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【第三話】一緒に死ぬためだ。

 ペンを走らせる一人分の音があった。落ち着きなく体勢を変える一人の人間がいた。黙って作業を進める二人だが、心の中は言葉で埋め尽くされていた。
「忙しいな。気が散る」
 ペンを止めることなく市郎太がそう言えば、光樹は姿勢を正して動きを止めた。あれから数週間経ち、光樹の脚のギプスは外れている。
「すみません」
 二人は市郎太の自宅の奥の洋室で机を挟み、遺書を書いていた。市郎太は原稿用紙に、光樹は便箋に文字を書き連ねている。すでに三枚目の用紙が埋まりかけている市郎太に対し、光樹は一枚目の便箋を四行ほど埋めるのがやっとで、どうやら行き詰まっているようだ。
 元はと言えば、光樹が市郎太に一緒に書こうと申し出た遺書であり、内容を考えて来なかったのかと市郎太に呆れられたのはつい数分前のことである。数文字書いては手を止めて、少し後悔してからまた文字を書く。光樹は目の前の紙に、遺書としての価値を未だ全く見出せてはいない。そんな光樹が、五行目の壁を乗り越えられずにいる最中、市郎太はペンを置いて用紙の束を整えた。
「書き終わったんですか」
「ああ」
 市郎太が慣れた手つきで用紙の束を折りたたみ、用意していた封筒に入れてしまうと、光樹の焦りは一層増した。
「ゆっくり書きたまえ。死ぬまでに形にすれば良いのだから」
 市郎太と光樹にとって「死ぬまでに」という期限は、悠長なのか性急なのか定かではない。ただ、このままでは光樹には遺書が完成する様が想像できないのは確かであった。
「こんなことを訊くのはおかしなことだと分かっているのですが、」
 立ち上がろうとしていた市郎太は、座り直して光樹を見た。
「遺書を書くコツなどはあるのでしょうか」
「そんなものはない」
 市郎太の無慈悲な返答を、光樹は予想していたものの、落胆せざるを得なかった。
「だが、私なりの遺書を書く際の考え方ならある」
 光樹は市郎太の言う「考え方」というものが、自分の尋ねたコツと何が違うのかを考えかけてやめた。こういう時は大抵、市郎太にしか分からない、他人が知ろうとしてもどうしようもない機微があるのだ。
「是非、教えてください」
 光樹は机から手を下ろした。机の下では、シャーペンを強く握りしめている。市郎太は自分の遺書を一瞥した。
「まず、書く前に考えることだが、一つ目はこの遺書は誰かに宛てた手紙なのか、それとも独白なのか、だ。そして二つ目に、誰が読むのか、だな。それは、特定の人物でも良いし、不特定でも良い。はたまた、誰かに読まれるつもりなく書いても良い。この二つを考えることで、内容の方向性が多少定まる」
 光樹は途端に自分の目の前の便箋に書かれた文字列が、稚拙でまるで意味を成していないものに見えた。さらに、独白という形式の遺書という選択肢を知ったことにより、内容を一から考え直したくもなった。
 光樹の右手が居場所をなくしたかのように、自分の顔や首を撫でる。それにより、光樹の悩みが悪化したのは見てとれるが、市郎太にそれを気にかけるつもりはさらさらないらしい。
「私は書く内容そのものを考える時は、人生の振り返りや走馬灯を想像することもある。だが、それはエピソードそのものよりも、その時に湧いた感情から得た知見や自説を取り上げて文章を考えることが多い」
 求められた内容を話す。ただ、それだけのことを市郎太は全うした。そこに、光樹の心情への配慮など不純物のようにしか思っていない。
「だがしかし、そうだな、」
 ところが、その不純物は市郎太の言葉を濁らせた。
「私がこういった書き物を手早くこなせるのは、常に考え事をしていることも理由の一つかもしれないな」
「常に……?」
 市郎太は不快だった。自分が心を見せた途端に言葉を理解し始めたような光樹のことが、少しだけ気に入らなかった。
「考えていないと不安なのだよ。私はそんなに凄い人間ではないからな」
 苛立ちは人間を正直にさせる。市郎太は先の発言をしてから、自分が光樹の問いに素直な答えを渡してしまったことに気がついた。
「僕は市郎太さんのこと、凄い人だって思いますよ」
 光樹の瞳はいつだって純粋だ。だから、優しい言葉を口にした時、それが嘘なのか本心なのか、それとも本心にしたい言葉なのかを見分けるのは非常に難しい。それは時に、市郎太にとっても同じことだった。
