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一緒に死んではくれまいか。遺

↓前編の第一話はこちらから↓


 出会いがあれば、別れがある。別れがあれば、再会がある。巡り巡って振り出しに戻る。その最たる例が、季節というものである。途方もなく繰り返されているはずだというのに、毎度厳しい寒さの冬を乗り越えた先の麗らかな春には、何ものにも代え難い真新しい暖かさを肌で感じるものだ。しかし、そんな人々に平等に訪れる素晴らしさに見向きもせず、十畳程度の一室に収まって、原稿用紙、または便箋と向き合う市郎太と光樹がいた。
 ペン先が紙に着地をすれば、小気味よい小さな衝突音を鳴らす。それが、今日は二人分、不規則に交差していた。衝突音、紙の上を滑る短く低い音。しばらくそれらの音だけが存在する空間であったが、一人分の音が止むと、市郎太は手元の原稿用紙を重ねて端を揃えた。
「知り合いの数よりも、遺書の枚数の方が多くなりそうだ」
 市郎太は、すっかり書き慣れた遺書の完成を小言で締め括った。光樹はというと、まだ今日この時まで一通も書き終えられていない。それは、文章を作成する能力の程度ばかりが関係しているわけではなく、光樹の凝り性な質も関係していた。特に自死に関することとなれば、そのこだわりようは甚だしく、今も瞳に熱を宿しながら懸命に書き進めている。ペンを握る手にも力がこもり、若干ペン先が震えていた。
 二人の抱える死への欲求。それは、こうして遺書を書いていることから、消え去ってはいないことは明らかだ。心中の約束が取り下げられるようなことも起きていない。まるで、学生の勉強会のように同じ空間で机に向かい、一つの結末に向けての準備をする様子は、一蓮托生という言葉を彷彿とさせた。
 全体の半分以上が文字で埋まった便箋は、今までで最も多く、深い光樹の心をその罫線の上に受け入れている。その勢いは衰えず、順調に完成へと向かっているように思えたが、この手紙の最後は突如、訪れることとなった。
 雑音。それを認識した時にはすでに遅く、光樹の手の下で、便箋は無惨な裂け目を負っていた。
 光樹から嘆きの代わりに、喉元から息が漏れ出る。これには、市郎太も思わず同情しかけた。それから、市郎太は光樹に衝撃的な悲しみが過ぎ去るまでの時間を与えようかとも思ったが、この場の居た堪れなさが無言を苦痛に感じさせたために、慎ましく声を発した。
「何か、取るに足らない話題が必要かね」
「はい」
 光樹の返事は早かった。
「春休みはいつまでだ」
「一週間ほど前に終わりました」
 未だ裂けた便箋から目を離さずに、光樹は答えた。市郎太は間を空けてはいけないと、口を動かす。
「履修登録が億劫だと以前、君は話していたが、それは無事に終えたのかね」
「はい。水曜日が一日空いていて、木曜日には五限目が入っています」
 光樹の瞳がやっと市郎太を見た。市郎太は、幾分か光樹の表情に人間としての柔らかさが戻ったことを確認すると「そうか」と、簡素な返事をした。
 ため息をついて、破れた便箋を雑に丸めて屑籠へ入れる。光樹のその動作を目で追った後、市郎太はふと浮かんだ疑問を口にした。
「君は死を心待ちにしているかのように振る舞うが、将来、生きた先に繋がる学業を放棄しようとは思わないのだな」
 すると、光樹は「はい」と頷く。
「安定した職業に就きたいという気持ちがありますので、自分から学業を疎かにしたり辞めることはないと思います」
 当然のように光樹は言うが、それが却って市郎太に新たな疑問を抱かせた。光樹は将来のことを考え、漠然としていながらも目標を持っている。しかしこの先、生きていくことに前向きなわけではない。市郎太は光樹に矛盾を感じていた。
「真っ当でいたいんです」
 それを感じ取ったのか、光樹は上目遣いでそう言った。市郎太はやはり「そうか」とだけ言って、それ以上の詮索はしなかった。光樹は新しい便箋の角を摘むように指先で撫でている。
「市郎太さんは、将来のこととか考えないんですか? そういえば、将来の話がしたいと以前、言っていましたよね」
 市郎太の胸がチクリと痛んだ。それは、羞恥心に似た、後悔の念であった。
「考えることもある。だがしかし、最後には人生の変化を夢見るばかりだ」
「詳しく聴きたいです」
 市郎太は光樹の興味が本心なのか、取り繕ったものなのかを考えようとしてやめた。それよりも今は、口を動かさなければ余計な感情で心身ともに縮こまってしまいそうなのだ。
「私は今が続くことが何よりも恐ろしいのだよ。それ故に、変化を望んでいる。そして、私が死を望む理由もそこにある。私にとって、人生が突然終わることこそが、考え得る限りで最も心安らかな変化だからな」
 光樹の反応を、市郎太はあえて窺おうとは思わなかった。それは、先ほど痛んだ胸の辺りに不快な感覚が渦巻いているからだ。こういう時は、何を見ても何を聞いても、卑屈で根拠のない最悪を考えてしまう。市郎太にはそれがよく分かっていた。
「そうですか」
 光樹はそんな市郎太の様子を、遠くを見るかのように眺めていた。

