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古典から遠く離れて?

院生のころ、これで自分が日本思想史の研究者らしくなれたのではないかなと思ったのは、古本で『丸山眞男集』を揃えたときのことであった。

古書店から届いたダンボール箱から取り出して書架に並べたとき、なんだかその事実に感動してしまった。ちょっと引っ張り出して読むととても刺激的で、「何かちょっとした一言に体がカッカしてきてテンションがあがります。栄養ドリンクみたいです」などと周囲に言い続けていたら、「お前それで体壊すなよ」とあきれるように窘められた記憶もある。

丸山の作品は「古典」であると同時に「明治国家の思想」とか「個人析出のさまざまなパターン」などの論文は、何とかしてその先に行かねばと思う作品であった。また、『「文明論之概略」を読む』も、もちろん何度かは読んだはずだった(それに博論の序章では引用もしている)。

昨年、ある社会人向け講座で「明治時代に書かれた日本文化論の著作を読む」みたいな話をすることになって、「さて古典を読むとは・・・」ということを整理し直そうと、再び同書に接近を試みた折、今までさほど気に留めていなかった一節が急に目に留まった。本との出会いにはそういうことが少なからずある。二度目の方が一度目より良く読めるということだ。

「古典離れ」の背景には二つの要素の複合が推察されます。第一は、客観的な規準とか確立された形式というものが手応えのある実在感を喪失した、という問題です。第二には、新刊・新品・新型をたえず追いかけないと気が済まず、そうしないと「時代遅れ」になるという不安感です。こういう精神態度が、二つながら戦後日本に置いて増幅されたのは確かですが、果してそれほど最近の現象でしょうか。「今時の若い者」に限られた傾向でしょうか。私は必ずしもそうでなく、これには長い歴史的・文化的背景があるように思うのです。
『集』13巻、p.15

この文章が書かれたとき、丸山が読者として想定していた「ヤング」世代は今やほぼ例外なく還暦を迎えていると思う。
さて私が、これのどこに引っ掛かったかというと、「新刊・新品・新型をたえず追いかけないと気が済まず、そうしないと「時代遅れ」になるという不安感」である。これは、実は2020年代の今とうとう消滅したか、あるいはほぼ問題にならなくなったのではないか。ということだった。

ひょっとしたら見当違いのことを書いているかもしれない。

サブスクリプションというのがある。定額の動画配信サイトで昔のアニメを見たり、音楽サービスで、新しいんだか古いんだかわからないプレイリストを作って、流して、消費する。

去年あたりテレビ時代のエヴァンゲリオンを視聴してから映画を見に行くとか、そういう人が結構いたと聞く。リアルタイムで経験していない若い人に予備知識を提供するものとして、しだいに浸透してきている電子書籍とかデジタルコンテンツの産業というのは何だろう。slam dunkだって私たちの世代が中学生のころだった。

電子書籍時代の「古典」とはなんだろう、どのような形で存在するのだろう?みたいなことを思う。
古典の古典としての評価は、不動ではない。サブスクリプションで聴ける音楽にしても、作品自体の価値のほかに著作権の壁のようなものは感じる。まだ活動を継続している人の1970年の曲は聴けるのに、1990年代に好きだったのに解散してしまったバンドの音楽は聴けなかったりする。

書店なCDショップが衰退仕切ってしまうと生じる問題も、そのあたりにあるかもしれない。自分から探しにいくのではなく、向こう側からサービスてもらう、そのフィルタリングが自明になるなかでの古典とはなんなのだろうかと。

あまり結論はない話なのだが。



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