「だからなんだ。君がそう思い込むように、私も私自身を取るに足らない人間だと思い込んでいるだけだ」
 市郎太は光樹の瞳から逃げることにした。書き終えた遺書とペンを持って立ち上がる。
「思い込んでいるという自覚があるんですね」
「ああ。私は私が卑屈であるという自覚があるからな」
 しかし、つい言い返してしまった。当然、市郎太の部屋を出ていく足は止まっている。発言の揚げ足取りなど、悪意のある言動のように思えるが、そこに悪意がないのが光樹である。市郎太は光樹との、すり抜けるように噛み合わない会話が心底嫌いだった。
「でも、市郎太さんほどの人が自らを卑下してしまうと、その他大勢の人々まで貶めることになりませんか」
 光樹は市郎太の卑屈を覆そうとした。それは、市郎太を庇うための言動だったのだが、否定的な言葉を使ったことには変わりない。そこには、光樹の抱える誰も傷つけたくないという不条理な優しさが垣間見えていた。
「それで結構だ。私の卑屈な発言で傷ついたり、劣等感を植え付けられるのなら本望さ。なんせ、私は自らを多少なりとも凄いだの特別だの思っている奴の心をへし折ることで、自分の醜さを改めて知りながら昂ることができるからな」
 それに対抗するかのように、市郎太は悪辣な心情をぶつける。それでも光樹の瞳に軽蔑の感情が見えないことが、やはり気に入らなかった。自分ばかりが熱を上げている。そう、自覚した市郎太は、心を落ち着かせる時間を求めてドアの取っ手に手をかけた。それから、光樹の方を見ずに言った。
「すまない。今日は勝手に帰りたまえ」
 光樹には市郎太が何を後ろめたく思って謝ったのか、まるで分かろうとしていなかった。
 それから、光樹は洋室で独りの時間を過ごした。しばらくして、光樹は筆が進む気配がなくなった頃、遺書をリュックの隙間に適当に入れ込み、市郎太の気配を感じながら黙って玄関を出て行った。
 
 翌日になり、光樹は市郎太のように常に考え事をするということを実践していた。それにより、周囲の事物への理解を深めることや自己分析などは捗ったものの、肝心の遺書は書き進められていない。大学での授業も、思考が逸れるために上の空である。そして、そんな光樹を見つめる一人の学友がいた。
「光樹、大丈夫?」
 彼女は和澄 紗綾。光樹とは同じ高校の出身であり、大学でも同じ授業が多いためか、よく一緒に行動している。今は今後に控えている発表の為に、グループワークの最中であった。
「大丈夫だよ。話は聞いてるし」
 光樹がレジュメに書き込んだメモを指差す。内容に不足はないが、それでも紗綾は心配を顔に出した。
「体調悪いなら言ってね」
「ありがとう」
 微笑みを返す光樹に、紗綾は満足感を得ていた。
 課題に取り組む班員は四人。各々の作業と話し合いを進め、発表の原稿作成と質疑応答の対策までが済むと、後はパソコンで作成していたプレゼン資料を完成させるのみとなった。ここで、授業の終わりを告げるベルが鳴る。
「今日中に作った方がいいよね? 完成したらデータを送るよ」
 資料作りを担当する光樹が何も苦でないようにそう言うと、紗綾以外の班員はお礼を言って、そそくさと教室を出て行った。次々に生徒が退室していくなか、紗綾は一度席を立ったものの、すぐに光樹のそばへ戻ってきた。光樹は視界の端に居続ける紗綾を気にしつつ、話しかけようとはしない。紗綾は少しの間まごついた後、勇気に押し出されるようにして声を出した。
「光樹。先生に聞いたんだけど、この教室、五限まで空いてるから使っていいって」
 作業の手を止めた光樹は、紗綾を視界の中央で見た。
「ありがとう。訊いてくれたんだ、助かるよ」
 人の好さそうな笑みを浮かべた光樹に、紗綾は喜びで頬を赤らめながら微笑み返した。
 キーボードを打つ音や、話し声は次第に減っていく。紗綾は作業をする光樹を見つめながら、自分のやかましい心臓の鼓動を聞いていた。
「和澄さん」
 光樹に呼ばれれば、紗綾の鼓動はより一層速くなる。
「なに? 光樹」
 期待を込めたような声が返ってくれば、光樹は優しげな視線を向けた。
「後は僕の作業だけだし、和澄さんは帰っても大丈夫だよ」
 紗綾はすぐには言葉を返さなかった。一人、また一人と教室を出ていく生徒を横目で見る。そうして、この空間に光樹と自分の二人だけになると照れたように言うのだ。