 先の会話を終えて小一時間が経った頃、光樹の遺書が書き上がった。光樹は嬉しさで目を輝かせ、自身が書き連ねた文字達を愛でるように見つめている。市郎太はというと、待ちくたびれたようで、畳の上で丸まって眠っていた。
「できました」
 そんな市郎太を起こさないよう、光樹は小声で報告をした。しかし、市郎太は顔を顰めて唸った後、重そうに体を起こした。
「やっとか」
 市郎太の声よりも関節の鳴る音が響く。机の上を探るように動く市郎太の手に、光樹は水の入ったコップを握らせた。
「これで、いつでも心置きなく心中ができますね」
 浮かれたように言う光樹。市郎太は、ほんの僅かな量の水を口に含み、光樹に便箋を入れる封筒を手渡した。
「未練がましく死ぬのが心中ではないのかね」
「そうなんですか?」
「私の個人的な考えだ。しかし、この世に不満や願い叶わなかったことへの感傷を抱えて、あの世へ向かうというのが普遍的だとも思っている」
 まだ、片目が開き切っていない市郎太は、頭痛でも堪えているかのように眉間に皺を寄せている。光樹は「なるほど」と呟いたが、そんな状態でも自説を述べる市郎太の様子に、納得の感情よりも感心の感情を抱いていた。
 ペンを筆箱に、筆箱をリュックに、遺書をファイルにしまう。光樹の帰り支度をぼんやりと見守る市郎太は、何か忘れているような気がしていた。何を忘れているのか。それを考えるよりも先に、市郎太はふと、目についた文字列を見て「待て」と、光樹の行動を止めた。
「君、まさか持ち歩いてはいないだろうな」
 光樹の手にしているファイルの中には、今まで書き損じた遺書の成り損ない達が複数枚と、大学の講義で配られたものであろうプリントが共に入っていた。遺書の成り損ないは枚数から見るに、今日のものだけではない。光樹は市郎太から目を逸らした。
「えへ」
「誤魔化すな」
 それから、市郎太は光樹に遺書を全て置いていくように言った。光樹はやんわりと反抗する。始まる押し問答。両者、声を荒げることもなければ、強い言葉を使うこともない。しかし、結論を譲る気持ちはないようで、一歩も引かない言葉の応戦が続いた。
 そうしているうちに、寝起きだった市郎太の頭が冴えてきた。次々に光樹の揚げ足を取って追い詰める。光樹が言い淀めばそこを突く。そして、とどめと言わんばかりに捲し立てようとした。
 その時だった。
「市郎太」
 第三者の声がした方を向けば、襖に手をかけて、悲しそうな顔をする慎二が立っていた。話に夢中になっていたばかりに、玄関の戸を開ける音に市郎太達は気づかなかった。
「随分と、仲良しじゃないか」
「他に言うことがあるだろう」
 机に出したままの封筒には、達筆な市郎太の文字で「遺書」と書かれている。それが目についた慎二は、険しい表情をした。
「お邪魔します。何としてでも」
 光樹と心中のことが絡むと冷静さを欠く慎二に、市郎太はどうしたものかと気が重くなった。それと同時に、忘れていたことが慎二との打ち合わせであることを今更、思い出していた。
「お久しぶりです。槙原さん」
「ああ、久しぶり、光樹くん」
 社交辞令のように挨拶を交わす光樹と慎二。実際、二人が会うのは久しい。それもそのはずである。市郎太が光樹と慎二の仲に不穏な空気を感じ取って以来、できるだけ二人がここで顔を合わせることがないよう、取り計らっていたのだ。
「もしかして、市郎太がやけに自分と会う時間にこだわっていたのって」
「僕達を鉢合わせないためだったんですね」
「続きを言わないでくれよ。仲良しみたいじゃないか」
 慎二に不服そうに言われれば、光樹は頬を掻いて有耶無耶に微笑んだ。その態度が慎二は気に入らなかったようで、光樹を僅かに睨んでから畳の上に腰を下ろす。一連の流れを見ていた市郎太は、我関せずと言わんばかりに、自分の遺書をベストの中に隠した。
「打ち合わせをする為に来たのだろう、慎二」
 この空気が長引くことを良しとしない市郎太は、慎二に用件を話すよう遠回しに要求した。慎二は光樹を気にする素振りを見せつつも、鞄の中身を探りだす。
「そう、戯柵の次回作として提案したいテーマがあって、」
 慎二が取り出した資料に、市郎太と光樹は少し身を乗り出して注目した。すると、その資料の表紙中央あたりには「恋愛」という文字が、佇んでいる。途端に市郎太は渋い顔をした。
「恋愛を戯柵らしい解釈と表現で書いてほしいんだ」
「断る。書きたくない」
 はっきりとした拒否の意。しかし、慎二は引くつもりがまるでないらしい。
「『書きたくない』ってことは、書けないわけじゃないんだな」
「ほとんど同義だろう。意欲がなければ作品の完成への足は遠ざかるばかりだ」
「そうは言っても——」
 本日二度目の押し問答。その間に光樹は台所へ向かい、湯を沸かし、茶を二人分淹れてきて、市郎太と慎二に差し出した。そのことに気づいているのかいないのか。市郎太も慎二も光樹に礼の一つも言わず、目の前の議題に夢中になっている。熱心な慎二の言葉にあてられても、市郎太はやはり、大きな声を出すことはなかった。
 それから、十数分ほど経った頃。ついに、書く書かないの議論に区切りがついた。
「分かった、もう少しよく考えて結論を出そう」
 明後日。それを期限として、市郎太は最終的な判断を伝えることを約束した。その表情には、疲れが顕著に表れている。光樹が茶を勧めると、市郎太は弱ったような声で礼を告げて一口すすった。
「光樹くんは、恋人とかいないのか?」
 市郎太は反射的に、口に含んでいた茶を飲み込んだ。慎二の突然の質問に驚いたのは、光樹も同じであり、手元をいじりながら言葉を探している。市郎太は「慎二」と、咎めるように名前を呼んだ。
「すまないね、ちょっと気になってしまって」
「今は、いないです」
 慎二の声に光樹の返答の前半が重なってしまったが、市郎太も慎二も聞き逃すことはなかった。
「数ヶ月前に別れてしまって……」
「へぇ、原因は?」
「彼女がとても優しい方で、その部分を自分と比べてしまってつらくなったから、ですかね」
 光樹の口振りからして、別れを切り出したのは光樹からのようだ。続け様に質問をする慎二はまるで思春期の学生のようで、市郎太は呆れつつも会話の内容を聞いていた。光樹の元恋人は本当に優しく、誰とでも分け隔てなく接することができる人物だったこと。しかし、恋人であった光樹には、特別な扱いもしたこと。そして最近、復縁を求められていること。ありふれているが、物語性のある恋愛話に、市郎太はどんな顔をして聞いていれば良いのか分からなかった。
「光樹くんには、やり直したい気持ちはあるのか?」
「まだ、考え中ですね」
「そっかぁ。また、何か進展があったら教えてよ」
 こんな時にだけ図々しく仲良しの顔をする慎二を、市郎太は快く思わなかった。

