、明らかにしたいと思うことは必然であった。
「頼むよ。知らないままだと、自分まで市郎太と関係が悪くなりそうだ」
 慎二の物言いは、市郎太を脅した時のものとよく似ている。
「大丈夫。光樹くんから聞いたとは市郎太に言わないし、知ったことを言いふらしたりもしないから」
 一言一句が、光樹に言わせるための方便だ。
「光樹くんが黙ることにしても、隠し事をしていることは今、知ってしまったからね。光樹くんが話さないなら市郎太に訊くことにするよ?」
 話せ。ただそれだけの意味しか持たない言葉の羅列。慎二に光樹をこのまま帰そうなどという考えは微塵もない。市郎太に関することならば、益々この機会を逃すことなど考えられなかった。
 あわよくば、この状況のまま市郎太が帰って来ればいいとも思っていた。そうすれば、市郎太が光樹と共有している隠し事を、本人の口から聞けるだろうから。
 時間をかけることも厭わない慎二は、悠長に光樹の次の言葉を待った。光樹は斜め下を向いて黙っている。
「光樹くん、教えてよ」
 慎二の声色は優しく穏やかなものだった。それを聞いて光樹が感じ取ったのは、逃げられない。ということだった。はなからこれは、質疑応答などではなく、詰問だったのだから。
「話します。僕も、槙原さんには知っておいていただいた方が良いと思いますし」
 それから、光樹は簡潔に話した。市郎太と遺書を書いていること、市郎太と同じように死にたさを抱えていること、市郎太と心中をする約束をしていることを、最低限かつ分かりやすく。
 慎二は光樹の話を最後まで黙って聞いていた。瞬きもせず、感情のない顔をして。内容を理解すればするほど、慎二の頭の中に絶えず流れる単語と短い文章が心を蝕んだ。
「それは、いつから」
 長く互いに黙った後、慎二は最低限の言葉を苦労して発した。
「いつから、市郎太はそんな思いを」
 喉に詰まったような声を絞り出している。
「何年も前から……だと思いますけど」
 光樹は濁して答えた。すると、突然慎二は口角を上げることなく、笑ったような声を出してから呟いた。
「そんな話、市郎太から聞いたことがない」
 やっと戻ってきた慎二の感情。それは、思い煩うほどの嫉妬。よく、この感情が炎に例えられることの正確さを慎二は思い知った。
「そうだ、そうか。市郎太は君と出会ってからどこかおかしいんだ。ああ、あの時、市郎太が自分に向かって嫌いだと言ったあの時、あの時にはすでに……! どうして気づいてやれなかった!」
 次に、今後忘れることのないであろう罪悪感。心の四方を囲む後悔と自責の念が、慎二を苦しませた。
「変わってしまった」
 慎二はよろけた拍子に棚に手をついた。揺れて落ちた天使の飾りは、きらりと光った直後、か細い音を立てて砕け散った。
「お前のせいで」
 最後に、身を焦がすような激しい怒りを露にした慎二は、光樹の目の前まで迫った。光樹は怖がったような顔をしている。しかし、慎二には光樹をいくら睨みつけても、その視線がすり抜けているような、妙な感じがしていた。まるで、中身が空洞の筒を覗いているような、そんな感覚だ。慎二は光樹の奇妙さが、市郎太をおかしくさせたのだと考えた。もはや、そういった思考しかできなくなっていた。
「化け物め」
 さらには鋭利な言葉を突き立てると、光樹の胸元に人差し指を押し当てた。
「いいか、市郎太はお前と一緒に死ぬことはできない」
 慎二の射るような眼光が、今度こそ光樹の瞳とかち合った。
「市郎太には生きる理由があるんだ。それを、お前なんかに——」
 突如、光樹は慎二の手を掴んだ。
 そして、自分の胸元から引き離す。慎二がいくら力を込めて抵抗しても、強い力で握られたまま、振り払うことができない。今度は慎二を見つめる光樹の視線が、慎二を捉えて逃がさなかった。
「槙原さんは、市郎太さんから生きる理由について、話されたことがあるんですか」