「それは、申し訳ないよ」
「気にしなくていいのに」
 光樹が笑うと紗綾も笑う。光樹がパソコンへ向き直ると、紗綾は少しだけ寂しく感じた。互いに何を話すわけでもなく、たまにこぼす光樹の独り言だけが、この場を繋いでいる。教室の外の騒がしさが、二人には届いていないようだった。
 ふと、光樹の手が止まる。悩んだ様子で手元のレジュメを眺めていると、紗綾がここぞとばかりに身を乗り出した。
「どうしたの?」
 光樹が画面に映し出されている文字列を指で撫でる。
「この部分を少し修正したいんだけど、今日まとめた範囲ではなさそうで」
「前回やったところっぽいね。あたし、資料持ってるよ」
 紗綾が机にかけていた鞄を膝の上に乗せたところで、光樹は自分のリュックを取った。
「僕も自分の持ってるから。大丈夫だよ」
 先を急ぐように、中からプリント類を挟んだファイルを取り出す。その時何かが、すとん。と真下に落ちていった。光樹がそれが何かを認識するよりも早く、紗綾が手を伸ばす。拾い上げたそれは、厚みのない封筒だった。
「光樹、これ……」
 光樹に返そうとした紗綾が言葉を失う。それだけで、光樹は自分が落とした物の正体が分かった。
「『遺書』って、なんで、嘘でしょ?」
 胸の中心が冷えていくような感覚が、光樹の表情を曇らせる。何と答えるべきか。何と答えれば紗綾と自分を守れるのか。焦るべき状況で、光樹はすぐにいつもと変わらない微笑みを浮かべ直した。
「お願い、返して。大切なものなんだ」
 光樹が手を差し出せば、紗綾は席を立って後ろへ下がった。そして、僅かに震えながら首を横に振ると、光樹はまた胸の奥に冷えを感じた。
「どうして返してもらえないのかな」
「だってこれ……光樹、死ぬつもりなの?」
 光樹の答えは決まっている。しかし、その答えを口に出すことが極めて難しい。紗綾はなかなか思った返答をしない光樹の前に座り直した。
「や、やめようよ。死なないでよ。あたし、話聞くし、できることなら何でも協力するから……!」
 依然として遺書は紗綾の手の中で、歪むほど強く握りしめられている。光樹はその手元ばかり見つめていた。
「大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ!」
 紗綾が泣き出しそうな顔をしていることに、光樹は今、気がついた。震えていて、耳まで赤くして、瞬きをした拍子に涙が落ちる。その雫が遺書を濡らすと、光樹の感じている冷えが、体温を奪っていくように体の内側全体へ広がっていった。
「どうして、和澄さんは僕に死んでほしくないの」
 起伏のない声だ。素直で取り繕っていない、正直な疑問。紗綾は迷ったように、意味のない呟きをこぼす。光樹は紗綾が答えるまで、ひたすらに頭の中で自分の感情を分析していた。二人は手を伸ばせば触れられる距離で、前を向けば目が合うというのに、今は互いに相手を見ていない。
「あたしね、」
 自分の内面ばかりに目を向けていて、この場に両思いなどという気持ちは存在していなかった。
「光樹のことが好きなの」
 だから、この告白に特別な感情を抱かせる力などまるでなく、光樹にとっては一つの経験でしかない。優しい断り方、振る舞いかた、適切な今後の関係の提案。それらばかりを考えていた。
「ねえ」
 紗綾は光樹の手を握った。触れる体温、感じる震え、そして遺書の封筒。
「あたし、光樹のこと助けたい」
 思い出すのは市郎太と出会ってすぐのこと。光樹は自分の言動を思い返して、当時の市郎太の気持ちが分かったような気がした。
「お願い、できる限りのことするから。あたしと一緒に生きてよ。光樹」
 握られた手をしばらく見つめて、光樹は紗綾の手から、遺書を抜き取った。
 短く乾いた音を何度も鳴らした後、それは白い紙吹雪と化す。光樹は散ったそれらをかき集めて、教室内に置かれた屑籠に流し込んだ。
「みつ——」
「ごめん。できない」
 紗綾に背を向けたまま、光樹ははっきりと答えた。優しい断り方、振る舞いかた、適切な今後の関係の提案。それらよりも優先したいことが光樹にはあったのだ。
「どうして!」
 それは、嘘偽りのない意思表示だ。紗綾の方へと向き直った光樹は、もう微笑んでいない。
「生き続ける理由を和澄さんにはできないし、和澄さんが僕にできることもない」
 目に涙を溜めて立ち尽くす紗綾を見て、光樹は不思議と心が軽かった。