 玄関で光樹と慎二を見送る市郎太。二人揃って、また来ることを告げた。市郎太は疲れもあり、早く帰って欲しい気持ちから適当に相槌を打って、柄にもなく小さく手を振った。
 真っ直ぐ駅へ向かう光樹。すると、ポケットに入れていた携帯が、メッセージの通知を知らせた。立ち止まって取り出し、光樹は送信者名を確認する。そこには「波美」と、表示されていた。メッセージの内容は
『光樹くんがよければ、今から会いたいです』
 といったもので、光樹は『分かった』の後に、待ち合わせ場所について送信した。

 中心部にある駅構内の喫茶店。新たに届いたメッセージには『右奥の角の席にいます』と書かれている。光樹は店員に待ち合わせをしていることを告げ、右奥を覗き込むと、視線の先に波美はいた。
 天谷波美、白いワンピースのよく似合う、光樹と同じ高校出身の大学生だ。光樹に気づくなり飲みかけた紅茶のカップを下げて、柔らかく微笑んだ。
「待たせてごめんね」
「ううん。わたしが急に誘ったんだし、気にしないで」
 心を許しそうな笑顔に、安心感のある声。光樹は包み込まれそうな波美の纏う雰囲気が、少しだけ苦手だった。
 椅子を引く動作ひとつさえも、やり方を忘れてしまったかのようにぎこちなく、光樹は自分の緊張感の強さに焦りを感じている。表情は固く、座るなり目が合った波美に、精一杯の愛想笑いをした。それに対して、波美は返事をするように笑い返す。光樹はそんな波美の笑顔に、一瞬だけ緊張が解けた。それが、同時に胸を苦しくさせた。
「先に伝えておきたいんだけどね、」
 光樹はメニューを開く手を止めて、波美の声を聞く。
「復縁のことはゆっくり考えてくれたら嬉しいなって思ってるの。今日も、その話をしに来たわけじゃないし」
「じゃあ、どうして」
「光樹くんと会って、一緒にお茶したかったから。それだけ」
 光樹には分からなかった。自分のためになるわけでもない時間を、他人と一緒に過ごす理由が。もしかして、この時間も後に波美の利になるのだろうか。光樹はそこまで考えて一旦、思考を止めた。波美のような優しい人間には、優しくない自分には想像できない行動原理がある。それを、思い出したからだ。
「ただのわたしのワガママだよ」
 波美が言葉を発する度に、光樹の心臓が怯えたように縮こまる。的確に相手を助ける波美の気遣いに、心を見透かされているような恐ろしさを感じてしまうのだ。
 そして、逃げるようにメニューに視線を向けてから、時間が経つのは早かった。聴き上手で話し上手な波美のおかげで、光樹の緊張は徐々に楽になり、光樹が一杯目の珈琲を飲み終わった頃には、すっかり波美の柔らかな優しさに包まれていた。
 光樹と波美は現在、大学三年生。来年には就活が始まるために、話題は将来の話へと移る。光樹は躊躇いがちに、しかし、正直に話した。
「安定した職業に就ければ良いかなって思ってるよ」
 そう口にした後、光樹は不安でありながらも、波美から目を逸らすようなことはしなかった。波美は肯定を顔に出して頷く。
「いいね。それが一番だもんね。何より光樹くんらしくて良いと思う」
 紅茶のカップを顔に寄せて、微笑む波美から嘘偽りは感じられない。その様子に、光樹は心から安心していた。それと同時に、光樹は紗綾に言われた「らしくないよ」の言葉を思い出し、無意識に波美の言葉と比べていた。
「波美さんは、何かなりたいものとかあるの?」
「うん、あるよ。先生になりたいんだ。国語の先生」
 少し照れくさそうに話す波美に、光樹は先ほどの波美を真似るように肯定を述べた。波美は嬉しそうに「ありがとう」と言う。それで、光樹も嬉しくなる。やっと自分の中の優しさの教科書を開けたような、そんな感覚がしていた。
 光樹が質問をすれば、波美は快く自身のことを話す。光樹が賞賛を口にすれば、波美は感謝を述べる。口数が増えて、この空間に心地よさを感じ始めて、光樹はようやく自然な笑みを浮かべていた。
「良かった」
 そんな光樹を、波美はじっと見つめる。
「なにが?」
「光樹くんが楽しそうにしてくれて」
 光樹の口元が、少し歪んでゆっくりとその口角が下がっていった。波美と合わせた瞳を動かすこともできず、湧き上がる思い上がりへの自覚。
「やっぱり、波美さんは優しいね」
 そして、詰まりかけた息を吐くように言葉を垂れた。その含みのある言い方に、波美が何も察しないわけがない。一度考えるように視線を外した波美が口を開けば、また、聖人の高説が光樹を襲う。
「わたしね、人間、生まれた時から悪い人っていないと思うの」
 光樹は相槌すら声に出せない。
「みんな優しさを生まれながら持っていて、それで、その優しさにもそれぞれ個性があるだけで、そこに優劣はないと思ってるんだ」
 光樹の心が軽くなって、同時に貫かれたように痛んだ。
「光樹くん、」
 そこから醜い本心が流れるのも待たず、波美はとどめを口にした。
「光樹くんの優しさも、わたし、ちゃんと感じてるよ」
 波美の微笑みが、視界の真ん中でぼやけて遠のく。光樹は頭痛と体の中心で主張する不快感を押し殺して、波美のように微笑み返した。
「ありがとう」
 うまく声が出ない。しくじった。光樹は途端に激しい希死念慮に覆われる。そんな光樹に波美が返したのは、戸惑いの眼差しでも、優しい言葉でもなかった。一枚のハンカチ。それを、机に身を乗り出し、腕を伸ばして光樹の頬に軽く押し当てていた。
 光樹が涙を流していたからだ。
「ああ、ごめん。こんなはずじゃ」
 狼狽える光樹の頬から、ハンカチが離れていく。そして、波美は光樹の隣に腰掛けて、もう一度その雫の伝う頬を撫でるように拭った。光樹が泣き止むまでの間、二人の間に会話はなかった。
 涙も気持ちも落ち着いた頃、波美は湿ったハンカチを下げて、机の上の珈琲を光樹に寄せた。
「よければ光樹くんのこと、話してくれないかな」
 取り繕う元気もない光樹は、心をそのまま口にする。
「波美さんにはきっと、分からないよ」
 それでも、波美は嫌な顔ひとつしなかった。
「今はそうかもしれない。だから、教えて欲しいな。わたし、光樹くんの気持ち、ちゃんと理解したい」
 光樹には、話してしまうことが逃げ道のように思えた。

