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「学生」と「生徒」

高校と大学での違いについて、1年生向けの必修授業で毎年喋っている気がする話題である。

高校までは学習指導要領があるんだけど、大学には無いんだよとか。あるいは高校でもらえるのは「生徒手帳」だったと思うけど、君たちがオリエンテーションでもらったのは「学生便覧」だよね?とか。「学生」と「生徒」の違いの話もある。

ゼミ生が自分たちを「生徒」と自称しているとやっぱりちょっと引っ掛かるというか、君ももう成人してるだからそういうのやめよ?…みたいな恥ずかしさを軽く覚えてしまう自分がいる。

大学生は「生徒」ではありません。「学生」です。何が違うのか。
高校までは生徒でした。先生が間違いのないことを教えてくれ、あなたたちは、それをそのまま受け止めていればよかったからです。まさに「先生の徒(教え子)」です。しかし、大学は違います。先生が教えていることは100%間違いのないこととは言えないからです。先生の言うことを鵜呑みにせず、「本当かな」と自分の頭で考える。学生、まさに「自ら学ぶ者」なのです。あなたが大学に進学したら、誇りをもって「私は学生です」と言いましょう。

池上彰「自ら問いを立てること」
上田紀行 編著『新・大学でなにを学ぶか』(2020、岩波ジュニア新書)p.8

池上さんの解説である。確かにこのような能動的な学びと受動的な学びの違いこそが「学生」と「生徒」を分けるものなのだと、かつて私もうっすら聞いたことがある。両者は学校教育法上では明確に区別されているので(初等教育を受ける者が「児童」、中等教育を受ける者が「生徒」、高等教育を受ける者が「学生」)、自分も学生を生徒と呼ばないようには気をつけている。

NHKもそうしているらしい。

ただ、この「学生」と「生徒」の違い、法的にはともかく、英語だとstudentだし中国語だとxueshengだし(daxueshengはありそうだが)、いまやあまりグローバルではないのでは?という考えもできる。

色々説明の方法を考えていたら、なんと論文があった。大変興味深かった。

学生と生徒の呼称の区別は明治時代から存在しており、学生は生徒よりも上級のものとして位置づけられたこと。どうも生徒と区別された「学生」の呼称定着に、明治14年ごろの加藤弘之が一枚嚙んでいるらしいこと、などが書かれている。優勝劣敗と関係あるのか。

じゃあ次世代デジタルライブラリーとかで全文検索すると何か出るんだろうか?などと少し検索していたらいくつかでてきた。1つだけあげると、平沼淑郎 著『論理学 : 通信教授』(1886年、通信講学会)という本があった。刊行は明治19年だが、すでに

学生と生徒とは同義なる可けれども今日に於ては大学の本科生を学生と称し其の他の学校生を生徒と申す様に相定められたり

というのが書いてあって、こういう混用は特に論理学で慎まないといけないんだという話が続いていく。

平沼淑郎 著『論理学 : 通信教授』(1886年、通信講学会)

こういう論文もあった。

学生が生徒と区別されたのは、大学生の特権性・エリート性に関わるものだったが、進学率が上昇し、大学生が珍しくなくなるなか(つまり教育が大衆化していくなか)で、学生は「生徒化」していくのか?ということが検証されている。

両者の区別が、戦後のことではなくて、明治以来の区別まで遡れそうだというのはわかった。昔に比べて、大学が、色々悩ましい面があるのは否めないけれど、例えば単位の実質化とか履修のルール一つ取っても「学生」をいろんな規則でしばって、「生徒」扱いしてる面は本当にないのか?と自問もする。
「学生」が「学生」として誇らしく自称してもらう、そういう教育を提供すること、なのだけれど。

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