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【第五話】一緒になら死ねる。

 その日の夜のことだった。市郎太の携帯に、一件のメッセージが届いた。
『今夜、午前一時過ぎに橋の上に来てください。お願いします。』
 差出人の名前には「光樹」とある。思い出すのは、あの心中未遂を巻き起こした一枚のメモ用紙。市郎太は、メッセージを一度だけ読むと、何も返事を返すことなく、携帯の画面を伏せるように机に置いた。これで十分だからだ。伝えて、伝わればそれだけで、二人の間で約束は成立する。それもあの日と同じであった。
 
 深夜。寒さで震えないように身支度を整えた市郎太は、一本の真新しい懐中電灯、そして、縄と足継ぎを抱えて家を出た。これらは、決して出会った時の再現などという雰囲気づくりのための道具ではない。市郎太の極めて捻くれた行動原理に基づいて抱えられている。
 外に出て、懐中電灯を点灯させれば、市郎太は光の先を見た。
「あの世千日この世一日。さて、どうだか」
 木製の足継ぎの重みが、今の市郎太にとっては苦痛になり得なかった。
 
 午前一時過ぎの橋の上。約束通り、光樹はそこにいた。灯りは持たず、縄と足継ぎを持ってそこにいた。今日は川のせせらぎは聞こえない。静かなこの場所で、互いに吐く白い息だけが音を連想させていた。
「行きましょう。市郎太さん」
 光樹が指差したのは、橋の向こう側。手頃な木々の生い茂る場所だ。市郎太は深く頷く。
「ああ。私達はそのためにここへ来たんだ」
 暗闇に溶け込まぬ影が二人分。橋の向こうへと歩き出す。懐中電灯の明かりは、先を歩く光樹の足元まで照らしていた。
 
 木々の間で立って見上げる。星も月も隠してしまうように、上部は枝葉で満ちていた。光樹が足継ぎを下ろせば、市郎太もその向かい側に足継ぎを立てた。纏めていた縄を解いて枝に掛ける。光樹がそうすれば、市郎太もそうする。そうして、足継ぎの上に立って、括って引っ掛ける輪を作ったなら、互いの顔が輪の先に見えた。
 目線の高さが同じになる。地面に置かれた懐中電灯は、二人の表情を確と照らしていた。
「これで前に進めるでしょうか」
 光樹の問いに、市郎太は薄く微笑む。それを見て、光樹の胸の内に異変の芽が顔を出した。
「今がその最中だ、君が望むのなら私は最期まで付き合おう」
 今に光樹がこの輪に首をかければ、市郎太も同じようにぶら下がる。光樹はこの状況を期待してここへやってきた。それだというのに、光樹は喜びをはっきりとは感じられなかった。
 縄を握る。少し背伸びをすると、縄の淵に顎が触れた。途端に思い出す今までの記憶。嫌なことも、幸せだったことも、全てを今は許せる気がした。そうして、昨日の景色が見えると、光樹は僅かに唇を震わせた。涙が一滴、こぼれて落ちる。
「ああ、やっと、やっと理解できた」
 もう一滴、涙をこぼす。光樹が縄を手放し、足継ぎを踏み締めるまでを市郎太は見守った。
 今この瞬間、光樹は無理心中を図ったあの時に、市郎太が涙した心を理解したのだ。それは死の寸前に追いやられて感じることのできる「死にたくない」という、あの心のことだ。生きることの苦痛に勝る不安。それを身をもって知ることで、光樹はこの答えに辿り着けた。今の光樹は化け物だ。化け物だからこそ、心を知りたがっている。自分の不完全さに苦悩し、複雑な心情に振り回され、それでいて間違いも正しさも入り乱れた言動をしながら模索する。なんと人間らしいことか。
「帰ろう、光樹」
 市郎太は地面に足を下ろしてそう言った。光樹は市郎太の言葉に手を引かれるように側へ寄ると、嬉しそうに言った。
「僕達はもう、先に死ぬも後に死ぬもないでしょうね」
 市郎太は安心したように微笑んで、懐中電灯を拾い上げた。

【最終話】一緒に死ぬまで、


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