 話は波美と別れた理由から始まり、自分が優しさにこだわっていること、そこに苦しみがあること、しかし、その苦しみを抱いていたからこそ今、大事にしたいことができたことまで引き出されるように続いた。
「大事にしたいことって、なに」
 焦って、怯えて、泣いて、安心して。そんな光樹に正常な判断力などない。まるで、夢を語るように言った。
「とある人と心中すること」
 この時ばかりは、波美の表情に強張りが見えた。
「とある人……?」
「僕はその人と最期を迎えることが、今はどうしようもなく大事なんだ」
 もはや、光樹は波美の存在を忘れているかのようにそう続けた。光樹の瞳は、目の前で緩やかな波を立てる珈琲だけを映している。すると、突如その珈琲が荒波を立てた。波美が光樹の手に自分の手を添えたからだ。
「それって、何よりも大事なこと?」
 カップの中の液体は、縁の際を滑って揺れた。光樹は返事に悩む様子もなく頷く。対面に寄せて散った珈琲が、波美の胸のあたりに色をつけた。
「ありがとう、話してくれて」
 波美はもう涙で濡れていない光樹の頬に手を添えて、親指で慰めるように撫でた。
「わたし、光樹くんの心中相手さんに会ってみたいな」
 光樹はこの申し出にどう返事をするかよりも、触れている波美の手のぬるさに気を取られていた。

 翌日、昼過ぎ。市郎太は自室で布団を敷き、さあ眠るぞ。と横たわって膝を抱えていた。暑くも寒くもない室温の中、ふかふかの毛布に包まれて、ぬくもりと曖昧な意識を楽しむ。市郎太は、この時間だけは人間としての一切の責務を放棄できるような気がしていた。
 体の中で軸が揺れて、意識をかき混ぜるような感覚と、脱力感。それが、こんなにも心地が良い。今日ばかりは、光樹が来ても出てやれないかもしれない。そんな風に市郎太が考えていると、ちょうど呼び鈴の音がした。しかしまだ、その音だけでは光樹なのかセールスなのか、はたまた何かしらの勧誘なのかも分からない。市郎太は微睡みの相手をすることを選んだ。
 少し経つと、今度は携帯に通知が来た。すると、その直後に着信を知らせる振動が市郎太の眠りを妨げる。渋々画面を見れば、光樹の名前が表示されていた。市郎太は目元を手のひらで擦ると、応答のボタンに触れた。
「どうした」
『あ、市郎太さん。お休み中でした?』
「用件は」
『ご自宅、お邪魔しても良いですか?』
「勝手にしたまえ」
 通話が終了する。玄関からガタガタと戸を開けようとする音が聞こえた。もう一度、着信する。
『市郎太さん、鍵を開けてください』
 通話を終了させる。観念した市郎太は、布団に横たわる前よりも格段に重く感じる体を努力して玄関まで運んだ。そして、鍵を開けて戸を開けてやると、そこに光樹ともう一人、市郎太にとっては見知らぬ女性が立っていた。
「開けてくださってありがとうございます。えっと、彼女は僕と昔お付き合いをしていた、天谷波美さんです」
「こんにちは。突然、お邪魔してすみません」
 市郎太の眠気が覚めていく。なぜ、光樹が先日少し話題にした程度の元恋人を連れてきたのか。市郎太は光樹と波美、二人の正気を疑った。
「帰ってくれ」
「そんな」
「私を君達の事情に巻き込むな」
 不機嫌を顕にする市郎太を前にして、光樹は引き下がろうとしない。こういった頑固な面に優しさを付け加えようという気はないのだろうか。と、市郎太は心の中で悪態をついた。光樹は申し訳なさを顔に出しているが、市郎太にとっては疑わしい。
「少しで良いので」
「具体的な時間は」
 光樹は波美の顔色を窺った。
「十分程度です」
 波美が答える。
「長い」
「質問を二つだけ、それだけなんです」
 波美まで引き下がる気配がなく、市郎太は行き場のない感情を込めて光樹を睨んだ。