 慎二はすぐに「ある」と、答えようとした。だが、言う寸前で声が出なかった。瞬時に思い起こされる数多の記憶の中に、求めているものがなかったからだ。
 光樹は掴んでいた慎二の手を、ゆっくりと下ろして放した。
「決めつけるようなことを言わないでください」
 光樹の言葉は強い衝撃となって、慎二の心に振り下ろされた。文字通り何も考えられなくなった慎二は、自分が冷静になっていくのを感じている。頭の中を覆い尽くしていた単語や短い文章たちは、徐々にまばらになって散っていった。
 
 激しい波は去っていった。音が消えた部屋の中、粉々になったガラス片だけが先ほどまでの喧騒を遺している。空気の重さを身で感じ始めた慎二は、眼鏡を押し上げ顔を拭うように手で撫でた。
「光樹くん」
「はい。何ですか?」
 光樹の明るい声色が降り注げば、慎二は目を合わせることもできず、ただただ深く頭を下げた。
「すまない。酷いことを言ってしまった。冷静さを欠いて、感情的に言葉を君にぶつけた。本当にすまない」
 光樹はしばらく慎二を眺めた。それから、いつもの微笑みを顔に出すと、慎二の背中をさすった。
「大丈夫ですよ。顔をあげてください」
 体を起こした慎二の顔は、少し青ざめている。無事に平静さを取り戻しはしたが、光樹から聞いた市郎太との話が嘘になるわけではない。あれほど取り乱したのだ。慎二にとって市郎太の存在がどれほどのものなのか、それはもはや他人には想像ができることではなく、踏み入ることもできないだろう。
「光樹くん、こんなことを頼む資格は自分にはないのかもしれないけれど、お願いがあるんだ」
 慎二は一歩下がった拍子に、片足の裏に痛みが走った。背後に散らばるガラス片を一瞥する。
「何ですか」
 光樹はそんな慎二の痛みに気づいていない。ただ、視界の奥で僅かに光を反射させて輝くガラス片を綺麗だと思いながら訊いた。
「光樹くんの知っている、市郎太について教えてほしい」
 そして、慎二がそう言うと、光樹は先ほどまで浴びせられた無礼を忘れたように、快く応えるのだ。
「良いですよ。槙原さんは、市郎太さんのことが本当に大切なんですね」
「ああ、もちろん」
 慎二の頬に血色が戻る。
「自分には市郎太がいないと駄目だからさ」
 慎二の市郎太への盲信はまだ、消えていないようだ。
 
 市郎太が帰宅する頃にはもう光樹はおらず、出て行った時と同じように慎二だけが居間にいた。存外、対談が良いものであったことを市郎太が話すと、慎二は少し遅れて「そうか」とだけ言った。
 慎二はつらかった。光樹から自分の知らない市郎太のことを教えてもらったというのに、今相手にしている市郎太が今まで通りにしか見えないことが。本心を隠されているようで、耐え難い寂しさが慎二を襲っている。
「市郎太」
 堪らず名前を呼べば、溢れ出す言葉を止めることができなかった。
「今日、光樹くんから聞いたんだ」
 市郎太の顔色が変わる。慎二は光樹から聞いたこと、それは自分が光樹に詰め寄って言わせたことを話した。市郎太は慎二を軽蔑こそしなかったが、自分との拗れた関係の問題を改めて考えるべきだと感じた。
「慎二は、それらを知ってどうしたいんだ」
「市郎太を助けたい」
 慎二は真摯な態度でそう告げた。しかし、内側では光樹に向けたあの悍ましい感情がまだ、粘質な泥のようにこびりついている。市郎太がそんな慎二と言葉を交わしていて感じ取ったものは、やはり慎二の自分に対する盲信を秘めていて拗れた感情だった。
「随分と攻撃的だな」
「攻撃的? どこが」
「助けるという行為の前には、必ず対象を脅かす存在があるだろう。今の慎二の発言は、光樹への批判に思える」
 光樹に対する考えの相違で、二人の関係に歪みの陰が差している。慎二は市郎太を守りたくて、光樹のことをそれを阻む人物だと思っている。対して市郎太は光樹を悪く思うような心はなく、今は庇ってやりたい。
