見出し画像

根本彰『アーカイブの思想』

根本先生から送っていただいた。

読み終えて思った最初のことは、「このようなテーマの本をいつか、遠い将来、自分の手で書いてみたい」ということと、「でもそれが今目の前に存在してて、しかも自分よりももっと素晴らしい書き手によって書かれているというのは、幸せなことだな」というものだった。

「図書館史」を標榜していない図書館史の本でもある。参考文献が多く挙げられているので、これを機にさらに勉強を深めることができる。

日本の思想史を勉強していると、必ず、思想が伝統として蓄積されていない問題…「過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない」(丸山眞男『日本の思想』)という問題に直面する。新しいものを装って登場したように見える思想が、(言ってる本人も気づいていない場合を含めて)昔の焼き直しだったりする事態である。

この論点について、本書の回答は明確である。それは一人一人の勉強不足とかの問題ではなくて、なによりアーカイブの思想が未成熟であることに起因するということになる。

関連して、第7講で展開されている東西の形式陶冶と実質陶冶の知識観の違いに関わる論点は、教育学について詳しくない自分には刺激的であった。

ただ、これは私が歴史学出身だからなのろうが、図書館情報学の見方と異なると感じる個所もあった。たとえば第1講で、「従来は歴史学は残された文書・記録類を史料としてきたのですが、ようやく意識的にアーカイブ化することが歴史研究につながるという認識に至ってきました」(p.20)というのが、おおよそ何年頃の事態を指しているのかが、よくわからなかった(この点は私の恩師が同書書評でやはり類似の指摘をされている)。

また、第9講の参考文献で、『岩波講座 日本の思想』の「場と器」を取り上げられているのを見て思ったことだが、この論集は、私の理解では、通常言われるところの「メディア」を扱ったものだと思うので、メディアの思想的な前提と、アーカイブの思想的な前提は、どのような関係として捉えるべきなのも気になった。この前ある研究会での発表で概念整理を試みたのだが、その後の討論でもあまり上手に深めなれなかったし、私自身、この整理はまだうまくできていないのだと思う(一応恥を忍んで晒してみるが、このままだと駄目だと思う)。

それでも、「日本で図書館は本を無料で借りられる施設であったり居場所として使われたりしても、それ以上のものではなく、社会にとって不要不急の存在とされたのはなぜなのか」(p.10)という問いには、私もこれから、おそらく何度も立ち返ることになるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?