 居間に三人、初対面の二人。光樹が早速、茶を淹れようと立ち上がると、市郎太は咄嗟に光樹の服の裾を掴んだ。
「お茶を淹れようと思うのですが」
「必要ない。質問を二つだけだ。茶が冷める間もないだろう」
 市郎太の口調には懇願の色も見えた。波美と二人きりになることをどうしても避けたいようだ。光樹はまた、波美の顔色を窺った。
「お構いなく」
 ゆるく首を横に振る波美を見て、光樹は元の場所へ座り直す。何も言わない市郎太が視線で波美に会話を促すと、波美は慎みのある態度で話し始めた。
「改めて、突然の訪問、失礼致しました。天谷波美と申します。今日は、那挫さんのことをお伺いしたく参りました」
 伸びた背筋に、膝の上で重ねられた左右の手。慇懃で、それでいて取り繕った感じのない波美に、市郎太は対人において初めての感覚を得ていた。この感覚に名前を付けるとするならば「無印象」だと市郎太は考える。好ましさも感じなければ、特に不快感も感じない、そんな感覚だ。
「では、まず一つ目の質問をさせていただきますね」
 返事もしない市郎太を相手に動じる様子もなく、波美は口を動かす。
「光樹くんから、彼と心中の約束をなさっていることをお聞きしました」
 市郎太はやはり、と思った。
「そこで、お尋ねしたいことが、那挫さんは光樹くんと心中をいずれされるとして、そのことに対してどれほどのお気持ちでいらっしゃるのでしょうか?」
 波美の質問で、光樹が一層この会話に興味を持ち始めたことが市郎太には分かった。
「どれほども何も、計り知れるものだ。私達は確かに自害を共にする約束をしたが、死を共にする約束まではしていない。まして、その約束は死に急ぐような誓いでもない」
 そして、今度は表情を曇らせた光樹に市郎太は気が散って、僅かに苛立った。その光樹の様子から、以前のすれ違いの発端となった自分の発言を思い出したからだ。
 ——「君は、死を前向きに考えている」
 ——「しかし私は、死を後ろ向きに考えている」
 この考えの相違は消えていないと、市郎太は感じている。そして、その相違を感じているのは、今この場で市郎太ただ一人ではなかった。
「お答えいただき、ありがとうございます。では、二つ目の質問をさせていただきますね」
 波美は光樹を見た。光樹は手元を見ている。
「那挫さんは、光樹くんのことをどう思っていますか?」
 光樹が顔を上げる。市郎太はあえて悩んでみせた。市郎太が「そうだな」と考える素振りを見せれば、光樹は期待を含んだ臆病な眼差しで市郎太を見つめた。
「性悪説の権化、そのように思っている」
 だからこそ、市郎太は正直に答えた。
「善の心を知らず、善人になろうとしている。一途な人間だ」
 嘘もなければ過大な評価も蔑みもなく、忌憚すら一切ない。この回答がお気に召したのか、波美は表情を綻ばせた。
「二つとも答えてくださってありがとうございます。では、お約束通りお暇しますね」
 波美は潔く立ち上がって部屋を去ろうとしている。少し遅れて光樹も立ち上がると、二人とも出て行く時には「お邪魔しました」と居間の出入り口で頭を下げた。
 玄関の戸が閉められる音が聞こえると、そこでやっと、市郎太は波美の纏う空気に呑まれかけていたことに気づいていた。

 光樹は波美を駅まで送っていた。また、会おう。そんな言葉を交わしてから、二人は互いに無言だが気まずさはない。光樹の頭の中は、市郎太の言葉の解釈でいっぱいだ。
 そこで不意に、波美が振り返った。
「ねえ、光樹くん」
 光樹が返事をするより先に、波美は次の言葉を口にした。
「わたしと一緒に死んでくれないかな」
 波美の口振りは、まるで告白のようだった。
「わたしなら、光樹くんと同じ気持ちで死ねると思うな」
 少し向こうの踏切で、電車が通過した。波美から死の欲求は感じない。光樹の内側から込み上げたもやが、頭の先まで達すると耳鳴りに変わって視界を歪ませた。
 くらり。と、足元まで侵食されてよろめく。それを支えた波美の腕に、光樹は思わず手を添えた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 波美に背を撫でられれば、光樹はたった今、全ての居場所を失くしたような気分に陥っていた。