「それに、僕が今こうして生きているのは、とある人と一緒に死ぬためだから」 
 紗綾はまた、涙をこぼした。それは、紗綾の気持ちと光樹への想いが折れたことの証だった。
 光樹は紗綾のそばまで戻ると、紗綾に見向きもせずに席についた。そして、何事もなかったかのように資料作りを再開すると、紗綾は濡れたままの瞳で光樹を見下ろした。
「そのとある人って、光樹の何なの?」
 訊く紗綾と、久しく目を合わせた光樹は微笑む。
「その人は、僕にとっての居場所だと思ってる」
 しかし紗綾は、光樹のその微笑みを初めて見たような気持ちだった。
「光樹、なんか変だよ。らしくないよ」
「違うよ。らしくなったんだよ」
 言葉を口にすれば口にするほど心が軽くなる。光樹はそれが、本心を伝えることの喜びだと認識していた。
「もう、なんにも分かんない」
 紗綾は最後に、行き場のなくなった心を吐き捨てると、廊下で行き交う足音の中に紛れていった。
 教室に残った光樹は資料の修正を済ませると、作成したデータを班員のグループチャットに送ってパソコンを閉じた。それから、時間を確認すると急ぎ足で市郎太の家へと向かうのだった。
 
 玄関で光樹を出迎えた市郎太は、少し気怠げで髪が乱れていた。今日は光樹が来る予定でなかったために、昼寝でもしていたのだろう。それでも、市郎太は気を悪くすることなく、光樹を奥の洋室へ通すと、まだ眠そうな声で用件を尋ねた。
「少し話を聞いていただきたくて」
「私はカウンセラーではない」
「市郎太さんだから話したいことなんです」
 光樹の笑顔はぎこちなかった。口角は上がっていて、眉は下がり、そして憂いを含んだ眼差しをしている。そして、突然の相談事。市郎太は知りたくなった。今日、いったい光樹に何があって、彼をこのような心にさせたのか。市郎太のこの疑問に潜むものが、いわゆる心配というものなのだが、市郎太はそれらから目を背けて光樹に話すことを促した。
 光樹は今日の紗綾との言葉のやりとりを、市郎太に向けて詳細に話した。告白されたことを含む、覚えている限りの紗綾の一言一句。そして、自分の発言も事細かに伝えている。それは、市郎太への信頼と細かく話す必要性を感じたゆえのことだった。
 光樹にとって市郎太は、言葉に関して自分より上手の人物だ。だからこそ、先ほどの紗綾との会話で自分の心の中に生まれた考えや、気持ちという言葉を解きほぐす相手として選んだのだ。
「和澄さんの求めている返事や態度は、考えてみれば分かったのかもしれません。それなのに僕はそれをせず、本心を明かすことを優先しました」
 市郎太は相槌すら打たず、黙って聞いていた。
「僕は他人に優しくなりたいと思いながら、他人を理解することが苦手で、面倒だとも思ってしまうんです」
 続けて光樹が、どうすればこれを克服できるのか。そう、訊こうとした時だった。
「当然だ。君は君という一人の人間なのだから」
 市郎太は目を伏せてそう言った。多少眠気が覚めてきたのか、いつもの不貞腐れたような顔をしている。光樹は胸の高鳴りを感じ始めた。
「他人という自身と別の思考を持つ人間を理解し、さらには気を利かせてやろうなど、善人のやることだ。自惚れるな」
 速まる鼓動と崩れるように消えていく思考の壁。客観的には罵られているというのに、光樹は励まされているような気がしてならなかった。市郎太は続ける。
「君は善人ではない。そして同じく、君が相手にした人物も善人ではない」
 光樹の蟠りに、市郎太の言葉が絡みつく。
「二人揃って自己中心的だ」
 それには薔薇のように棘があるが、痛みは少なかった。
「しかし、君と相手には違いがある。君はこうして我儘で矛盾した自己を持っていることに気がついて分析し、反省だってできている。しかしどうだ、相手方はそれに気づかず、押し通そうとしているではないか」
 いつだって取り繕うことのない市郎太の言葉に、光樹は惹かれていた。
「この違いがある限り、私は君を軽蔑することはないし、そんな君を貶めることが許される人間は、なかなか居るものではないだろうさ」
 話し終えると、市郎太は口元に手を当てて欠伸をした。知りたいことを知って、言いたいことを言い切って満足したのだろう。市郎太は光樹に帰ってほしそうに部屋の扉や時計を見やっている。しかし、すっかりいつもの笑みを湛えている光樹には、まだ市郎太に言いたいことがあった。
