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【最終話】一緒に死ぬまで、

 割れた天使を箒ではいて塵取りへ。慎二が落として割ったガラス細工の片付けをしているのは、橙色のエプロンを身につけた光樹だった。塵取りのガラス片たちを新聞紙の上へ流し、包んでテープで留めると、目立つようにペンで「危険」と大きく書いた。
「後は、不燃ごみとして出すと思うんですけど、一応、確認してから出してくださいね」
「ああ、分かった」
 光樹は市郎太の自宅で今朝、目を覚ましてから、ガラス片の処理の他にも、家中の掃除や片付け、市郎太が失くしていた家の鍵の発見など数々の働きをしている。これには普段、素直に感謝などしない市郎太も労いの一つや二つ、光樹にしてやろうと思い立った。時刻は午前十一時。時計を確認した市郎太は、部屋を出ようとした光樹の前に立ち塞がった。
「どうしました?」
「食事に行こう。私が奢る」
 端的に、やや早口でそう市郎太に言われれば、光樹はいつもより多い思考の過程を要した。
「えー、悪いですよ」
「そんなに嬉しそうにするな。さっさと準備したまえ」
 市郎太が光樹に背を向けてしまうと、光樹はエプロンの紐をほどきながら「はい」と、弾んだ声で返事をした。
 
 カランコロンとベルが鳴る。市郎太が光樹を連れてやってきたのは、お馴染みの喫茶店「メルシー」だ。今日も店内は、珈琲と温かな料理の良い香りが混ざり合い、心安らぐ空間となっている。すでに光樹もこの店を気に入り始めていた。
「いらっしゃいま——うそ!」
 二人の姿を見た小鳩は、元気よく悲鳴のような声をあげた。店内の客達までもが、入り口の方に注目している。
「何名さまですか……?」
 まさか、この台詞を市郎太に言う日が来ると思っていなかったのだろう。何かを疑うような瞳で市郎太達を見上げていた。
「二人だ」
「奥の席どうぞ……」
 案内されたのはいつもの席ではなく、四人掛けのテーブル席。店主の森河までもが、珍しいものを見るような目で市郎太達を見ている。二人は向かい合って座り、隣の空いた席に上着と荷物を置いた。
 メニューを運んで来た小鳩は、やっと状況が飲み込めたのか、普段の明るく咲いたような笑顔を取り戻している。
「お二人のこと、伺ってもいいですか?」
 水とおしぼりを置きながら尋ねる興味津々な小鳩に、市郎太と光樹は同時に答えた。
「駄目だ」
「いいですよ」
 市郎太は光樹と小鳩の視線を無視して、メニューを眺めている。その様子を小鳩はじぃっと見た。
「ほほう、那挫さん動揺してますね?」
「分かるんですか」
 小鳩は顎に手を当てて、誇らしげな顔で「ええ、まあ」と答えた。
「那挫さんはいつも、メニューは見ずに注文されますからね! おめめが落ち着かないんでしょう!」
「へぇ……」
 またも光樹と小鳩から視線を送られるが、依然として市郎太は無視を続けている。反応がなければ揶揄うのもつまらないものだ。光樹が小鳩に選んだ料理を伝えると、続けて市郎太も注文を済ませた。
 しばらくして運ばれてきたのは、フルーツと生クリームのパンケーキサンドとココア、シーフードグラタンと珈琲のセットだ。手を合わせて、挨拶をして手をつける。味の感想を伝え合って、店全体を評価して、たまに小鳩を交えて話して時間を過ごす。料理も飲み物もなくなった後には、心地良い満腹感と想像を上回る幸福感があった。
「ありがとうございました! また、いらしてくださいね」
「はい、是非」
 小鳩と光樹は互いに相手に好感をもったようで、仲良く手を振り合っていた。会計を済ませた市郎太は森河と目を合わせて、交互に会釈をしてから出た。
 
 店を後にしてから、市郎太は光樹を駅まで送っていた。これは出会ってから初めてのことで、光樹が理由を尋ねると市郎太は「気まぐれだ」と、答えた。外はまだ少し気温が低いが、真昼間の太陽は明るく程よく暖かい。市郎太は光樹と短く会話をする度に顔を上げて、その眩しい光を浴びていた。
 ふと、市郎太は光樹の歩き方にぎこちなさを感じた。それは決まって、市郎太と距離が空いてからの仕草だった。市郎太と光樹は身長差があるために歩幅が違い、歩いていると光樹が先を行ってしまう。光樹は間が空いたことに気づく度に、市郎太に合わせていた。それでぎこちない動きをしてしまうのは単に、光樹が他人に歩幅を合わせるということに慣れていないからだった。
 市郎太は光樹のこの不自然な歩幅の合わせ方に、光樹の人となりが表れているように思った。光樹は他人を気にかけたり合わせたりすることができるが、それは光樹本人が気づいて意識している時のみで、しかも完璧とは言い難い。しかし、一度学べば気づこうとすることができる。そんな、光樹の性分を感じていた。
「市郎太さん」
「なんだ」
「僕は『優しい人』になれるでしょうか」
 光樹を見上げた市郎太が見たのは、繊細で上手なあの微笑みだった。それを見て市郎太は、光樹が光樹であることを実感する。
「ならなくて良いと言ったら、君はどうするつもりかね」
 光樹の表情が揺らぐ。だが、それは一瞬の出来事だった。
「いくら市郎太さんの言うことでも、これだけは譲れないかもしれません。でも、なぜそんなことを?」
 市郎太は太陽の眩しさが気がかりだったために、光樹から顔を逸らした。
「興味本位と杞憂だ」
「杞憂、というのは?」
「君が悪魔になってしまわないか、心配したんだ」
 光樹は理解できずに首を傾げた。そしてまた、ぎこちない歩き方をした。
「俗に馬鹿と天才は紙一重と言うが、聖人と悪魔も紙一重だ」
 市郎太は少しだけ、歩く速さを上げた。
「優しさを振り撒く聖人が、その優しさでできた振る舞いや考え方を常識かのように他人に押し付け始めた途端、悪魔になる」
 悪魔より優しさを知らない人間の方がまだ良い。そう、市郎太は続けようとしてやめた。先の発言はほとんど出任せのようなものであり、これ以上適当なことを言う気にはなれなかったからだ。聞いていた光樹はというと、市郎太の言葉に感心している様子だった。
 二人並んで歩く時間もそろそろ終わりを迎えようとしている。駅が見えてくると、市郎太はこの晴天の中で、夕日を見たかのような侘しさを感じた。
「お別れですね」
 光樹が寂しそうにそう言えば、
「どうせまた会う」
 と、市郎太は言った。
「そうですよね。だって、僕達は死ぬまでは一緒ですもんね」
 心中という約束で繋がれている二人は、共に死ぬその直前まで一緒にいる。光樹はその瞬間を信じて疑わず、いずれ訪れることの尊さを感じていた。
 駅を背にして光樹が振り返る。市郎太は別れの挨拶よりも先に、その名前を呼んだ。
「光樹」
「なんですか」
 出会った時から変わったのは、光樹だけではないことを市郎太は感じていた。
「いつか将来の話をしよう。死ではない、すぐ近くの未来の話だ」
 でなければ、こんな言葉を口にすることはなかっただろう。
「そうしていつか、互いに叶えられることが増えたなら、」
 二人を繋ぐ縁は、あれから大きく形を変えた。
「まるで変わった世界や人々の中で生きてみようじゃないか」
 心中という、相手がいなければ為せない死の約束。
 
「一緒に、死ぬまで」

 それは途方もなく続くであろう、命綱の形を成した縁だ。

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