 季節は春。道を歩けば馴染みのある草花が目につくし、肌で感じる気温も暖かで心地が良い。方々で桜が咲いているし、散った花弁が歩道を飾っている。そんな春を、光樹は目一杯に感じていた。まるで、今年になって初めて、春が訪れたことに気がついたかのように。
 それが、光樹なりの現実逃避だった。現在、自分がおかれている状況から目を逸らすために、現実の景色に目を向ける。思考の世界から逃げるための手段だった。どうして逃げたいのか、それすらよく分からず、光樹は大学で、普段よりも格段に集中して講義を受けていた。
 昼休憩になり、光樹は買っておいたコンビニのおにぎりを三つ取り出す。そして、一口目を食んだ時、ふと自分の目の前に立っている人物がいることに気がついた。咀嚼しながら視線を上へ向けると、そこにいたのは紗綾だった。紗綾は前の席の椅子を後ろに向けると、光樹と対面するように座る。怒っているような、呆れているような、そんな顔をしていた。
「もう放っとこうかなとか思ったけど、ちょっと無理だったみたい」
 頬杖をついて、じっと見つめてくる紗綾を眺める光樹は、少し経ってからその発言の意図を読んだ。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「和澄さんには、関係ないし」
 光樹は、間違えた。と思った。突き放すような言い方は優しさに欠ける。しかし、弁明しようにもうまく言葉が出てこない。そんな光樹に紗綾は「関係あるよ」と、平然と返した。
「あたしが心配して、光樹は心配されてる。それだけで関係ってあるし、できるものだと思う」
 それから紗綾は、意味もなく周りを気にしながら続けた。
「それに、ほら、関係性って結局は心の繋がりじゃん。だから、何が言いたいかっていうと……」
 言葉にまごつく紗綾から、光樹は不思議と優しさを感じていた。昼食を後回しにしてまで自分の心配をしてくれている。そんな紗綾の様子を受けて、光樹は軽く自己嫌悪をした。
「まあ、とにかく! あたしで良ければ、話聴くから。メッセージでもいいし。じゃあ、それだけ」
「待って」
 光樹に引き留められて、紗綾は素直にその場から離れるための動きを止めた。
「心配かけてごめん。それと、ありがとう」
 光樹はいつものような笑顔ではなく、真剣な表情でそう伝えた。
「おにぎり持ったまま言わないでよ、そんな大事なこと」
 思わず紗綾は表情を綻ばせる。光樹の心が、つられるように和らいだ。

 程なくして迎えた水曜日。光樹は講義も予定もなく、一日空いていたため、市郎太の家へ向かおうとしていた。電車に乗って、最寄りの駅からすっかり慣れた道を歩いていく。そうしているうちに、徐々に足取りが重くなった。光樹は不思議に思う。市郎太と会うことに抵抗があるような気持ちにさえなっていることを。今、自分の心の中で何が悪さをしているのか。それを考えようとして、怖くなって、光樹はまた五感で春を感じ取った。
 その後、光樹は逃げ込むように、通りがかった喫茶店「メルシー」の中へと入る。入店を知らせるベルの音が鳴れば、ウェイトレスの小鳩と店主の森河が「いらっしゃいませ」と、迎え入れてくれた。
 小鳩が軽やかなローファーの足音と共に、光樹を席へと案内する。また、来店してくれたことにはしゃぐ小鳩だったが、光樹の様子を見てその喜びを口にすることはなかった。
 光樹が小鳩からメニューを受け取ると、小鳩は光樹の対面に座って姿勢を正す。さも、当然のように居座る小鳩を、光樹は煩わしく思わなかった。
「流々木さん、那挫さんに何か意地悪でも言われたんですか?」
 メニューに視線を向けたままの光樹にも、小鳩の声色から心配していることがよく伝わっている。光樹は先日の紗綾の発言を思い出していた。
「分かりません」
 だから、話すことを選んだ。小鳩は指を組んでやや前のめりになる。
「何が分からないんですか?」
「僕が今、何に悩んでいるのか。それすら、分からないんです」
 小鳩は神妙な面持ちで頷いた。
「じゃあ、思いっきり、とことん、あれこれ頭がいっぱいになるまで悩み尽くす必要がありますね」
 それから、まるで臨床心理士のような顔をしていたかと思えば、ぱっといつもの溌剌とした笑顔を咲かせるのだ。
「その前にはまず、お腹を満たしましょう! 考えごとの際に空腹は禁物です」
 光樹は小鳩の明るい態度が、自分の知らない優しさで満ちているようだと感じていた。

 注文を済ませて運ばれてきたのは、クリームパスタとアイスコーヒーだ。
「いただきます」
 フォークにパスタを絡ませる。
 光樹は、小鳩の助言通り「頭がいっぱいになるまで悩み尽くす」を実践してみることにした。自分がいったい何に悩んでいるのか、それをまず考えようとしてみる。
 パスタにクリームソースが絡む。
 そもそも、いつから自分の心にもやがかかっているのか。蟠りと呼ばれるこの感覚の原因とは何なのか。
 こぼさないように口へ運ぶ。
 記憶の手前で波美が綺麗に微笑んでいる。波美の口元が、何かを伝えようとして動いている。
 咀嚼をして、温かさが口内から全身へと広がる。
 そうだ、あの時だ。「わたしと一緒に死んでくれないかな」と波美が自分に言ったあの時からもやが心に居座っているんだ。
 二口目、三口目と、光樹は答えを求めるようにパスタを頬張る。
 その時、付随して思い出した「わたしなら、光樹くんと同じ気持ちで死ねると思うな」という波美の言葉。光樹の思考が立ち止まる。その波美の言葉で受けた衝撃を思い出していた。そう、強すぎる衝撃であってそこに喜びはなかった。それは何故だろうか。
 フォークを置いて、アイスコーヒーのグラスを手に取る。そのまま、口をつけて香り高い苦味を流し込むと、癒される特有の風味が光樹を満たした。
 ——「一緒に死んではくれないか?」
 市郎太に言われて光樹はあの時、確かに救われたような気持ちになった。
 ——「善の心を知らず、善人になろうとしている。一途な人間だ」
 その市郎太の言葉に傷ついて、そして、嬉しくなった。
 食べて、飲む。光樹は縋り付くように食事を進めた。
 そうしてまた、立ち戻って悩む。たくさんの言葉、同じような記憶と感情、そして、二人の人物。堂々巡りのような思考は、徐々にその散漫とした状態を変化させていった。
「ごちそうさまでした」
 空になった皿とグラス。光樹は自分の悩みが掴めたような気がしていた。結局、悩みの形は天秤で、その皿の上にそれぞれ市郎太と波美がいる。それだけだった。後はよく見て、どちらの皿の方が重く下がっているのかを判断するだけなのだ。光樹の心のもやは、薄まって消えていった。
 そこへ、小鳩が食器を下げにやって来た。光樹は店に入ってきた時よりも、ずっと晴れやかな顔をしている。
「小鳩さん、ありがとうございます。小鳩さんの助言のおかげで、良い方向へ進める気がします」
 小鳩は食器をトレーにまとめながら「どういたしまして」と笑った。
「でも、どうしてこんなに最適な解決法を知っていたんですか?」
 光樹がそう尋ねると、小鳩は誇らしげな顔をして、
「凪の前には時に嵐も必要だと、経験上知っていただけです」
 と、格好つけな調子で述べた。光樹は感心する。自分より幾つも年下な小鳩が、まるで人生の先輩のように思えた。
 しかし、ここで光樹は疑問に思う。
「そういえば、小鳩さん。学校は……?」
 トレーを持ち上げた小鳩の動きが止まる。今日は平日の水曜日。十七歳の小鳩は学校に行っていてもおかしくはない時間帯でもある。光樹は短く空いた間に、もしかすると軽々しく訊くことではなかったかもしれないと焦りを感じた。しかし、小鳩はあっけらかんとして言った。
「小鳩は今日、学校ないです! 通信制の高校に通っていますので」
 そして、そのまま会釈をすると、小鳩は食器を乗せたトレーを持ってカウンターの方へと行ってしまった。光樹は意外だ、と真っ先に思ったが、そこに偏見や思い込みがあるとすぐに省みた。