「今日は、いつもより優しいですね。僕のために、そんなに分かり易く励ましてくれるなんて」
 途端に市郎太は不愉快そうな顔をした。光樹はそれにすら安心感を得ていた。
「一緒に死ぬためだ。君の気持ちに揺らぎがあっては、約束を果たすことに支障が出るからな」
「律儀ですね」
 光樹は嬉しそうだ。心中の約束をした関係を受け入れていることが同じだと分かったことで、より市郎太に心を預けられるのだ。
「結局は、約束を破りたくない私のためだ」
「僕と同じですね。自己中心的で」
「一緒にするな。話が済んだならさっさと——」
 市郎太が扉を指差すよりも先に、光樹は「あ!」と声をあげながら握り拳を差し出した。その動きの突飛さと素早さで殴られるのかと思い、市郎太は守るような姿勢で縮こまっている。数秒後、恐る恐る防御の体勢をといた市郎太は、差し出された光樹の開かれた手の中に、一片の小さな紙屑があるのを見た。
「何だね、これは」
「僕の遺書です」
 よく見ると、紙屑には罫線が入っている。
「汚れたので、破いてしまいました」
 光樹はそれだけ言うと、その紙屑をリュックの中へ適当に落とした。その時の光樹は、どこか誇らしげで、市郎太には幼稚に見えた。
 そして、市郎太は少しだけ考えを巡らせた後に、心底呆れた顔で「そうか」と、口にするのだった。
 
 また一緒に遺書を書く約束をしてから、光樹は満足そうに市郎太の自宅を去って行った。玄関で見送った後、市郎太は書斎に向かう。仕事をする準備に取り掛かったところで思い出したのは、光樹が汚れたから破いたと言って自分に見せた紙屑のことだった。市郎太は考える。
 ——今日、光樹から聞いた和澄紗綾とのやりとりの話の中では、遺書は破かれていない状態で登場し、話の途中で光樹の手によって破かれた。その最中で遺書が汚れるような出来事はない。
 ならば、遺書は和澄紗綾とのやりとりの前にすでに汚れていたのか。それは考えにくい。光樹は「汚れたので、破いてしまいました」と言った。汚れたことが最も大きな理由ならば、汚れてから放置せず、その場面より以前で破いていてもおかしくはない。
 汚れてから自宅で処分したいと思っていたという可能性もあるが、教室で躊躇いなく破り、その場の屑籠に捨てていることから、それも考えにくいだろう。
 何かしらを隠すための嘘かもしれないとも考えたが、それならそもそも紙屑を出して私に見せる必要がない。ならば、「汚れ」というのはいったい何のことなのか。思い当たるものは一つだけだ。遺書の封筒を濡らした、和澄紗綾の涙。
 その考えに辿り着いた市郎太が感じたことは、流々木光樹への多大な勘違いの自覚。市郎太は思い出す。光樹が自分の死にたさについて話した時に使った言葉を。
 ——「僕は、怖がられるのが嫌なんです」
 ——「未熟な僕には優しさの加減ができず、」
 ——「相手に違和感や恐怖を与えてしまうことがある」
 ——「なりたかった『優しい人』」
 見えてきた光樹の本質。市郎太は自問した。自分はいつの間に光樹のことを、善人とは思わずも、優しい人だと思っていたのだろうか、と。光樹の振る舞いは、自分の中に作り出した優しさの教科書を参考にし、取り繕ったものだと市郎太は理解しているつもりだった。
 それなのに何故、いつ、光樹への解釈を捻じ曲げられたのか。市郎太にはすぐに分かった。最初からだ。市郎太はどれほど記憶を探っても、光樹の本質が見えるような言動を見た瞬間が思い出せなかった。存在しないからだ。市郎太が光樹と出会った時にはすでに、光樹の優しさの教科書は形を成していた。
 気づくのが遅かったのか早かったのか、市郎太には分からない。人によっては裏切られたかのような気持ちになる者もいるだろう。しかし、市郎太は違った。顔を両手で覆って机に肘をつく。紙屑を見せつけて汚れたことまで教えたのは、光樹の一種の自己表現で、光樹はそれが性悪の証明になるとも知らずにやった。思いもしなかったのだろう。他人が自分を想って流した涙を「汚れ」と表すことが、優しくないことだと知らなかったから。これらの事実を思い知った市郎太は笑った。
「なんだ、人間らしいじゃないか」
 ただひたすらに、嬉しかったのだ。

【第四話】一緒に死ぬことはできない。



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