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さらば愛しのさしずめ教 旧

 つまり、つまりだ、苦しさより不安が勝った時、今までのつらさが途端に分からなくなるのです。
 
 部屋の真ん中。ダンボールが一つ。底は深くて薄汚れています。もう時間がないのです。わたしの将来に不必要な趣味も遊びも行動も、全て止めなければなりません。衣服も教科書も端末も家具ですら、全てが等しく入り乱れている床。この全てをあのダンボールに入れてしまおうと思うのです。きっとこの部屋は見違えるほどに綺麗になるでしょうね。
 一つ掴んで暗い底へ。二つ重ねて丁寧に。三つ寄せて整然と。まだです。まだ部屋は散らかったまま。これを何度も繰り返しましょう。すぐに淵まで迫るお荷物。入りきらないものも構わず重ねて、ダンボールを覆ってしまうように。わたしの将来に全て必要ないのですから、遠慮はいらないのです。
 最後に時計を詰めてしまいましょう。もうわたしは時間と共に過ごすことはありませんから、これも不必要なものです。輪郭を撫でて、優しく、優し——
 衝撃音。ガラスの割れる甲高い音。今まで生きてきて初めて見たパーツ。その全てが五感にキラキラとした感覚を与えた。
 見てください。もっとよく観てください。
 部屋は見違えるほど清々しいでしょう? わたしに明日はありませんが、今はこれでいいと思えるので、さしずめ悲しいことはありません。心よりこの時間に満足したのです。
 窓の外、空は夢みがちな極めて不快な色をしています。手を伸ばしても、何も掴んでくれはしません。それでも今は不思議と、今までの差し詰めを許せるような、愛せるような、そんな気持ちがするのです。
 時間がきましたね。今が時間切れです。
 それでは、それでは、それでは。わたしはこれで、失礼します。
 風を切る腕が、ひどく冷えた。

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