 市郎太に会いにいく。光樹にはもう、躊躇いはない。桜の花びらが頬を掠めても、それに見向きもしなかった。
 だがしかし、市郎太の自宅前で光樹の足は止まった。そこに居たのだ。玄関の前に、天谷波美が。光樹は思わず、怖がったように後退りをした。その様子を、波美は見ていた。
「どうして」
「ねえ、少しだけ、わたしに時間をくれないかな」
 波美の微笑みには悲しみも表れている。光樹は彼女のことを放っておけないような、しかしそれでいて、波美の話を聞きたくない気持ちがあった。天秤の皿が揺れる。
「わたしね、人に優しくすることしかできないの」
 一瞬、光樹は波美の言っていることの意味が分からなかった。優しさという自分が手を伸ばしているものを、波美はしがらみのように感じている。そのことが、言葉の解釈として理解ができても、同情に至るような心の理解ができなかった。
「どんなに傷ついても、許すことしかできないの」
 光樹は罪悪感を感じた。自分も波美を傷つけて、許されていたのではないかと。
「人を助けることが、息をすることより大事なの」
 光樹は波美に、市郎太との心中が何よりも大事だと言った。それを思い出していた。
「心の綺麗なことだけを口にして生きていたいの」
 光樹は波美に共感した。その気持ちだけは、同じように理解することができた。そうして、自分の内面ばかりに気を取られていた光樹は、波美の波打つような声色に気づいていなかった。だから、波美が左目から涙をこぼした時、真っ先にこう言ったのだ。
「笑ってる……」
 見たままに、違和感の指摘をした。波美は絞り出すように声を出す。
「そうだね。わたし、笑いながら泣いてるね。光樹くんと一緒だね」
 一緒。光樹にはとてもそうとは思えなかった。自分と波美では、あまりにも抱え込んでいるつらさの形が違いすぎる。自分が性悪説の権化ならば、波美はきっと性善説の権化だと、光樹は感じていた。
 波美は流れて伝う涙をそのままに、首を傾げる。
「ねえ、光樹くん。光樹くんは死にたいの? 生きたいの?」
 突飛なようで、二人の間では当然のような問いだ。光樹は数秒間の熟考を経て答える。
「死にたいと思いながら、生きたいんだと思う」
「『思う』?」
 波美は不安を顔に出した。光樹は視線を少し下に向けて、独り言のように話した。
「市郎太さんがきっとそうだから。僕は市郎太さんと同じ気持ちで、同じくらいの死にたさと生きたさを持って、最期を迎えたいよ」
 聞き届けた波美は、微笑んで涙を袖で拭った。
「良かった」
「何も良くない」
 波美は驚いて後ろを振り返り、光樹は視線を上げた。そこには、いつの間にか玄関から出てきた市郎太がいた。
「私は生きたいと思いながら、死にたいのだよ」
 表情に明るさが灯った光樹は、食いつくように尋ねた。
「それは、どうしてですか?」
「私が正常な凡人だからだ」
 光樹が市郎太に歩み寄れば、そっと波美は横へ退いた。
「市郎太さんには才能がありますよ? 凡人ではありません。だって、素敵な作品をたくさん書いて——」
「ああ、ああ、喧しい。それで、話は済んだのか」
 市郎太に好意的でない視線を向けられた波美は、浅く礼をする。
「はい。ありがとうございます」
 それから、波美が光樹を一瞥すると、市郎太は玄関の戸を開けた。
「光樹、君は家にあがっていたまえ」
 それから、市郎太は光樹を言いくるめるような理由を付け加えようとした。しかし、光樹は素直に「分かりました」と言って、家の中に入っていった。
 戸を閉めて、市郎太は息を吐きながら腕を組む。波美は涼やかな顔で両手を揃えた。
「那挫さん、光樹くんに希望を持たせてくれて、ありがとうございます」
 それから、深々と頭を下げている。市郎太は眉を顰めた。
「まるで、母親だな。恋慕というより慈愛のようだ」
 顔を上げた波美は淑やかに笑い声をこぼした。それから、光樹が入っていった玄関の戸の先を見つめる。
「でも、本当に良かった。光樹くんの一番大事にしたいことが、これで最期まで貫けそうで」
 市郎太の言う通り、慈愛に満ちた瞳で波美は光樹を想っている。そんな様子に、市郎太は白けを顔に出していた。
「君は、どうしようもなく我儘だな」
 波美の両の瞼が僅かに動いた。市郎太に向き直ったその瞳には、まるで先ほどまでよりも感情がこもっているようにも見える。
「よろしければ、理由を訊きたいです」
 市郎太は面倒だとも思いつつ、波美のその反応を良いことだとも感じていた。だからこそ、目を離さずに、はっきりと伝えるのだ。
「君は確かに他者に優しくし、救おうとする。そうしたい気持ちに嘘がないのも確かだ。しかし、同時に君自身も救われようとしている」
「どうして」
「君は光樹に優しさを強請った。君の中の暗がりをまざまざと見せつけて、最後の最後で手を取り合おうとした」
 淡々と述べられたことは、波美にとって全て事実であり、触れられると痛むものでもあった。波美は認めるように頷いて、その微笑みに悲しみを含ませた。
「勘違いをしないでくれたまえ。君は何も悪くない」
 波美の目に、日の光が差し込んだ。
「ただ、人並みに欲張りなだけだ」