 机の下で、何度もつねった慎二の手には、考えあぐねた痕跡としてあざができていた。それは、脈打つような痛みと火照りを慎二に感じさせていた。
「どうすれば、お前を守れるんだよ」
 俯く慎二の湿気た言葉は、重さを持ってこぼれ落ちるように消えていった。市郎太はそれを、聞かなかったことにしようとは思わなかった。
「明日死んでしまおうと本気で思うことで、生きられる日もある」
 死が手を伸ばせば届く距離にあること、そして、死への欲求そのものが今の市郎太を生かしている。では、その死の共有を約束した光樹とはいったい何なのか。慎二は目を背けたくなるような事実に気づき始めていた。
「光樹ってのは、お前の何なんだ」
 虚ろな目をした慎二に対して、市郎太は答えることを躊躇いはしなかった。
「今の私の、心の在り処だ」
 突きつけられた事実は、慎二にとって最悪なものだった。深い苦しみと悔しさが込み上げる。
「市郎太」
「なんだ」
 慎二はこれ以上、足掻く気丈さはなかった。
「いちろうた……」
「だから、なんだ」
 泣きこそしていないが、慎二はすっかり弱っている。心の疲弊をもう誤魔化すことができなくなっていた。何が言いたいのか自分でもよく分かっておらず、いきなり机に伏せたかと思えば短く呻いた後、顔を上げて萎れたような表情を見せた。
「自分は市郎太がいないと駄目なんだよ」
「何なんだ急に、気色悪い」
 動揺も同情もしない市郎太に、慎二は素直に傷ついた。しかし、市郎太を悪く思うことはない。
「そう言うなよ。友達じゃないか」
「友達だからといって……」
 市郎太が言い淀む。そうして訪れた不自然な沈黙の理由を理解した慎二は、気を良くして頬を緩ませた。
「まあ、少なくとも光樹は私がいなくても大丈夫だが」
「あいつは友達じゃなくて、心中相手だろ」
 机に片肘をついて迫った慎二から、市郎太は顔を背けた。それから、鬱陶しそうに慎二の肩を押すと、慎二は大人しく座布団の上に戻る。そして、ため息をひとつこぼすと、また萎れた表情をするのだ。
「死ぬなよ……」
「喧しいやつめ」
 慎二を邪険に扱う市郎太だが、決して慎二を憎んではいない。むしろ、この時間を嬉しく思う気持ちさえあった。今この瞬間だけは、対等で自分の想像する友人のような関係でいられている気がするからだ。
「いつか、いや、近いうちに光樹からお前の心を取り返してやる」
「そうか。せいぜい頑張りたまえ」
 盲信も劣等感もない会話ができている幸福を、市郎太は感じずにはいられなかった。
 一方で慎二はというと、やはり市郎太の心の在り処が自分ではないことを気にしていた。
「市郎太は、自分のこと嫌いか?」
 自分自身を指して尋ねる慎二は口角こそ上がっているが、内を満たす不安があるようで、それは市郎太にもひしひしと伝わっている。そんな慎二を相手に、市郎太が今回、言葉に迷うことはなかった。
「私は君の悪いところを君より多く言えるだろうし、君に対して好ましくないと思っていることを、君が耳を塞ぎたくなるほど詳細に言える自信がある」
 慎二は、市郎太が話し終える前に言葉の真意を推し量ろうとする心を抑えた。期待と恐れの均衡を保とうと努める。それは、市郎太も同じことであった。
「だがしかし、それは君自身そのものを嫌うこととは意味が違う。分かってくれるか」
 慎二は市郎太を理解したかった。その一方で、市郎太は慎二に理解されたかった。考えの相違で差す歪みの陰は、この調和した想いだけは覆ってしまうことはないだろう。
 これが慎二との関係の一縷の希望になるかもしれない。市郎太はその予感を胸にしまった。

【第五話】一緒になら死ねる。


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