 市郎太が自宅内に入ると、光樹が居間の襖からこちらを覗き込んでいた。
「お帰りなさい」
「他に言うことが……まあ、いいだろう」
 それから、居間の中へと入った市郎太が真っ先に目にしたのは、机の上に置かれた光樹の遺書であった。
「市郎太さん、僕、謝りたいことがあるんです。聞いていただけますか」
「独りよがりな内容でないならば聞こう」
 すると、光樹は座布団を避けて畳の上に直に正座をした。市郎太は、何だ何だ。と思いつつ、光樹の正面に座布団を寄せて正座をした。
「僕は市郎太さんと心中をする約束をしていながら、波美さんからの心中のお誘いを、はっきりとお断りできませんでした。本当にすみませんでした」
 両手は膝についたまま、頭を下げる光樹。
「そうか。軽蔑しよう」
「そんなっ」
 焦る光樹だったが、市郎太の表情を見て、それは戸惑いに変わった。
「冗談だ。結局、君はその天谷波美からの誘いを断るつもりでいるのだろう。だったら、私は君を非難するつもりはない」
 光樹は二度、瞬きをした。
「どうして、僕が断ると分かるんですか」
 市郎太は畳に人差し指を二度、突くように押し当てた。
「君は私に後ろめたいことがあると、ここへは来ない」
 そして、机の上の遺書を手に取って眺めている。ふと、光樹に視線を戻した市郎太は、まだ、光樹が何かに思い悩んでいることを察した。
「僕は」
 その視線に気づいた光樹は、自ら語り始める。
「波美さんを責めたい気持ちもあるんです。僕と市郎太さんの約束に割り込むようなことを言ったから。でも、彼女は何も悪くないんです。だって、きっと波美さんは僕のことを——」
「まるで、自傷行為だな」
 光樹の口が止まる。それは、説明の要求と同意であった。
「君は、相手に向けようとした刃物を素手で押さえ込んで、その刃で自分を傷つけている。それは、一種の優しさのようにも思えるが、実際は随分と間抜けな自傷行為だと私は思う」
 また、光樹の中にある優しさの教科書の一部分に修正が入れられていく。
「柄の部分をしっかりと握っていれば良いだけの話なのだよ。わざわざ刃の部分を握ることはないし、切先が相手に向いたままでも良い」
 話し終えた市郎太は、光樹の表情が和らいだのを見て、心が落ち着きを得るのが少しだけ面白くなかった。
「市郎太さんの優しさは、胸が痛くならないから、心地よく受け入れられます」
「当然だ。優しさではないからな。私はただ、君の気に入らない部分を平らにしてしまおうとしているだけだ」
 話を聞いているのかいないのか、光樹は市郎太の手から、自分の遺書を抜き取った。
「また、書き直したいですね」
「もう、付き合わないからな」
「大丈夫です。一人で書けます」
 光樹の眼差しは、とても遺書を見つめているとは思えないほど和やかだった。その様子を見た市郎太は、自分と同様、光樹の遺書もいずれ手紙としてではなく、日記のような役割を背負う未来を予感していた。
「ところで、市郎太さん。前に槙原さんに言われていた恋愛作品ってどうなったんですか?」
 市郎太は苦い過去を思い出したかのような顔をした。恋愛作品のこともだが、光樹の復縁物語の行く末を気にしていた、慎二への説明が何よりも億劫だった。
「君が気にすることではない。どうにかなる」
「そうですか」
 光樹がリュックを漁り始めると、市郎太は一度部屋を出ていき、すぐにノートパソコンを持って戻ってきた。便箋と筆箱を取り出した光樹は、そんな市郎太を不思議そうに見つめている。
「何だ、もう一人で書けるのだろう」
「そうですけど……」
 光樹の視線もお構いなしに、市郎太は執筆作業を始めた。しばらくして、光樹も便箋にペン先を当てた。それから、やけに上機嫌で遺書を書き進める光樹を、市郎太は時折、画面から視線を外して見ていた。
 市郎太と光樹、二人は互いに価値観も考え方も死生観も違うことに気づき、感じていながらも苦しくなかった。
 パソコンの画面上に文字が並ぶ。
 ——「互いに受け入れられなくなった時が別れの時だ」
 市郎太はこの一文を少しだけ気に入っていた。

                                     終

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